25話 殿下にも、選びたい未来がございますの?
園遊会から三日が過ぎた。
王立セレファイス学院では、春の陽気が少しずつ初夏の気配へと変わり始めていた。中庭の花壇には新しい花が咲き、開け放たれた教室の窓からは、心地よい風が入り込んでくる。
そんな穏やかな昼休み、オクタヴィア・ローゼンフェルトは少々困った事態に直面していた。
「オクタヴィア様! 園遊会でのご活躍、伺いましたわ!」
「……エレノア。そのお話は、今朝もいたしましたでしょう?」
「ですが、何度聞いても素敵なお話ですもの!」
向かいの席で目を輝かせるエレノアに、オクタヴィアは呆れたように紅茶のカップを置いた。
園遊会が終わってからというもの、学院では何かとその話題を振られることが増えていた。第二王子の婚約者として初めて本格的な接遇を任されたのだから、注目されるのは仕方がない。
もっとも、本人としては、そこまで大げさなことをしたつもりはなかった。
「わたくしは、決められた役目を果たしただけですわ。殿下や儀典官の方々に助けていただいた場面も多かったですし」
「それでも、立派にお務めになったのでしょう?」
フェリシアが微笑む。
「父も申しておりましたわ。ローゼンフェルト公爵令嬢は、以前よりずっと落ち着いたご様子だったと」
「……まあ」
オクタヴィアは僅かに眉を上げた。
「それは、褒め言葉として受け取ってよろしいのかしら」
「もちろんですわ。ただ、父は少々驚いていたようですけれど」
「でしょうね」
自分でも驚くくらいなのだから、以前の姿を知る貴族たちが戸惑うのも無理はない。
オクタヴィアが小さく笑うと、ナタリアが控えめに口を開いた。
「……あの、オクタヴィア様」
「何かしら?」
「以前、わたくしたちで練習したことは、お役に立ちましたでしょうか」
その問いに、オクタヴィアはすぐに頷いた。
「ええ。特にナタリア、あなたの練習は大変参考になりましたわ」
「まあ……!」
「実際に、以前のわたくしの振る舞いについて遠回しに尋ねてこられた方がいらっしゃいましたもの。あの練習がなければ、もう少し慌てていたかもしれません」
ナタリアは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、よかったです」
「ええ。本当に助かりましたわ」
オクタヴィアは素直に礼を述べた。
すると、エレノアが勢いよく身を乗り出した。
「では、わたくしの練習もお役に立ちましたか?」
「……そうですわね」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
「少なくとも、園遊会で突然お菓子の話を始める侯爵夫人はいらっしゃいませんでしたわ」
「まあ!」
エレノアが頬を膨らませ、フェリシアが吹き出した。
ナタリアも小さく笑っている。
その様子を見て、オクタヴィアも思わず口元を緩めた。
こうして友人たちと他愛のない話をする時間は、最近の自分にとって、すっかり大切なものになっていた。
以前なら、園遊会でどれほど注目されたかを語り、自分の立場を誇示していただろう。
けれど今は、誰かに自慢するよりも、こうして笑い合っている方がずっと楽しい。
そのことが、少しだけ不思議だった。
◇
放課後。
オクタヴィアは図書室へ向かう途中、廊下の先で見覚えのある人物を見つけた。
金色の髪に、整った横顔。
第二王子エドガー・アルヴェインだった。
彼は窓際に立ち、手元の書類へ目を落としている。その表情はいつもより少しだけ真剣で、近づいてくるオクタヴィアにも気づいていないようだった。
「エドガー殿下」
声をかけると、エドガーが顔を上げた。
「ああ、オクタヴィア。どうしたんだい?」
「図書室へ向かうところですわ。殿下は……何かお仕事で?」
オクタヴィアが書類へ視線を向けると、エドガーは小さく苦笑した。
「王宮から届いた報告書だよ。園遊会のあとにも、いろいろと確認することがあってね」
「まあ。園遊会が終わっても、お仕事は続くのですのね」
「むしろ、終わってからの方が忙しいこともあるんだ」
エドガーは肩をすくめた。
「招待客から寄せられた相談や要望を整理して、担当部署へ伝えなければならないからね」
オクタヴィアは少しだけ目を瞬いた。
園遊会の準備が大変だったことは知っている。
当日も、王族の婚約者として振る舞うことの難しさを実感した。
けれど、そのあとにも仕事が続くということまでは、あまり考えていなかった。
「……本当に、休む暇がございませんのね」
「そうでもないよ。今日はこれを確認したら終わりだから」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
しかし、その目元には僅かな疲れが見える。
オクタヴィアは少しだけ考えた。
「……殿下」
「うん?」
「もしお時間がございましたら、少しお茶でもいかがでしょう?」
エドガーが驚いたように目を瞬いた。
「……君から誘ってくれるとは、珍しいね」
「まあ。婚約者をお茶に誘うことが、それほど珍しいことでしょうか」
「いや、そういう意味ではないんだけど」
エドガーは苦笑した。
オクタヴィアは少しだけ首を傾げた。
以前の自分なら、エドガーと二人きりになる機会を何とか作ろうとしていただろう。
けれど、こうして自然に誘うことは、案外少なかったのかもしれない。
「……お仕事のお邪魔でしたら、別の日でも構いませんわ」
「いや。ちょうど一段落するところだったから、ありがたいよ」
エドガーは書類をまとめた。
「では、少しだけ付き合ってもらおうかな」
オクタヴィアは小さく微笑んだ。
「ええ。喜んで」
◇
学院の中庭に面した小さな談話室は、放課後になると比較的静かになる。
窓際の席へ案内された二人は、紅茶と焼き菓子を注文し、向かい合って腰を下ろした。
「……改めて、園遊会ではお疲れさまでした」
オクタヴィアが言うと、エドガーは穏やかに笑った。
「君こそ。初めての役目だったのに、よく務めてくれたと思う」
「ありがとうございます。ですが、まだまだ勉強不足ですわ」
「そうかな。僕には十分立派に見えたけれど」
「まあ。殿下は少々評価が甘いのではなくて?」
「そうかもしれないね」
エドガーは楽しそうに笑った。
その表情を見て、オクタヴィアも少しだけ肩の力を抜いた。
以前は、彼と二人きりになると、何を話せば気に入ってもらえるかばかり考えていた。
けれど今は、沈黙があってもそれほど気にならない。
それだけでも、大きな変化なのだろう。
「……殿下」
紅茶を一口飲んでから、オクタヴィアは静かに口を開いた。
「以前、地方の視察がお好きだとおっしゃっていましたわね」
「ああ。覚えていてくれたんだ」
「もちろんですわ」
オクタヴィアは少しだけ微笑んだ。
「それで、少し気になったのですけれど……殿下は、将来どのようなお仕事をなさりたいのですか?」
エドガーはカップを置いた。
「……将来?」
「ええ。殿下は第二王子でいらっしゃいますから、王太子殿下とはまた違うお役目を担われるのでしょう?」
エドガーは少しだけ考え込んだ。
そして、静かに頷いた。
「そうだね。兄上が王位を継がれれば、僕は王族の一員として兄上を支える立場になるだろう」
「……そうですわね」
「ただ、具体的に何をするかは、まだ決まっていないんだ」
オクタヴィアは僅かに眉を上げた。
「そうでしたの?」
「ああ。王宮の政務に関わることになるかもしれないし、地方の統治を任される可能性もある。もちろん、兄上や父上のお考えにもよるけれどね」
エドガーは少しだけ苦笑した。
「……正直に言えば、僕自身もまだ迷っているんだ」
オクタヴィアは黙って聞いていた。
第二王子という立場。
それは、王太子ほど明確な未来が決まっているわけではない。
けれど、だからといって自由に生きられるわけでもない。
王族としての責任を果たしながら、自分にできることを探さなければならないのだ。
「……殿下は、どのような未来を望んでいらっしゃるのですか?」
そう尋ねると、エドガーは少しだけ目を瞬いた。
そして、窓の外へ視線を向けた。
「……難しい質問だね」
「そうでしょうか」
「うん。僕は、王族として役に立ちたいと思っている。でも、それが具体的にどういう形なのかは、まだ分からない」
エドガーは静かに続けた。
「地方の視察は好きだし、人々の暮らしに関わる仕事にも興味がある。けれど、それが本当に自分に向いているのかどうかも、まだ判断できないんだ」
オクタヴィアはゆっくりと頷いた。
「……そうでしたのね」
「意外だったかい?」
「少々」
オクタヴィアは素直に答えた。
「殿下は、もっとはっきりとしたお考えをお持ちなのだと思っておりましたから」
エドガーは苦笑した。
「……僕も、そう見えるように振る舞っていたのかもしれないね」
その言葉に、オクタヴィアは少しだけ胸が痛んだ。
以前の自分は、エドガーに完璧な王子であることを求めていた。
彼が迷ったり、弱音を吐いたりすることなど、考えもしなかった。
けれど、彼もまた一人の人間なのだ。
将来について悩み、自分の役割を探している。
そのことを、ようやく理解し始めた気がした。
「……殿下」
「何だい?」
「わたくしも、同じですわ」
エドガーが顔を上げた。
「……同じ?」
「ええ。わたくしも、自分が将来どうしたいのか、まだ分かりませんもの」
オクタヴィアは静かに微笑んだ。
「以前は、殿下の妃になることだけを考えておりました。ですが、今はその立場がどのようなものなのかを知り、自分が本当に望んでいるのかどうか、考えるようになりましたの」
エドガーは黙って聞いていた。
「……それでも、まだ答えは出ておりませんわ」
オクタヴィアは少しだけ肩をすくめた。
「まったく。将来のことを考えるというのは、思っていた以上に難しいものですわね」
エドガーは小さく笑った。
「……本当にね」
二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
そのとき、エドガーがふと口を開いた。
「……オクタヴィア」
「はい?」
「一つ、聞いてもいいかな」
「もちろんですわ」
エドガーは少しだけ考えた。
そして、静かに尋ねた。
「……もし、僕たちが婚約者でなかったとしたら、君はどんな未来を選んでいたと思う?」
オクタヴィアは言葉に詰まった。
婚約者でなかったら。
その可能性を、これまで真剣に考えたことはなかった。
幼い頃から、エドガーの婚約者であることが当たり前だった。
それが自分の未来を形づくる、もっとも大きな要素だったからだ。
「……そうですわね」
オクタヴィアは少しだけ考えた。
公爵令嬢として、家の仕事を手伝う道もあるだろう。
別の貴族家へ嫁ぐ可能性もある。
あるいは、学院で学んだことを生かし、何か新しいことに挑戦する道もあるのかもしれない。
けれど、そのどれも、まだ漠然としていた。
「……分かりませんわ」
オクタヴィアは正直に答えた。
「ですが、少なくとも、今よりもう少し自由に考えられたのかもしれません」
エドガーは静かに頷いた。
「……そうだね」
その表情は、どこか考え込むようなものだった。
オクタヴィアは少しだけ首を傾げた。
「殿下は、どうなのですか?」
「僕?」
「ええ。もし、わたくしとの婚約がなかったとしたら、どのような未来を望んでいらしたのでしょう」
エドガーはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……きっと、あまり変わらなかったと思う」
オクタヴィアは僅かに目を瞬いた。
「そうですの?」
「ああ。僕は王族だからね。婚約していなくても、王族としての責任は変わらない」
エドガーは少しだけ微笑んだ。
「ただ……」
そこで、言葉が途切れた。
オクタヴィアは静かに待った。
「……もう少し、自分の気持ちについて考える時間はあったかもしれない」
その言葉に、オクタヴィアは胸の奥が僅かに揺れるのを感じた。
自分だけではなかったのだ。
婚約という決められた未来の中で、考えることを後回しにしてきたのは。
エドガーもまた、同じように迷っていたのかもしれない。
「……殿下」
「うん?」
「わたくしたち、少し似ておりますわね」
エドガーは少しだけ驚いたように目を瞬いた。
そして、穏やかに笑った。
「……そうかもしれないね」
オクタヴィアも微笑んだ。
以前なら、エドガーと似ていると言われれば、きっと喜んでいただろう。
けれど今は、少し違う。
互いに迷いながら、それでも自分の未来を考えようとしている。
そのことが、何より心強かった。
◇
談話室を出た頃には、夕方の光が廊下へ差し込んでいた。
エドガーは正門まで送ると言い、二人は並んで歩いていた。
「……今日は、ありがとう」
エドガーがふと口を開いた。
オクタヴィアは少しだけ首を傾げた。
「何のお礼ですの?」
「話を聞いてくれたことだよ」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
「僕の将来について、あんなふうに尋ねられたのは久しぶりだったから」
「……そうでしたのね」
「うん。周囲の人たちは、僕が王族として何をするべきかはよく話してくれる。でも、僕自身が何をしたいのかを尋ねてくれる人は、案外少ないんだ」
オクタヴィアは静かに頷いた。
それは、少しだけ寂しいことのように思えた。
「……でしたら、これからはわたくしがお尋ねいたしますわ」
エドガーが目を瞬いた。
「……君が?」
「ええ。婚約者なのですから、それくらいは当然でしょう?」
オクタヴィアは少しだけ得意げに微笑んだ。
「もっとも、わたくしの話も聞いていただきますけれど」
エドガーは一瞬だけ驚いたように彼女を見つめた。
そして、声を上げて笑った。
「……もちろん。喜んで」
オクタヴィアも小さく笑った。
正門の前には、既にローゼンフェルト家の馬車が待っていた。
「では、殿下。また明日」
「ああ。また明日」
オクタヴィアは丁寧に一礼し、馬車へ乗り込んだ。
窓の外では、エドガーが穏やかに手を振っている。
その姿を見ながら、オクタヴィアはふと思った。
(……婚約者、ですか)
以前は、その言葉に特別な意味を感じていた。
第二王子の婚約者。
誰もが羨む立場。
けれど今は、少し違う。
婚約者とは、ただ隣に立つ相手ではない。
互いの考えを知り、迷いを聞き、ときには支え合う相手なのかもしれない。
もちろん、それが必ずしも結婚へ繋がるとは限らない。
けれど、少なくとも今は、エドガーという一人の人間を、もっと知りたいと思っていた。
「……まったく」
オクタヴィアは小さく笑った。
「以前のわたくしが聞いたら、何と言うでしょうね」
きっと、そんなことを考える暇があるなら、もっと殿下に好かれる努力をしなさいと怒るだろう。
けれど、今の自分はそう思わない。
誰かに好かれるためだけに、自分を変える必要はない。
自分がどうありたいのか。
そして、相手がどうありたいのか。
その両方を大切にできる関係を、少しずつ築いていきたい。
オクタヴィアは静かに目を閉じた。
馬車はゆっくりと動き出し、学院の門が遠ざかっていく。
春の夕暮れの中で、彼女はまだ答えの出ない未来を思い描いていた。
けれど、その未来は以前よりも少しだけ、明るく見えるようになっていた。




