2話 誤れば済むとは限らない
前世の記憶を取り戻した翌朝、オクタヴィア・ローゼンフェルトは早くも後悔していた。
「……どうしてこうなりましたの?」
目の前に積み上げられた紙の束を眺めながら、思わず呟く。
昨日、これまでの自分がしてきたことを思い返した結果、さすがに何もしないまま学院へ入学するのはどうなのか、という結論に至った。
そこでマリアンヌに頼み、ここ数年で自分と関わりのあった令嬢たちの名前を書き出してもらったのである。
問題は、その人数だった。
「多すぎませんこと?」
「お嬢様がご用意するようにと仰いましたので」
「それは分かっていますわ。わたくしが聞いているのは、どうしてこれほどの人数になるのかということです」
マリアンヌは答えなかった。
「…………」
「…………」
「何か言いなさい」
「よろしいのですか?」
「言いなさい」
「お嬢様が、それだけ多くの方々と揉めてこられたからではないでしょうか」
「…………」
正論だった。
昨日から、やけに正論が刺さる。
「……あなた、以前より随分と遠慮がなくなっていませんこと?」
「言いたいことがあるなら言うように、と昨日お嬢様がお命じになりましたので」
「そうでしたわね……」
余計なことを言ったかもしれない。
もっとも、これまでマリアンヌが何も言えなかったのは、自分がそういう空気を作っていたからなのだろう。
そう思えば文句も言いづらい。
オクタヴィアは紙の束を手に取った。
そこには令嬢たちの名前と家名、その横に簡単な説明が記されている。
夜会で口論。
茶会への招待を取り消した。
ドレスを馬鹿にした。
エドガーと会話していたため注意した。
気に入らなかった。
「……最後のこれは何ですの?」
「わたくしにも理由が分かりませんでしたので」
「わたくしが聞きたいくらいですわ」
記憶を辿ってみる。
名前の令嬢とは確かに揉めた覚えがあるが、なぜ嫌っていたのかは思い出せない。
たぶん、本当に気に入らなかっただけなのだろう。
(我ながら酷い理由ですこと)
オクタヴィアは紙をめくった。
全員に会って謝るなど、三日では到底不可能だ。
そもそも突然公爵令嬢が訪ねていけば、相手にも都合というものがある。
ならば手紙を書くべきかとも考えたが、それも何か違う気がした。
自分が直接傷つけた相手には、できる限り直接話すべきだろう。
「マリアンヌ」
「はい」
「この中で、今日お会いできそうな方はいらっしゃる?」
「本日でございますか?」
「ええ。できれば王都にいらっしゃる方がいいわ」
マリアンヌは少し考えたあと、紙の一枚を指差した。
「でしたら、クラリッサ・エルフォード様はいかがでしょう」
指先の先にある名前を見た瞬間、オクタヴィアの眉が動いた。
「……クラリッサ?」
「はい」
忘れるはずもない。
クラリッサ・エルフォード伯爵令嬢。
栗色の髪に青い瞳を持つ、オクタヴィアと同い年の少女だ。
そして。
(……嫌ですわね)
顔を思い出しただけで、妙に腹が立つ。
どうやら前世の記憶を取り戻したところで、人間の好き嫌いまで綺麗に消えてくれるわけではないらしい。
「他の方では駄目なの?」
「駄目ではございませんが、エルフォード伯爵家でしたら本日午後、王都の屋敷にいらっしゃるはずです」
「……そう」
「それに、クラリッサ様はお嬢様が最も――」
マリアンヌが言葉を止める。
「何ですの」
「……いえ」
「そこまで言ってやめるのはおやめなさい。気になるでしょう」
「最も酷い仕打ちをされた方のお一人ですので」
「…………」
また正論だった。
オクタヴィアはクラリッサの名前を見つめる。
二人の仲は昔から悪かった。
最初に揉めたのがいつだったのか、もう覚えていない。
ただクラリッサは、オクタヴィアに対して妙に遠慮がなかった。
他の令嬢が公爵令嬢であるオクタヴィアの機嫌を窺う中、彼女だけは気に入らないことがあれば平然と反論した。
当然、オクタヴィアはそれが気に入らなかった。
そして一年前。
決定的な出来事が起きた。
クラリッサが、夜会でエドガーと踊ったのだ。
婚約者でもない令嬢が王子と踊ること自体は、別に珍しいことではない。
だが当時のオクタヴィアは、それが許せなかった。
翌週、自分が主催する茶会からクラリッサの名前を外した。
さらに親しい令嬢たちにも、
『エルフォード伯爵令嬢とは、あまりお付き合いなさらない方がよろしいのではなくて?』
そう言った。
公爵令嬢の言葉である。
それが何を意味するのか、分からない者はいなかった。
結果、クラリッサは一時期、多くの茶会や夜会から距離を置かれることになった。
(……これは)
改めて考えると。
(完全にわたくしが悪いですわね)
反論の余地すらない。
「分かりましたわ」
オクタヴィアは紙を置いた。
「エルフォード伯爵家へ先触れを出してちょうだい。クラリッサにお会いしたいと」
「かしこまりました」
マリアンヌが頭を下げる。
そして部屋を出ようとして――振り返った。
「お嬢様」
「何?」
「クラリッサ様は、おそらく喜ばれないかと」
「分かっていますわ」
オクタヴィアは即答した。
「わたくしだって、別に喜ばせるために行くわけではありませんもの」
マリアンヌは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉まる。
一人になったオクタヴィアは、改めてクラリッサの名前を見る。
(……よりにもよって、最初があの女ですのね)
正直、今でも苦手だ。
口を開けば反論してくるし、妙なところで頑固だし、何より自分を見るあの挑戦的な目が昔から気に入らない。
だが。
嫌いだから傷つけていいという話にはならない。
そんな当たり前のことに、十五歳になって前世を思い出すまで気づかなかった。
「……本当に、ろくでもありませんわね」
今度の呟きは、誰に向けたものでもなかった。
◇
午後。
オクタヴィアはエルフォード伯爵家の応接室にいた。
向かいの席にはクラリッサが座っている。
肩まで伸びた栗色の髪に、澄んだ青い瞳。
久しぶりに間近で見る顔だった。
「…………」
「…………」
空気が重い。
案内してくれた使用人が紅茶を置き、早々に部屋から出ていった理由がよく分かる。
クラリッサは先ほどから一言も話さない。
それどころか、隠す気もないほど警戒した目でこちらを見ている。
(……帰りたいですわね)
心の底から思った。
しかし、自分から会いたいと言って押しかけておいて帰るわけにもいかない。
「お久しぶりね、クラリッサ」
「ええ」
「元気そうで何よりですわ」
「おかげさまで」
「…………」
「…………」
(会話が続きませんわ)
分かっていたことだが。
昔なら、ここで腹を立てていただろう。
『その態度は何?』
とでも言っていたかもしれない。
だが今日ここへ来た目的を考えれば、怒るわけにもいかない。
オクタヴィアは一度息を整えた。
「今日は、あなたにお話があって参りましたの」
「存じております。そうでなければ、ローゼンフェルト公爵令嬢が我が家へいらっしゃる理由などないでしょうから」
(相変わらず可愛げがありませんわね)
反射的にそう思ってしまい、心の中で首を振る。
違う。
今日は喧嘩をしに来たわけではない。
「一年前のことです」
クラリッサの表情が変わった。
ほんの少しだけ。
それでも、青い瞳から温度が消えたのが分かった。
「わたくしは、あなたがエドガー殿下と踊ったことを理由に、自分の茶会からあなたを外しました。それだけではなく、他の令嬢たちにもあなたとの付き合いを控えるよう匂わせる発言をしましたわ」
「……よく覚えていらっしゃいますこと」
「ええ。残念ながら」
オクタヴィアは膝の上で手を組んだ。
謝罪。
昨日、マリアンヌにすら満足にできなかったことだ。
しかも相手はクラリッサ。
昔から気が合わず、今だって決して好きではない。
それでも。
「わたくしが間違っていました」
言った。
クラリッサの目が僅かに見開かれる。
「あなたが殿下と踊ったことには、何の問題もありません。それを気に入らないという理由だけで、あなたを孤立させようとした。あれは……わたくしがするべきことではありませんでした」
喉の奥が妙に詰まる。
こんなに謝罪というものが難しいとは思わなかった。
「ですから――」
「何を企んでいるのですか?」
言葉を遮られた。
「……何ですって?」
クラリッサは笑っていなかった。
「次は何をなさるおつもりなのかと聞いているのです、ローゼンフェルト公爵令嬢」
オクタヴィアの眉が寄る。
「わたくしは今、謝罪を――」
「昨日までわたくしのことなど気にも留めていなかった方が、突然屋敷までいらして謝罪? 信じろとおっしゃるのですか?」
「…………」
「学院への入学を前に、何かお考えがおありなのでしょう。それとも今度は、わたくしが何を言うか試しにいらしたのですか?」
「クラリッサ」
「わたくしはもう、あなたに関わりたくありません」
はっきりと言われた。
胸の奥に、かっと熱いものが込み上げる。
(……わたくしだって!)
わざわざ来たのだ。
自分の非を認めた。
謝った。
それなのに、その態度は何なのか。
そんな言葉が喉まで出かかった。
だが。
(……違いますわね)
ぎりぎりのところで飲み込んだ。
わざわざ来た?
だから何だというのだ。
謝った?
だから許せと?
昨日まで何の反省もしていなかった人間が、突然現れて謝罪した。
クラリッサから見れば、それだけのことだ。
前世を思い出したことなど、彼女は知らない。
自分の中では昨日を境に世界がひっくり返った。
でも。
クラリッサにとっては、何も変わっていない。
「……そうですわね」
オクタヴィアが言うと、今度はクラリッサが僅かに眉を寄せた。
「あなたの言う通りですわ」
「……何を」
「昨日まであなたを嫌っていた人間が、突然謝罪に来たところで、信用できるはずがないでしょう」
自分で言うと、なんとも情けない。
「それに、わたくしは今、自分が謝ったのだからあなたも少しくらい態度を和らげるべきだと思いました」
「…………」
「随分と身勝手な話ですこと」
クラリッサは何も言わない。
オクタヴィアは彼女を真っ直ぐ見た。
「別に、許してくださらなくて結構ですわ」
「……は?」
「あなたがわたくしを嫌うのは当然ですもの。今の謝罪も、許していただくためにしたわけではありません」
「では、何のために?」
問われて、少し考える。
破滅回避のため。
最初はそうだった。
だが、それだけならクラリッサの屋敷まで来る必要などなかっただろう。
「……間違っていたと気づいたからですわ」
結局、それしか思いつかなかった。
「わたくしが間違っていた。だから謝罪した。それだけです」
「…………」
「もちろん、だからといってあなたがわたくしを許す必要はありません。嫌いなら嫌いなままで結構ですわ」
「……随分と勝手ですのね」
「ええ。そこは否定いたしません」
クラリッサが、初めて少しだけ言葉に詰まった。
オクタヴィアは立ち上がる。
「今日はそれをお伝えしたかっただけです。お時間をいただいて悪かったわね」
「待って」
思いがけず呼び止められ、振り返る。
クラリッサは座ったままこちらを見ていた。
「本当に……それだけなのですか?」
「ええ」
「何か条件を出すつもりも?」
「ありませんわ」
「わたくしが今日のことを誰かに話しても?」
「お好きになさい」
オクタヴィアは少し考えてから付け加える。
「ただし、わたくしが泣いて謝ったなどと吹聴するのはおやめになって。泣いておりませんもの」
「…………」
クラリッサの口元が僅かに動いた。
笑ったのかと思ったが、すぐにいつもの険しい表情へ戻る。
「あなたのことは、今でも嫌いです」
「奇遇ですわね。わたくしもあなたのことは昔から苦手ですの」
「……は?」
クラリッサの顔が引きつった。
しまった。
今のは余計だったかもしれない。
だが、嘘をついて「わたくしはあなたと仲良くなりたいのです」などと言うのも違う気がする。
「ですが」
オクタヴィアは続けた。
「嫌いだからといって、何をしてもいいわけではなかった。それだけは分かりましたわ」
「…………」
「それでは、ごきげんよう」
今度こそ部屋を出る。
扉が閉まる直前。
「……本当に、何なのよ」
クラリッサの小さな声が聞こえた気がした。
◇
帰りの馬車。
向かいに座るマリアンヌが尋ねてきた。
「いかがでしたか?」
「最悪ですわ」
オクタヴィアは即答した。
「ものすごく疑われましたし、嫌いだとはっきり言われました」
「左様でございますか」
「何ですの、その納得した顔は」
「いえ」
窓の外へ視線を向ける。
王都の街並みがゆっくりと流れていく。
「……謝罪というのは、存外難しいものですのね」
「そうかもしれません」
「謝れば少しくらい気が楽になるものだと思っていましたわ」
実際は逆だった。
自分がしたことを口に出して認めるたび、以前よりはっきりと過去の自分の醜さが見えてくる。
そして何より。
謝ったところで、相手の傷が消えるわけではない。
(当たり前のことですのにね)
今までの自分は、そんなことすら考えたことがなかった。
「お嬢様」
「何?」
「明日のご予定ですが」
「ええ」
「先ほどの一覧は、いかがいたしましょう」
オクタヴィアは黙った。
頭に浮かぶのは、机の上に置いてきた紙の束。
正直に言えば。
もう嫌だった。
クラリッサ一人でこれなのだ。
次も同じように疑われるかもしれない。
罵られる可能性だってある。
謝罪などせず、学院でこれから大人しくしているだけでも破滅は避けられるのではないか。
そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
けれど。
「……明日も一人、お会いしましょう」
マリアンヌが僅かに目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「何ですの。あなたが作った一覧でしょう」
「それはそうですが」
「一度嫌な思いをした程度でやめたら、それこそ何のために始めたのか分かりませんわ」
オクタヴィアは腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。
「それに、クラリッサにできて他の方にできないなど、癪ではありませんの」
「…………」
「何よ」
「いえ。実にお嬢様らしい理由だと思いまして」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
マリアンヌが小さく笑った。
オクタヴィアは気づかないふりをして窓の外を見る。
学院入学まで、あと二日。
過去は変えられない。
謝罪したからといって、許してもらえるとも限らない。
それでも。
間違っていたと分かったのなら、せめて間違っていたと認めるくらいはできる。
(……まあ、簡単にはいきませんわよね)
それくらいでちょうどいい。
簡単に全てが許されるのなら。
きっとそれは、オクタヴィアが傷つけた人たちにとって、あまりにも都合のいい話なのだから。




