1話 思い出すのが遅すぎる
目を覚ました瞬間、オクタヴィア・ローゼンフェルトは、自分の人生がひどく面倒なことになったと悟った。
「……最悪ですわ」
天蓋から垂れる深紅の布を眺めながら、思わずそんな言葉が漏れる。
見慣れた天井に、見慣れた寝台。窓辺には昨日読みかけた本が置かれ、鏡台の上にはお気に入りの香水瓶が並んでいる。
十五年間、毎朝目覚めてきた自分の部屋だ。
何一つ変わっていないはずなのに、今のオクタヴィアには、その全てが昨日までとは違って見えた。
原因は分かっている。
頭の中に、昨日までは存在しなかった記憶があるのだ。
日本という国で生まれ育ったこと。学校へ通い、制服を着て、友人たちとくだらないことで笑っていたこと。手のひらほどの機械で遠く離れた人間と話し、夜遅くまでゲームをして、翌朝になって後悔したこと。
そのどれもが、十五年間生きてきたオクタヴィア自身の記憶と同じくらい鮮明だった。
そして、その中に一つ、とても見過ごすことのできない記憶がある。
「『花冠の乙女と銀の誓い』……」
自分の口からこぼれた名前に、背筋が冷たくなった。
知っている。
オクタヴィアは、この世界を知っている。
それどころか――オクタヴィア・ローゼンフェルトという女が、これからどのような人生を送るのかまで知っていた。
「……冗談でしょう?」
額に手を当てたものの、残念ながら夢から覚める気配はない。
オクタヴィアは寝台を降りると、裸足のまま鏡台へ向かった。
鏡の中には一人の少女がいる。
腰まで届く艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。整った顔立ちの中でも、とりわけ目を引くのは切れ長の紫色の瞳だろう。
ローゼンフェルト公爵家の至宝。
夜会の華。
王国一の美姫。
これまで幾度となく耳にしてきた呼び名であり、オクタヴィア自身、それらを否定したことはない。
事実なのだから、謙遜する必要などないと思っていた。
今でも、その考え自体はあまり変わっていない。
ただし今は、この顔を別の意味でも知っている。
前世で遊んだ乙女ゲーム『花冠の乙女と銀の誓い』。
地方男爵家に生まれた少女が、希少な光属性魔法の才能を見出されて王立セレファイス学院へ入学し、様々な出会いを経ながら恋と友情を育んでいく物語だ。
そして、その主人公の前に立ちはだかる最大の障害こそ――。
「オクタヴィア・ローゼンフェルト……」
鏡の中の少女も、当然ながら同じように唇を動かした。
第二王子の婚約者にして、ローゼンフェルト公爵家の一人娘。
高慢で嫉妬深く、家の権力を振りかざして主人公を虐げる令嬢。攻略対象との仲が深まるほど行動は過激になり、最後にはそれまでの悪事を暴かれて婚約を破棄され、公爵家からも見放される。
いわゆる悪役令嬢である。
「どうして、よりにもよってわたくしなの……?」
せめて攻略対象ならまだよかった。ヒロインなら言うまでもないし、名前すら登場しない端役の令嬢でも構わない。
よりにもよって、オクタヴィア・ローゼンフェルト。
破滅することが決まっている女だ。
もっとも、まだ悲観するには早いのかもしれない。
こういう話なら前世で何度も読んだ覚えがある。悪役令嬢に転生してしまった主人公が原作知識を利用し、未来の破滅を回避するのだ。
幼い頃から使用人に優しく接し、婚約者には執着せず、攻略対象とも適切な距離を取る。そして何より、ヒロインを虐めなければいい。
つまり、今から行動を変えれば――。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
扉の向こうから聞こえた声に、オクタヴィアの思考が止まった。
「ええ、入りなさい」
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、茶色の髪をきっちりとまとめた侍女だった。
マリアンヌ。
オクタヴィアが幼い頃から仕えている女性で、身の回りの世話を任せている者の中では最も付き合いが長い。
その顔を見た途端、オクタヴィアの脳裏に一つの光景が蘇った。
『こんな紅茶が飲めると思っているの?』
十三歳の自分が、不機嫌そうにティーカップを置いている。
いや。
置いた、という表現はいささか上品すぎる。
ほとんど叩きつけた結果、カップは床へ落ちて砕けていた。
『申し訳ございません』
『淹れ直してちょうだい』
『すぐにご用意いたします』
『当然でしょう。誰を待たせていると思っているの?』
「…………」
「お嬢様?」
怪訝そうに見つめてくるマリアンヌから、オクタヴィアはそっと視線を逸らした。
(……既にやっていますわね)
それも、思っていた以上にしっかりと。
「どうかなさいましたか? お顔の色が優れないようですが」
「何でもありませんわ」
「ですが――」
「何でもないと言っているでしょう」
反射的に強い口調が出た瞬間、マリアンヌの肩が小さく揺れた。
「……失礼いたしました」
すぐに頭を下げた彼女を見ながら、オクタヴィアは眉間を押さえる。
(違うでしょう、わたくし)
怒るような場面ではなかった。
とはいえ、前世を思い出したからといって人格そのものが別人になったわけではないらしい。
当然といえば当然だ。
十五年間生きてきたオクタヴィアの記憶は、今もしっかり残っている。好きだったものも嫌いだったものも、腹を立てたことも嬉しかったことも、全て昨日までと変わらず覚えている。
そこへ突然、前世の記憶が加わっただけなのだ。
日本で生きていた自分も、ローゼンフェルト公爵令嬢として生きてきた自分も、どちらも間違いなく自分だった。
「……マリアンヌ」
「はい」
「その……」
謝罪すべきだと思った。
少なくとも、今の言い方は良くなかった。
けれど、いざ口にしようとすると妙に言葉が出てこない。
昨日まで散々横柄に振る舞っていた主人が、朝起きた途端に頭を下げ始めるのも不自然ではある。
(……わたくしなら、まず医者を呼ばせますわね)
そう考えた結果。
「紅茶をお願い」
「かしこまりました」
結局、逃げた。
マリアンヌが部屋を出ていくのを見送ると、オクタヴィアは大きく息を吐いた。
「……いけませんわね」
破滅を避ける以前の問題ではないだろうか。
嫌な予感を覚えながら、ゲーム本編で語られていたオクタヴィアの悪行を一つずつ思い返してみる。
婚約者である第二王子エドガーに近づいた伯爵令嬢を、夜会の場で公然と侮辱した。
去年のことだ。
自分に逆らった子爵令嬢を茶会から締め出し、他の令嬢たちにも圧力をかけて社交界で孤立させたこともある。
それも既にやった。
気に入らないという理由で辞めさせた使用人は、記憶にあるだけで三人。
エドガーへ何通も手紙を送り、返事がないことに腹を立てて王宮へ直接押しかけたのは――先月だった。
「……わたくし、想像以上に酷い女ではなくて?」
自分で言っていて悲しくなってきた。
しかし、まだ最も重要な人物を確認していない。
「ヒロイン……」
セシリア・アーデン。
『花冠の乙女と銀の誓い』の主人公である。
地方男爵家の娘でありながら、極めて希少な光属性魔法の才能を見出され、王立セレファイス学院へ特待生として入学する少女。
明るく優しい性格で、身分に関係なく誰にでも接する。その飾らない人柄に攻略対象たちが少しずつ惹かれていき、婚約者を奪われると思い込んだオクタヴィアから壮絶な嫌がらせを受けることになる。
幸い、ゲーム開始時点でオクタヴィアとセシリアに面識はない。
ならば、そこだけはまだ間に合う。
「セシリアに関わらなければ、少なくとも――」
そこまで考えて、オクタヴィアは口を閉ざした。
アーデン。
アーデン男爵家。
どこかで聞いた覚えがある。
「…………あ」
思い出した。
三年前、アーデン男爵領で生産された織物を扱う商会が、ローゼンフェルト家と付き合いのある商人と揉めたことがあった。
その話を耳にした十二歳のオクタヴィアは、父にこう言ったのだ。
『ローゼンフェルトに逆らうような家との取引など、やめさせればよろしいでしょう?』
もちろん、公爵である父が十二歳の娘の癇癪だけで男爵家を潰すような真似をするはずもない。
しかし、ローゼンフェルト公爵令嬢がアーデン家を嫌っている。
そんな噂が流れるだけでも、小さな男爵家にとっては十分な打撃になった。
王都の商人たちは余計な問題を避けるためにアーデン家との取引を控え、一時期、男爵家の財政はかなり苦しい状況に陥ったはずだ。
オクタヴィアは無言で両手を顔に当てた。
「本人に会う前からやっているではありませんの……」
救いがない。
セシリア本人を虐めていないだけで、その家族には既に迷惑をかけている。
これでは「今からヒロインに優しくすれば全て解決」などという都合の良い展開は期待できそうになかった。
「お嬢様?」
声に顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか、紅茶を載せたワゴンを押したマリアンヌがこちらを見ていた。
「先ほどから、本当にどうかなさいましたか?」
「マリアンヌ、一つ確認したいのだけれど」
「はい」
「今日は何日?」
妙な質問だと思ったのだろう。マリアンヌはわずかに首を傾げた。
「四月七日でございます」
「……学院の入学式は?」
「十日でございますが」
オクタヴィアは黙り込んだ。
四月十日。
王立セレファイス学院の入学式であり、『花冠の乙女と銀の誓い』の物語が始まる日。
セシリアが攻略対象たちと出会い、オクタヴィア・ローゼンフェルトが本格的に破滅へ向かい始める日でもある。
それが三日後。
(――三日前ですって?)
いくらなんでも遅すぎる。
八歳でも十歳でも構わない。せめて一年前なら、これまでの振る舞いを多少なりとも改める時間があっただろう。
それを、よりにもよって三日前。
(この状況から何をどうしろとおっしゃるの? 神様がいらっしゃるのなら、一度お顔を拝見したいものですわね)
可能なら、そのまま小一時間ほど説教してやりたい。
三日で婚約を解消するなど不可能だし、これまで積み上げてきた悪評を覆すこともできない。傷つけた相手を一人ずつ訪ねて謝罪するにしても、そもそも三日では回りきれないだろう。
そして何より――謝ったからといって、許してもらえるとは限らない。
(……逃げる?)
国外へ出る。
修道院へ入る。
領地の別邸へ移り住む。
ゲームの舞台である学院から離れてしまえば、少なくとも原作通りの破滅からは逃れられるかもしれない。
それは悪くない考えに思えた。
思えたのだが。
「……嫌ですわ」
自然と口から出ていた。
どうして自分が逃げなければならないのだ。
ここは自分の国で、ローゼンフェルト公爵家は自分の家だ。楽しみにしていた学院生活だって、まだ始まってすらいない。
過去の自分が愚かだったことは認めよう。
だが、まだ起きてもいない未来に怯えて、どうして全てを捨てなければならないのか。
(……我ながら、随分とオクタヴィアらしい考え方ですこと)
もっとも、自分はオクタヴィアなのだから当然ではある。
前世を思い出したところで、十五年間かけて育った気位の高さまで都合よく消えてくれるわけではないらしい。
ならば、それでいい。
オクタヴィアは椅子へ腰掛け、マリアンヌが淹れた紅茶へ視線を落とした。
過去は変えられない。
既にやってしまったことを、なかったことにもできない。
まして、自分を嫌っている人間に「実は前世の記憶を思い出したので、昨日までのわたくしとは違います」などと言ったところで、頭のおかしい女だと思われるのが関の山だ。
それなら、これからの行動を変えるしかない。
セシリアを虐めない。
攻略対象に執着しない。
公爵家の権力を、自分の機嫌を取るために使わない。
気に入らないからというだけで、誰かを傷つけない。
どれも考えてみれば当たり前のことばかりだ。
(……簡単ではなくて?)
そう思ったところで、目の前にいるマリアンヌと目が合った。
「…………」
「いかがなさいましたか?」
本当に簡単だろうか。
つい先ほどですら、心配してくれた彼女を反射的に怒鳴りつけたばかりだ。
オクタヴィアはしばらくカップを見つめたあと、小さく息を吐いた。
「マリアンヌ」
「はい」
「先ほどは……悪かったわ」
紅茶を注いでいた手が止まった。
マリアンヌが、信じられないものを見るような顔でこちらを見ている。
「……何ですの、その顔は」
「い、いえ。何でもございません」
「わたくしが謝るのが、それほど珍しい?」
「…………」
「答えなさい」
しばしの沈黙のあと、マリアンヌは観念したように口を開いた。
「……はい」
「マリアンヌ?」
「申し訳ございません」
あまりにも迷いのない返事に、オクタヴィアは眉をひそめた。
だが、考えてみれば怒る資格などない。
「……そう」
それだけ言って、紅茶へ視線を戻す。
「なら、これからは少し増えるかもしれませんわね」
「はい?」
「何でもありません」
紅茶を一口飲む。
ほんの少し渋い。
昨日までなら、淹れ直させていたかもしれない。
けれど。
「……美味しいわ」
マリアンヌが目を見開いた。
「…………」
「今度は何ですの」
「いえ」
「言いたいことがあるならおっしゃい」
しばらく迷った末、マリアンヌがおそるおそる尋ねた。
「……お医者様をお呼びいたしましょうか」
「必要ありませんわ!」
思わず声を荒らげると、マリアンヌの肩がびくりと跳ねた。
二人の間に、なんとも言えない沈黙が落ちる。
「…………」
「…………」
オクタヴィアはそっと目を逸らした。
「……今のも悪かったわ」
「やはり、お医者様を――」
「呼ばなくて結構です!」
また声が大きくなった。
どうやら人格改善への道は、想像していたよりも険しいらしい。
それでも、やるしかない。
オクタヴィアは立ち上がると、窓辺へ歩み寄った。
春の王都には柔らかな陽光が降り注ぎ、遠くには王立セレファイス学院の白い尖塔が見える。
三日後、あそこで物語が始まる。
前世の自分は、その結末を知っている。
セシリアは多くの人々に愛され、攻略対象たちはそれぞれの抱えていた問題から救われる。
一方、オクタヴィア・ローゼンフェルトは自ら積み重ねた悪行の報いを受け、全てを失う。
婚約も。
家族も。
地位も。
居場所さえも。
けれど、それはゲームの中のオクタヴィアだ。
「……冗談ではありませんわ」
窓ガラスに映る自分を見つめる。
高慢そうな紫色の瞳は、前世で何度も画面越しに見た悪役令嬢そのものだった。
これまでの自分が酷い人間だったことは認める。
認めたくはないが、事実なのだから仕方がない。
傷つけた相手から嫌われるのも当然だろう。今さら態度を改めたところで信用されないかもしれないし、謝ったところで許してもらえないことだってある。
それでも。
これまで間違えてきたからといって、これからも間違え続けなければならない理由にはならない。
別に聖女になりたいわけではない。
誰からも愛される善人になりたいわけでもない。
気に入らない相手まで好きになるつもりもなければ、自分の誇りを捨てるつもりもない。
ただ、自分の人生くらいは自分で選びたい。
「破滅なんて、御免ですわ」
オクタヴィア・ローゼンフェルト、十五歳。
ローゼンフェルト公爵家の一人娘にして、第二王子の婚約者。
そして、三日後に始まる物語では悪役令嬢となる少女。
残念ながら、彼女が善人になるには三日では到底足りない。
けれど――悪人であることをやめるのなら。
三日もあれば、十分だった。




