14話 嫌いな相手の味方をする理由
翌朝、オクタヴィアはいつもより少し早く目を覚ました。
昨夜、父から告げられたクラリッサ・エルフォードの名前が、どうにも頭から離れなかったのである。
昨年の秋、オクタヴィアは第二王子エドガーとクラリッサが舞踏会で踊ったことに腹を立て、彼女を社交界から遠ざけるよう周囲へ働きかけた。招待状が届かなくなり、親しくしていた令嬢たちまで距離を置くようになったのは、その結果だった。
それについては入学前に謝罪しているし、クラリッサが今も自分を許していないことも承知している。
だが、魔法具研究への支援が行われた時期と、彼女への嫌がらせが始まった時期が重なっているとなれば、偶然として片づけるには少々気味が悪い。
(……まさか、わたくしが知らないところで、また何かしていましたの?)
鏡の前に座ったオクタヴィアは、短くなった黒髪を整えているマリアンヌへ視線を向けた。
「マリアンヌ、昨年の秋頃のことを覚えていて?」
「どのようなことでしょうか」
「わたくしが、クラリッサ・エルフォード伯爵令嬢について随分と腹を立てていた頃ですわ」
マリアンヌの手が、ほんの僅かに止まった。
「……よく覚えております」
「でしょうね」
「お嬢様が三日ほど、朝食の卵の焼き加減にまでご不満をおっしゃっていた時期ですので」
「わたくし、そこまででしたの?」
「四日目には、卵をお出しする前から料理長が緊張なさっていました」
オクタヴィアは鏡の中の自分を見つめた。
(……過去のわたくし、少々面倒くさすぎませんこと?)
もっとも、今さら驚くような話でもない。
「それで、その頃に魔法具や学院の研究について、何か話した覚えはございません?」
「魔法具、でございますか?」
「ええ。誰かへ何かを依頼したとか、研究費を出すよう頼んだとか」
マリアンヌはしばらく考えていたが、やがて首を横に振った。
「申し訳ございません。そうしたお話は存じません。ただ……」
「ただ?」
「その頃、お嬢様のもとへ何度かお手紙が届いておりました。エルフォード伯爵令嬢の件について、何かお力になれると申し出ていらっしゃる方からだったかと」
オクタヴィアは眉を寄せた。
「差出人は?」
「そこまでは覚えておりませんが、お嬢様はお返事をお書きになっていました」
「……そう」
手紙の存在については、うっすらと記憶がある。
当時の自分はクラリッサへの怒りを隠そうともせず、周囲の令嬢たちへ不満を漏らしていたため、同調する手紙が届いても特に不思議には思わなかった。
だが、誰がどのような申し出をしてきたのかとなると、はっきり思い出せない。
「ありがとう、マリアンヌ。昔の手紙を調べてみますわ」
「承知いたしました。お帰りまでに整理しておきましょうか」
「お願いできる?」
「もちろんでございます」
マリアンヌは丁寧に一礼したあと、鏡越しに小さく微笑んだ。
「以前のお嬢様でしたら、思い出せないことをお尋ねすると、わたくしの記憶力をお叱りになっていたかもしれませんね」
「……そうでしょうね」
「今は、お役に立てることが嬉しゅうございます」
オクタヴィアは一瞬だけ返す言葉を失った。
こういうとき、謝罪を繰り返せばよいというものでもないし、かといって何も言わずに済ませるのも違う気がする。
「……これからも頼りにしておりますわ」
結局、それだけを告げた。
マリアンヌは嬉しそうに頷き、最後に髪を整えると、いつも通り少しだけ厳しい目で仕上がりを確認した。
「はい。今日も大変お美しゅうございます」
「それは当然ですわ」
「ええ。そちらは以前から変わりませんね」
「……何かおっしゃった?」
「いいえ、お嬢様」
涼しい顔で答える侍女を見て、オクタヴィアは小さく息を吐いた。
どうやら、マリアンヌは以前よりも随分と遠慮がなくなったらしい。
◇
クラリッサを見つけたのは、午前の授業が終わったあとのことだった。
中庭へ続く回廊を歩いていた彼女は、オクタヴィアの姿を認めると、露骨に眉をひそめた。
「……何かご用でしょうか、ローゼンフェルト様」
「ええ。少しお話ししたいことがございますの」
「わたくしには、特にございませんけれど」
「でしょうね。ですが、今回はあなたにも関係するかもしれません」
クラリッサの表情が変わった。
「……どういう意味ですか?」
「魔法具の事件についてですわ。できれば、人の少ないところでお話ししたいのですけれど」
しばらく睨み合うような沈黙が続いた。
やがてクラリッサは、仕方がないというように息を吐く。
「分かりました。ただし、長話をするつもりはありません」
「結構ですわ。わたくしも、あなたを困らせるために来たわけではありませんもの」
「以前は随分と熱心でしたのに」
「……それについては、返す言葉もございませんわね」
オクタヴィアが素直に認めると、クラリッサは少しだけ拍子抜けしたような顔をした。
二人は回廊の先にある小さな談話室へ向かった。
扉を閉め、互いに向かい合って腰を下ろすと、オクタヴィアは昨夜父から聞いた話を説明した。
昨年の秋、ローゼンフェルト公爵家の紹介を通じて、学院の旧式魔法具の修復へ資金が提供されていたこと。
その支援が行われた時期に、自分がクラリッサへの嫌がらせを始めていたこと。
そして、現在起きている魔法具暴走事件で、同じような旧式術式が使われていた可能性があること。
クラリッサは途中で口を挟まず、最後まで話を聞いていた。
「……つまり、何をおっしゃりたいのですか?」
「昨年の秋、わたくしの周囲で何か不審なことがなかったか、お尋ねしたいのです」
「不審なこと?」
「ええ。あなたを社交界から遠ざけるために、わたくしの名前を使って動いていた方がいらっしゃらなかったかしら」
クラリッサは目を細めた。
「……随分と都合のよいお話ですこと」
オクタヴィアは黙って彼女を見つめた。
「今度は、わたくしを孤立させたのも他の誰かが勝手にしたことだった、とおっしゃるおつもり?」
「いいえ」
オクタヴィアは即座に否定した。
「あなたを社交界から遠ざけようとしたのは、間違いなくわたくしです。周囲の方々へ不満を漏らし、あなたを招待する必要などないと申し上げたことも覚えております」
「……そうですか」
「ですが、その言葉を利用して、わたくしが知らないところで別のことをしていた方がいらっしゃるのなら、それは確かめておきたいのです」
クラリッサは腕を組んだ。
「それで、わたくしに何を期待していらっしゃるの?」
「当時のことを、あなたの立場から教えていただきたいのですわ」
「……わたくしの立場から?」
「ええ。わたくしは、自分が何を言ったかは覚えていても、それによってあなたの周囲で何が起きたのか、全てを知っているわけではありませんもの」
クラリッサはしばらく黙っていた。
やがて、窓の外へ視線を向ける。
「……最初は、招待状が届かなくなっただけでした」
静かな声だった。
「それまで親しくしていた方々が、急にお茶会へ誘ってくださらなくなり、舞踏会でも話しかけてくださらなくなったのです。理由を尋ねても、皆さん曖昧に笑うばかりで……」
オクタヴィアは口を挟まなかった。
「しばらくして、ある方から言われました。ローゼンフェルト公爵令嬢のお怒りを買ったのだから、しばらく大人しくしていた方がよい、と」
「……ええ」
「わたくしは、殿下と一度踊っただけでした。婚約者がいらっしゃることも承知していましたし、それ以上の意味など何もなかったのに」
クラリッサの声に、僅かな怒りが混じる。
「それでも、あなたは許してくださらなかった」
「……そうですわね」
「本当に、嫌な方でした」
「否定はいたしません」
オクタヴィアがそう答えると、クラリッサは少しだけ眉を寄せた。
「……今でも、あまり好きではありませんけれど」
「存じておりますわ」
「そういうところです」
「どこですの?」
「……もう結構です」
クラリッサは呆れたように息を吐いた。
しかし、少し考えてから再び口を開く。
「ただ、一つだけ妙なことがございました」
オクタヴィアの表情が引き締まる。
「何でしょう?」
「わたくしの父のもとへ、ある商会から取引の見直しを申し入れる手紙が届いたのです」
「……商会?」
「ええ。エルフォード家は領地で産出する魔鉱石の一部を商会へ卸しておりますが、その取引先の一つが突然、契約条件を変更したいと言ってきました」
オクタヴィアは眉を寄せた。
「それが、わたくしと関係していると?」
「当時はそう思いました。先方の担当者が、ローゼンフェルト公爵家のご意向に配慮したいと口にしたそうですから」
胸の奥が冷たくなった。
ローゼンフェルト公爵家の意向。
また、その言葉だ。
「……その商会のお名前は?」
「確か、ベルク商会だったと思います」
オクタヴィアはその名前を頭の中で繰り返した。
聞き覚えはある。
公爵家と取引のある商会の一つだったはずだが、詳しいことまでは知らない。
「その取引は、どうなりましたの?」
「父が直接抗議したため、最終的には従来の条件が維持されました。ただ、その後もしばらくは他の商会まで様子を見るようになってしまって……」
クラリッサはそこで言葉を止めた。
「……もっとも、あなたには関係のないことかもしれませんけれど」
「いいえ」
オクタヴィアは首を横に振った。
「関係がないとは申し上げられませんわ。わたくしがあなたを嫌っていると周囲へ示していたからこそ、そのようなことが起きたのでしょう」
クラリッサがこちらを見る。
「ですが、商会へ取引を見直すよう命じた覚えはございません」
「……そうでしょうね」
意外な返事だった。
オクタヴィアは思わず目を瞬く。
「信じてくださるの?」
「勘違いなさらないでください」
クラリッサは即座に答えた。
「わたくしは、あなたが何も悪くなかったと言っているわけではありません。ただ、当時のあなたなら、商会へ圧力をかけたのであれば、わざわざ隠そうとはなさらなかったでしょうから」
「…………」
「むしろ、わたくしに聞こえるようにおっしゃったのではなくて?」
オクタヴィアは反論しかけた。
しかし、思い当たる節がありすぎて、結局何も言えなかった。
「……否定できないのが腹立たしいですわね」
「でしょう?」
クラリッサは初めて、ほんの少しだけ笑った。
それは親しみのこもった笑みというより、長年の鬱憤を晴らすような笑みだったが、オクタヴィアは不思議と嫌な気分にはならなかった。
「ともかく、その商会については父へ確認してみますわ」
「そうなさってください」
「お話しいただき、ありがとうございました」
オクタヴィアが立ち上がると、クラリッサも席を立った。
しかし、扉へ向かおうとしたところで、彼女が声をかけてきた。
「ローゼンフェルト様」
「何でしょう?」
「一つ、確認してもよろしくて?」
「ええ」
クラリッサは真っ直ぐにオクタヴィアを見つめた。
「今回の魔法具の件、本当にあなたは何もしていらっしゃらないのですね?」
オクタヴィアは少しだけ眉を上げた。
「ええ。何もしておりませんわ」
「誰かに命じたことも?」
「ございません」
クラリッサはしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
「それで、あなたは信じてくださるの?」
「さあ、どうでしょう」
「……相変わらず、可愛げのない方ですこと」
「あなたにだけは言われたくありません」
即座に返され、オクタヴィアは思わず口元を引きつらせた。
しかし、クラリッサは続けた。
「ただ、わたくしは今回の事件について、あなたが犯人だと決めつけるつもりはありません」
「……そう」
「嫌いな相手だからといって、していないことまで押しつけてよいとは思いませんもの」
その言葉を聞いた瞬間、オクタヴィアは僅かに息を止めた。
以前、自分がクラリッサへ告げた言葉が脳裏をよぎる。
嫌いだからといって、何をしてもいいわけではなかった。
あのとき、謝罪を受け入れなかった彼女が、今になって同じ考えを口にしている。
「……あなた、本当に嫌な方ですわね」
「お互い様でしょう」
クラリッサは涼しい顔で答えた。
オクタヴィアは小さく息を吐いたあと、ほんの僅かに笑った。
「ええ。そうですわね」
◇
放課後、オクタヴィアは学院の図書室でレオンハルトと合流した。
クラリッサから聞いた話を説明すると、彼はしばらく黙って考えていたが、やがて口を開いた。
「ベルク商会か」
「ご存じ?」
「名前だけならな。魔鉱石や魔法具の材料を扱っている商会だったはずだ」
「……魔法具の材料」
オクタヴィアはその言葉を繰り返した。
昨年の秋、クラリッサの家との取引を見直そうとした商会。
そして、同じ頃に行われた学院の旧式魔法具修復への支援。
もし、その二つが同じ商会を通じて行われていたとしたら。
「……確認する価値はありそうですわね」
「ああ」
レオンハルトが頷く。
「ただし、商会が関わっていたとしても、それだけで今回の細工をしたとは限らない」
「分かっておりますわ」
オクタヴィアは椅子へ腰を下ろし、手元の紙へ情報を書き出した。
ローゼンフェルト公爵家。
ベルク商会。
学院の魔法具研究会。
そして、クラリッサ・エルフォード。
今のところ、いずれも昨年の秋に何らかの接点があったというだけで、今回の事件と直接結びつく証拠はない。
それでも、少しずつ輪郭が見え始めているような気がした。
「……ところで、レオンハルト」
「何だ」
「今回の件、あなたはどこまでお付き合いくださるおつもり?」
レオンハルトは少しだけ眉を上げた。
「何か問題でも?」
「いいえ。ただ、わたくしの家に関わる話まで調べていただいているので、少々気になりましたの」
「途中でやめる理由がない」
「……そう」
「それに、まだ事件は解決していないだろう」
オクタヴィアは思わず笑いそうになった。
本当に、この男は分かりやすい。
愛想がない代わりに、考えていることを必要以上に飾ろうとしないのだ。
「でしたら、もう少しだけお付き合いいただきますわ」
「ああ」
「ただし、わたくしが疑われているからといって、手加減は不要ですわよ」
「するつもりはない」
「……そこは少しくらい気遣ってくださってもよろしいのではなくて?」
「必要か?」
「必要ですわ!」
思わず声を上げると、図書室の奥から司書がこちらを見た。
オクタヴィアは慌てて口を閉じ、何事もなかったかのように姿勢を正す。
隣ではレオンハルトが僅かに笑っていた。
(……この男、絶対に楽しんでいますわね)
そう思いながらも、オクタヴィアは手元の紙へ視線を戻した。
調べるべきことは、まだ残っている。
けれど、今回の事件が単なる嫌がらせではない可能性は、以前よりも高くなっていた。
そして何より、クラリッサから聞いた話が気にかかる。
昨年の秋、誰かがローゼンフェルト公爵家の名を使って商会を動かそうとしていた。
もし、その人物が今回の事件にも関わっているのなら。
(……わたくしの名前を、随分と便利にお使いになったものですわね)
オクタヴィアは静かに目を細めた。
自分の過去の悪行については、逃げるつもりなどない。
だが、それを利用して別の悪事を働く者がいるのなら、話は別だ。
その相手には、きちんと説明していただかなければならない。
何しろ、ローゼンフェルト公爵家の名を勝手に利用されたのだ。
それを黙って見過ごすほど、オクタヴィアは寛大な人間ではなかった。




