13話 わたくしの名前をお使いになったの?
王立セレファイス学院には、一般の授業で使用される施設とは別に、上級生や特別な許可を受けた生徒が利用できる研究棟が存在する。
魔法具の修復や術式の研究を行うための建物であり、学院の北東に位置するその一角には、貴重な資料や古い魔法具が数多く保管されているらしい。
もっとも、オクタヴィアにとっては入学したばかりの学院である。
研究棟の存在は知っていたものの、実際に足を運ぶのは初めてだった。
「……随分と立派な建物ですこと」
石造りの研究棟を見上げながら呟くと、隣を歩いていたレオンハルトが短く答えた。
「王立学院だからな」
「それくらい存じておりますわ。感想を申し上げただけでしょう」
「そうか」
「……あなた、わたくしとの会話を楽しむ気が少しもありませんわね」
「調査に来たんじゃないのか」
「それとこれとは別問題です」
相変わらず愛想のない返事に、オクタヴィアは小さく息を吐いた。
昨日の放課後、二人で調べた資料から、今回の魔法具に使用されていた古い制御術式が学院の研究棟でも扱われていることが分かった。
そこでハインツ教師へ相談したところ、調査を妨げない範囲であれば研究内容について話を聞いても構わないと許可を得たのである。
ただし、事件に関する資料や保管庫への立ち入りは認められておらず、あくまで一般に公開されている研究内容について質問するだけという条件だった。
(……当然ですわね。わたくしはまだ疑いをかけられている立場ですもの)
その状況で自由に保管庫へ出入りさせてほしいなどと申し出れば、むしろ教師の方が困るだろう。
オクタヴィアは気を取り直し、研究棟の扉へ向かった。
受付で訪問の許可を確認してもらうと、二人は二階にある研究室へ案内された。
扉を開けた瞬間、独特の金属の匂いと、魔力を帯びた石材の淡い香りが漂ってくる。
室内には様々な魔法具が並び、机の上には分厚い資料や複雑な術式図が広げられていた。
「おや、珍しいお客様ですね」
奥の机から顔を上げたのは、眼鏡をかけた青年だった。
柔らかな茶色の髪を後ろで束ね、学院の制服の上から研究用の白い上着を羽織っている。
穏やかな笑みを浮かべたその青年は、二人の姿を確認すると椅子から立ち上がった。
「レオンハルト・ヴァイス君に、オクタヴィア・ローゼンフェルト公爵令嬢。お二人のお名前は存じ上げています」
「初めまして。オクタヴィア・ローゼンフェルトですわ」
「魔法具研究会の代表を務めている、三年生のユリウス・フェルナーと申します。家は伯爵家ですが、ここでは研究会の代表としてお話しさせていただきますね」
ユリウスは丁寧に一礼した。
その所作は洗練されているものの、どこか気負いのない雰囲気がある。
「ハインツ先生からお話は伺っています。先日の魔法具事故について、研究会で扱っている術式を調べたいとか」
「ええ。お忙しいところ、お時間をいただき感謝いたしますわ」
「構いませんよ。もっとも、事故の調査そのものは学院の先生方が担当されていますので、私がお答えできるのは研究内容についてだけですが」
「承知しております」
オクタヴィアが頷くと、ユリウスは二人を研究室の中央にある机へ案内した。
そこには古い形式の魔法文字が記された資料が広げられている。
「こちらが、現在研究会で扱っている旧式制御術式の一例です」
ユリウスが指し示したのは、幾重にも円を描くように配置された魔法文字だった。
オクタヴィアにも基本的な構造は理解できたが、細部については見慣れない記号が多い。
「魔力の吸収と放出を制御する術式ですか?」
「その通りです。現在の魔法具ではもっと簡略化された形式が一般的ですが、古い術式には現代のものとは異なる特性がありましてね」
ユリウスは楽しそうに説明を始めた。
その口調は穏やかだったが、話が進むにつれて次第に熱を帯び、気づけば専門用語が次々と飛び出してくる。
「……なるほど」
オクタヴィアは真剣な表情で頷いた。
正確には、途中から半分ほどしか理解できていなかった。
(……この方、随分とお話しになりますのね)
隣のレオンハルトは普通についていっているらしく、ときおり短い質問を挟んでいる。
それがまたユリウスの説明を長くしていた。
しばらくして、ようやく話が一段落したところで、オクタヴィアは口を開いた。
「一つ、お尋ねしてもよろしくて?」
「もちろんです」
「こうした術式を扱える方は、学院にどの程度いらっしゃるのでしょう?」
ユリウスは少し考えた。
「研究会の中でも、実際に改変まで行えるのは数名でしょうね。もっとも、先生方や卒業生まで含めれば、決して珍しい技術というわけではありません」
「そうですか」
「ただ、専門的な知識が必要なのは確かです。少なくとも、入学したばかりの一年生が独学で扱えるようなものではありませんよ」
オクタヴィアは静かに頷いた。
ハインツ教師の話とも一致している。
それなら、やはり今回の細工には上級生か、それに相当する知識を持った人物が関わっている可能性が高い。
「ところで」
ユリウスがふと表情を変えた。
「ローゼンフェルト公爵令嬢は、魔法具の研究にご興味がおありなのですか?」
「え?」
「いえ、以前にもお名前を伺ったことがありましたので」
オクタヴィアの眉が僅かに動く。
「……以前?」
「ええ。確か昨年の秋頃だったでしょうか。研究会の備品について、ローゼンフェルト公爵家のお名前が出たことがありまして」
胸の奥で、小さな違和感が生まれた。
昨年の秋。
その頃のオクタヴィアは、前世の記憶を取り戻す前だった。
当然、今よりもずっと傲慢で、気に入らない相手への嫌がらせを躊躇わない人間だったが、魔法具の研究に関わった覚えはない。
「……詳しくお聞かせいただけるかしら」
ユリウスは頷いた。
「研究用の旧式魔法具をいくつか修復した際、費用の一部を負担してくださる方がいらっしゃいましてね。その手続きの中で、公爵家のお名前を伺ったんです」
「ローゼンフェルト家が?」
「ええ。ただ、正式な寄付という形ではなく、個人の紹介を通じた支援だったと記憶しています」
オクタヴィアは黙り込んだ。
ローゼンフェルト公爵家が学院へ寄付をすること自体は不思議ではない。
だが、旧式魔法具の修復に関わっていたという話は初耳だった。
「その紹介をなさった方のお名前は?」
「申し訳ありません。私も直接お会いしたわけではありませんので、詳しいことまでは」
「……そうですか」
ユリウスは少し申し訳なさそうに笑った。
「ただ、当時の記録なら残っているはずです。個人情報に関わる部分はお見せできませんが、学院の先生方へ確認していただくことは可能だと思いますよ」
「ありがとうございます」
オクタヴィアは丁寧に礼を述べた。
その隣で、レオンハルトが静かに口を開く。
「その修復した魔法具は、今も研究会にあるのか」
「ええ。いくつかは保管庫へ戻しましたが、資料として残しているものもあります」
「制御術式は?」
「旧式のものを一部利用しています。今回の事故との関連を疑っているのなら、先生方にもその点はお伝えしておきましょう」
「頼む」
レオンハルトが頷く。
オクタヴィアも礼を述べ、二人は研究室を後にした。
◇
研究棟を出ると、夕方の柔らかな日差しが石畳を照らしていた。
オクタヴィアはしばらく無言で歩いていたが、やがて足を止めた。
「……レオンハルト」
「何だ」
「あなた、先ほどのお話をどう思います?」
「公爵家の名前が使われていた件か」
「ええ」
レオンハルトは少し考えた。
「偶然かもしれない」
「そうですわね」
「だが、確認する価値はある」
「……ええ」
オクタヴィアは腕を組み、研究棟を振り返った。
ローゼンフェルト公爵家の名前。
それは、貴族社会において非常に大きな意味を持つ。
家名を出すだけで相手の態度が変わることもあれば、正式な命令を出さなくても周囲が勝手に動くこともある。
そして、以前の自分はその力を当然のように利用してきた。
(……わたくしの名前を使えば、色々なことができたでしょうね)
たとえば、気に入らない相手を社交界から遠ざけること。
たとえば、商人たちへ圧力をかけること。
そして、もし誰かがその名を勝手に利用していたとしたら。
(……それも、あり得ない話ではありませんわ)
もっとも、だからといって過去の悪行を全て他人のせいにするつもりはなかった。
クラリッサを孤立させたのも、ミレイユのドレスを嘲笑ったのも、セシリアの家に不利益を与えるような言葉を口にしたのも、紛れもなく自分自身なのだから。
ただ。
自分の悪意が、どこまで広がっていたのか。
それについては、まだ知らないことがあるのかもしれない。
「……一度、父に確認してみますわ」
オクタヴィアがそう告げると、レオンハルトは頷いた。
「その方が早いだろうな」
「公爵家の名義が使われていたのであれば、何かしら記録が残っているはずですもの」
「そうだな」
そこでオクタヴィアは、ふと気づいた。
「……ところで、あなたは随分と落ち着いていらっしゃいますのね」
「何がだ」
「わたくしの家が今回の事件に関係しているかもしれないと聞いても、特に驚かないので」
レオンハルトは少しだけ眉を上げた。
「まだ関係があると決まったわけじゃない」
「それはそうですけれど」
「それに、お前が何も知らないなら、まず調べればいい」
オクタヴィアは黙って彼を見た。
相変わらず簡潔な答えだったが、その考え方は一貫している。
疑わしいからといって決めつけず、分からないことは調べる。
それだけのことを、彼は最初から続けているのだ。
「……あなた、案外まともな方ですのね」
「案外は余計だ」
「あら。いつものお返しですわ」
オクタヴィアが少し得意げに微笑むと、レオンハルトは呆れたように息を吐いた。
その反応が妙に愉快で、彼女は久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
もっとも、すぐに表情を引き締める。
「ですが、今回の件は少し厄介ですわね」
「ああ」
「わたくしの名前が関わっているのなら、知らなかったでは済まされないこともあるでしょう」
レオンハルトは何も言わなかった。
オクタヴィアも、それ以上の返事を求めるつもりはなかった。
自分が直接命じたことではなくても、自分の言葉や態度が原因で誰かが動いたのであれば、その責任について考えなければならない。
それは、エレノアたちとの話でも痛感したことだった。
(……本当に、以前のわたくしは随分と面倒なものを残してくださったこと)
そう考えてから、オクタヴィアは心の中で自分に呆れた。
以前の自分。
そんなふうに区別しても、結局は同じ人間なのだ。
前世の記憶を取り戻したからといって、十五年間の自分が別人になるわけではない。
(……ええ、分かっておりますわよ)
自分がしたことは、自分の責任。
その上で、していないことについては、きちんと否定する。
今のオクタヴィアにできるのは、それだけだった。
◇
その夜、ローゼンフェルト公爵家の屋敷へ戻ったオクタヴィアは、夕食後に父アルベルトの書斎を訪れていた。
公爵は机の上の書類から顔を上げると、娘の姿を見て少しだけ眉を上げた。
「オクタヴィア。学院で何かあったのか?」
「ええ。少々、お尋ねしたいことがございます」
「……座りなさい」
父の向かいへ腰を下ろす。
オクタヴィアはまず、学院で起きた魔法具暴走事件について説明した。
自分が疑われていることも、セシリアを守るために防御魔法を使ったことも、調査の中で旧式の制御術式が関わっている可能性が浮かんだことも、できる限り正確に伝える。
アルベルトは途中で口を挟まず、最後まで静かに話を聞いていた。
「……なるほど」
説明が終わると、公爵はゆっくり頷いた。
「それで、私に何を聞きたい?」
「昨年の秋頃、ローゼンフェルト公爵家が学院の旧式魔法具の修復へ資金を提供したことはございますか?」
アルベルトの表情が僅かに変わった。
「……なぜ、それを?」
オクタヴィアは息を止めた。
「では、実際にあったのですね」
「ああ。正確には、公爵家から直接寄付をしたわけではないが」
「……どういうことですの?」
アルベルトは机の引き出しを開け、一冊の記録簿を取り出した。
「昨年、学院の研究活動に関する支援の相談が持ち込まれた。旧式魔法具の修復に必要な費用の一部を、我が家の紹介する商会が負担するという話だった」
「そのような話が……」
「金額も大きくはなかったし、学院への支援であれば問題ないと判断した。ただし、公爵家が直接の寄付者として名を連ねることは避けた」
「どうしてですの?」
「特定の研究に公爵家が関与していると受け取られることを避けるためだ。学術研究への支援と、研究内容への介入は別だからな」
オクタヴィアは静かに頷いた。
父らしい慎重な判断だった。
「では、その支援を持ちかけたのはどなたですの?」
アルベルトは記録簿を開き、ある頁へ目を落とした。
「……少し待ちなさい」
その声が、僅かに低くなった。
オクタヴィアは父の表情を見つめた。
アルベルトはしばらく記録簿を確認していたが、やがて顔を上げる。
「オクタヴィア」
「はい」
「この話を、学院で誰から聞いた?」
「魔法具研究会の代表を務めていらっしゃる、ユリウス・フェルナー伯爵令息ですわ」
「……フェルナー家か」
公爵は小さく呟いた。
その反応に、オクタヴィアの胸がざわつく。
「お父様?」
「いや。少し気になることがあるだけだ」
アルベルトは記録簿を閉じた。
「当時、この支援を仲介した人物については、こちらでも確認しておこう」
「わたくしにも教えていただけますか?」
「必要なことは伝える。ただし、学院側の調査に影響する可能性がある以上、軽率に動くべきではない」
「……承知いたしました」
オクタヴィアは頷いた。
父が慎重になる理由は分かる。
公爵家の名前が事件に関わっているかもしれない以上、迂闊な行動は家そのものへ影響しかねないのだから。
しかし、そこでアルベルトがもう一度口を開いた。
「それと、オクタヴィア」
「何でしょう?」
「一つ確認しておきたいことがある」
公爵は娘を真っ直ぐに見つめた。
「昨年の秋、お前は学院の魔法具研究に関わる者へ、何か依頼をしたことはないか?」
オクタヴィアは目を瞬いた。
「……わたくしが?」
「ああ」
「そのような覚えはございませんけれど」
「本当にか?」
父の声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
オクタヴィアは記憶を辿る。
昨年の秋。
その頃の自分は、エドガーとの婚約に関する社交行事や、学院入学へ向けた準備で忙しかったはずだ。
魔法具の研究などに興味を持った記憶はない。
少なくとも、誰かへ依頼をした覚えはなかった。
「……ございませんわ」
そう答えると、アルベルトは少しだけ考え込んだ。
「分かった」
「お父様、何かご存じなのですか?」
「まだ確認が必要だ」
公爵はそう答え、再び記録簿へ視線を落とした。
オクタヴィアはその様子を見つめながら、嫌な予感を覚えていた。
父は何かを知っている。
少なくとも、自分が知らない事情を把握しているらしい。
そして、それが今回の事件と無関係だとは、どうしても思えなかった。
「……お父様」
「何だ」
「もし、わたくしの名前を使って何かをした方がいらっしゃるのなら、教えていただきたいのです」
アルベルトが顔を上げる。
「なぜだ?」
「わたくしが知らないところで、誰かがわたくしの名前を使っているのだとしたら、それを放っておくわけにはまいりませんもの」
オクタヴィアは背筋を伸ばした。
「わたくし自身がしてきたことについては、責任を取るつもりです。ですが、していないことまでわたくしの責任にされるのは、納得できません」
父はしばらく娘を見つめていた。
やがて、僅かに表情を緩める。
「……随分と変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ。以前のお前なら、まず自分を疑った者を罰するよう求めていただろう」
「……否定はできませんわね」
オクタヴィアは少しだけ視線を逸らした。
アルベルトは静かに息を吐き、記録簿を閉じる。
「分かった。確認が取れ次第、話そう」
「ありがとうございます」
オクタヴィアは丁寧に頭を下げた。
しかし、書斎を出ようとしたところで、父がもう一度声をかけてきた。
「オクタヴィア」
「はい?」
「昨年の秋、お前がある令嬢について不満を漏らしていたことを覚えているか?」
オクタヴィアは足を止めた。
「……ある令嬢?」
「ああ。お前は、その令嬢がエドガー殿下へ近づくことを快く思っていなかった」
胸の奥が冷たくなる。
エドガーへ近づいた令嬢。
そんな人物は、これまで何人もいた。
そして、以前の自分はそのたびに不機嫌になっていたはずだ。
「……どなたのことですの?」
オクタヴィアが尋ねると、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「クラリッサ・エルフォード伯爵令嬢だ」
その名前を聞いた瞬間、オクタヴィアの表情が強張った。
クラリッサ。
自分が社交界で孤立させた令嬢。
そして、入学直前に謝罪をしたものの、今も許されていない相手。
その名前が、なぜここで出てくるのか。
オクタヴィアには、まだ分からなかった。




