最初の盾と矛
ふと気づくと、佐藤は住宅街の開けたアスファルトの上に立ち尽くしていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
激しく肩で息をする。あの耳を狂わせるような甲高いキーンという音も、脳を直接灼かれるような頭痛も、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
ハッとし他表情で、彼は自分の右手に視線を落とす。
無意識のうちに、パーカーのポケットの中であの冷たい水晶の破片を、何か大事なものでも扱うように強く握りしめていた。
結晶の内側で蠢く青白い光。それを見つめていると、不思議と狂いそうだった心が静かに落ち着いていくのが分かった。
それだけではない。パニックで限界まで走り、ガクガクと震えていた足の疲労が、まるで冷たい泉に浸したかのように急速に癒えていく。
「これが……俺を助けてくれたのか?」
手元の石は何も答えない。
しかし、あのブサイクな異形の眼光から自分を守り、正気を繋ぎ止めてくれたのは間違いなくこの水晶のおかげだと、佐藤は確信名たものを感じていた。
彼はハッと我に返り、周囲を見渡す。
目的地の小学校前の公園は、もう目と鼻の先だった。
避難民たちの声が遠くから聞こえてくる。
だが、公園を目指しているはずの佐藤の足が止まった。
(待て……。もし、あの人が大勢いる場所に、さっきの『アイツ』が現れたらどうなる?)
想像しただけで総毛立つ。何百人という避難民が、互いに身内を殺し合う凄惨な地獄絵図が、公園と、小学校の広いグラウンドで巻き起こるのだ。
アイツがいた場所とこの公園はあまりにも近すぎる。
「ダメだ……。今は誰かと一緒にいたら、逆に巻き込まれて危ない。事態が落ち着くまで、どこか静かな場所に隠れるんだ」
佐藤は公園に背を向けた。
現代社会のルールが崩壊した世界で、彼は本能的に「孤独」を選んだ。
ストーカーとしての生存本能が芽生えた瞬間だった。
「せめて、何か武器になるようなものを……」
周囲の民家の庭先やゴミ集積所を焦燥感とともに見回す。
しかし、ここは平和な日本だ。どこぞの吸血鬼の住む島のように、都合よく尖った丸太や日本刀が転がっているわけがない。見つかるのは、せいぜい先が毛羽立った竹箒や、落ち葉を集めるために使うプラスチック製の熊手くらいだった。
「チッ、こんなもんであんな化け物と戦えるかよ……!」
だが、佐藤は熊手を睨みつけ、あることに気づいた。彼は地面に置いた熊手の爪の部分をスニーカーの底で力任せに踏みつけ、へし折った。
バキィッ、と小気味よい音がしてプラスチックのパーツが弾け飛ぶ。手元に残ったのは、長さ1メートルほどの、先端が鋭く斜めに裂けたアルミパイプだ。
「……ないよりはマシか」
中空の軽いアルミパイプ。いかにも頼りないが、他人様の頭を殴りつけるか、犬のような野生動物を突いて遠ざけるくらいの役には立つ。
佐藤は即席の「槍」を両手で握り直した。
(しかし、一体どこに避難すりゃいいんだ? アパートは燃えちまったし、公園も危険となると……)
混濁する思考の中で、日頃の配達の記憶がフラッシュバックする。
(――そうだ! あそこなら……レンタル倉庫ならどうだ?)
佐藤の脳裏に、街の境界近くにあるロードサイドの光景が浮かんだ。
フェンスの中に、オレンジや青に塗装された、いくつもの金属製コンテナが並ぶ、一度見たら深く印象に刻まれるあの場所――レンタルコンテナ。
車用品や家具、季節外れのスキー板などを保管しておくための貸倉庫だ。
あそこなら元々人気がない。
さらに、あの頑丈なスチールの箱の中に閉じこもって鍵を閉めれば、さっきの奇妙なやつからの精神攻撃(視線や電波かはわからないが)身を守れるかもしれない。
「よし、行くか……」
スマホの画面をチラリと見る。バッテリーは残り9%。完全にブラックアウトするまでのカウントダウンが始まっている。
佐藤はアルミパイプを低く構えると、息を浅く吸って気配を殺す。
(奇妙な存在がアレだけとは思えない。それに雷の玉、あれもいつ同じようなのが現れるか……注意して進まないと)
夜の街はすっかり暗闇に沈んでいる。
佐藤は、レンタルコンテナへ向かって一歩一歩、周囲を確かめつつ歩き始めた。
手の中にある、冷たいひとかけらの水晶。その拍動だけを唯一の支えにして。




