不協和音
主要な幹線道路は、もはや完全に機能していなかった。
押し寄せる人の波と車。佐藤はクロスバイクを止めると、ペダルをガードレールにぶつけながら自転車を肩に担ぎ上げた。
台風だろうと配達をこなしてた彼には、人並み外れた執念がある。
家と家の隙間にある、人間が一人やっと通れるほどの狭い私道へと滑り込んだ。
「クソッ、どいつもこいつも邪魔しやがって……!」
額から流れる汗をパーカーの袖で拭い、悪態をつきながら、迷路のような路地裏を力任せに突き進む。ここを抜ければ、小学校前の公園へショートカットできるはずだった。
だが、大通りの喧騒から少し離れたその時、背後の歩道から「異質な悲鳴」が上がった。
それは、さきほどの雷球の恐怖に怯える悲鳴ではなかった。
もっとドロドロとした、人間同士の悪意が爆発したような声。
「――何だ?」
不審に思った佐藤は、ブロック塀の隙間から振り返り、通りの様子を覗き見た。
街灯の消えた薄暗い歩道。一人の女が、倒れた男に馬乗りになっていた。女は獣のようなうめき声を上げながら、男の顔面を何度も、何度も拳で殴りつけている。殴られている男は――女の夫か、あるいは恋人だろうか。
殴られ続ける男は抵抗もせず、ただ虚ろな目で夜空を見つめていた。
狂気はそれだけではなかった。
すぐ近くでは、さっきまで手を繋いでいたはずの親子が、互いの髪を掴み合って地面をのたうち回っている。別の場所では、老人が自分の頭を電柱に狂ったように打ち付け、額から血を流していた。
避難民たちが、突如として身内同士で凄惨な殺し合いを始めている。
「おい、冗談だろ……。集団ヒステリーってやつか?」
佐藤は乾いた声を漏らした。
だが、何かがおかしい。
その苛烈な行動に反して、彼らの目には何の感情もないように見える。
子どもの髪を掴んで歩道に叩きつける女は、まるで子どもの方を見ていない。
妻の胸ぐらをつかんでブロック塀に叩きつける夫は、さらに後ろの男に首を絞められているのに反撃していない。
まるで、何者かに無理やり身体を動かされているかのような不自然さだ。
直後、佐藤の全細胞が危険信号を発した。
ゾク、と背筋を這い上がる強烈な寒気。
鼓膜の奥で、キィィィンという不快な耳鳴りが鳴り響く。
視線を感じた。
狂気と混沌に満ちた歩道の先、街灯の影に「それ」はいた。
最初、佐藤はそれを浮浪者か何かだと思った。ボロ布のような衣服を纏っている。
しかし、身体のバランスが決定的に異常だった。
そいつの後頭部だけが、まるで巨大な腫瘍のように異常に肥大している。
周囲の人々が血を流して叫び合う中、その影だけが、静寂の壁に守られているかのようにピクリとも動かず佇んでいた。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
街の火災の赤黒い光が、その顔を不気味に照らし出す。
「う、あ……」
佐藤の喉が引き攣った。
それは人間の顔ではなかった。皮膚は壊死したような灰褐色で、鼻の肉は削げ落ち、不釣り合いに裂けた口元は、奇妙で不細工な、歪んだ笑みを浮かべている。
そして、その奥にある濁った二つの眼球が、完全に佐藤を捉えた。
ズキィィィン!!!
脳髄を太い針で突き刺されたような、激しい頭痛が佐藤を襲う。
視界がぐにゃりと歪み、世界の色がセピア色に反転していく。
耳鳴りは大音量のサイレンへと変わり、頭の中で「死ね」「殺せ」「お前のせいだ」という見知らぬ他人の声が何重にも反響し始めた。
(あいつだ。あいつが、みんなを狂わせてる――!)
本能が、あの異形は人間が絶対に勝てない「何か」だと絶叫していた。
「あ、が……っ!」
佐藤は担いでいた自転車を地面に投げ捨てた。ガチャーンと金属音が響く。
何年も自分の足として、相棒として稼ぎを支えてくれたクロスバイク。それを振り返る余裕すら今の彼にはなかった。
頭を両手で強く抱え込み、佐藤は路地裏の奥へと狂ったように走り出した。
背後からは、まだあの肉を殴りつける鈍い音と、何かが脳を侵食してくるような不気味な高周波が追いかけてくる。
自転車も、スマホの地図も、もうどうでもいい。
佐藤はただ、目の前の暗闇へ向かって、這うようにして逃げ惑うしかなかった。




