夜明
夜明けの指先
ちゅん、ちゅん……と、遠くから朝を告げる鳥のさえずりが聞こえてくる。
格子戸の隙間から差し込むのは、優しくも眩しい五月の朝の光だ。
「ん……」
梨乃は、心地よい寝具の温もりのなかで、ゆっくりと目を覚ました。
いつもなら「あ〜、よく寝た!」とすぐに起き上がるところだが、今朝はなぜか、意識が覚醒していくにつれて、奇妙な感覚が肌に残っていることに気づく。
(……あれ? なんだろう、この感じ……)
前髪の下、自分の額のあたりに、じんわりとした、妙にリアルな温もりが残っているのだ。
それは、昨日安明に扇子で「ぽん」と叩かれた感触とは、明らかに違っていた。もっと柔らかくて、温かくて、どこか切ないほどに優しかったような――。
(……そういえば、夜中にうっすら目が覚めた気がする。誰かが、私の枕元に座って、じっと私を見ていたような……。そのあと、冷たい指先が私の前髪をそっと分けて、その、額に……)
そこまで思い返して、梨乃の顔が一気にボッと赤くなった。
(いやいやいや! 気のせい! 夢よ、夢!! 毎日が怒涛の展開すぎて、ついに私の脳みそが都合のいい少女漫画みたいな夢を見せ始めたのよ!)
慌てて布団を頭まですっぽり被り、バタバタと足を動かして照れ隠しをする梨乃。
しかし、部屋を見渡せば、昨夜あれほど荒れ狂っていた外の不気味な空気は完全に消え去り、部屋を護っていた特級結界の光も、役割を終えたように静かに朝の光へと溶けていくところだった。
激しい戦いを終えた誰かが、夜明け前にこの部屋に戻ってきて、傷一つない姿で眠る梨乃の顔を確認していった――そう考えるのが、一番自然な気もする。
(もし本当に安明さんだったら……あんなドSな人が、そんな少女漫画みたいなことする……!?)
額に残る温もりを手のひらでそっと押さえながら、梨乃の心臓は、朝一番からうるさいほどに脈打ち始めていた。
「気のせい、気のせい! 朝ご飯作らなきゃ!」
梨乃は慌てて寝具から這い出ると、額の熱を冷ますように両手で頬をパンパンと叩き、急いで厨房へと向かった。
噂話と、真心の朝粥
厨房に入ると、すでに竃から白い湯気が立ち上り、お米の炊けるいい香りが広がっていた。
「あ、梨乃様! おはようございます」
「おはようございます! 今日も少しお手伝いさせてくださいね」
すっかり打ち解けた女房たちと並んで、梨乃は手際よく作業を始めた。今朝のメニューは、昨夜の残りの美味しいお出汁をベースにした、身体に優しい特製の朝粥。それと、ちょっとした箸休めの香の物だ。
パタパタと小気味よく動きながら、梨乃はさりげなさを装って女房たちに尋ねてみた。
「あの、安明さんは……まだ戻られていないんですか?」
すると、一人の女房がトントンと野菜を刻みながら、クスクスと嬉しそうに目を細めた。
「いいえ、安明様なら早朝、まだ朝日が昇りきる前の薄暗い時分にお戻りになりましたよ。そのまま、すぐにあのお部屋へ入っていかれましたわ」
「えっ……部屋に?」
「ええ。いつもならお戻りになるとすぐに、ご自身の寝所で着替えをなさるか、書斎に籠もられるのですが……。今朝はなぜか、まっすぐに梨乃様のお部屋の方へ向かわれたので、私どもも少々驚きましたの」
女房たちの言葉に、梨乃の手がピタッと止まる。
(……早朝にお戻りになって、真っ直ぐ私の部屋に……。ってことは、やっぱりあの額の温もり、夢じゃなくて……本物だったんだ……!?)
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
激しい戦いを終えて、クタクタに疲れているはずなのに、真っ先に自分の無事を確認しに来てくれた安明。冷たい指先で前髪を払い、そっと額に触れていった彼の姿を想像してしまい、梨乃の耳たぶまで一気に真っ赤に染まっていく。
「……梨乃様? お顔が赤いですが、竃の火が熱うございますか?」
「あ、ううん! なんでもないの! ちょっと火力が強いかなって!」
女房たちに突っ込まれて、慌ててお粥をおたまですくい上げる梨乃。
(とにかく、安明さんは今、ご自身の部屋で泥のように寝てるかもしれないんだよね。徹夜でお仕事してくれたんだもん。起きた時に、とびきり美味しいご飯があった方が絶対にいいよね!)
恥ずかしさを吹き飛ばすように、梨乃は真心と愛を込めてお粥を仕上げていった。
「――よし、できた!!」
ふっくらと炊き上がった、お出汁の香りが優しく漂う極上の朝粥が完成した。これなら、怨霊を祓って心身ともに疲弊した身体にもサラサラと入るはずだ。
無言の答え合わせ
(いくらなんでも、男の人の私室に勝手に入るのはマナー違反だよね……。もし本当に爆睡してたら悪いし、何より、さっきの『額の温もり』の件があるから、今二人きりで寝顔を見るなんて私の心臓がもたない……!)
梨乃は安明の私室の前まで行ったものの、赤くなりそうな頬を押さえながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「よし、朝餉を食べるお部屋に運んでおこう。起きてきたらすぐに食べられるようにね」
女房たちに手伝ってもらいながら、梨乃はお盆に載せた温かい朝粥と香の物を、いつも食事を摂る広間へと運んだ。
まだ誰もいない静かな広間。御簾の隙間から差し込む朝の光が、お粥から立ち上る白い湯気を優しく照らしている。
「ふぅ。冷めないように、蓋をしておこうっと」
丁寧に器に蓋を閉め、お膳を整えて「完璧!」と満足げに微笑んだ、まさにその時だった。
「――ずいぶんと朝早くから、熱心なことだな」
不意に、背後の御簾がさらりと揺れる音がして、低く、少し掠れた声が響いた。
梨乃がビクッと肩を跳ね上げて振り返ると、そこには薄衣の寝間着である白衣を無造作に纏っただけの安明が立っていた。
いつも完璧に結ばれている髪は少し緩く肩に流され、烏帽子もつけていない。徹夜明けのせいか、その美しい切れ込みの入った瞳はいつもより少し眠たげで、どこか近寄りがたいほどに無防備な色気を放っていた。
「あ……安明さん! 起きちゃったんですか? 寝ててよかったのに……」
梨乃が慌てて駆け寄ると、安明はふっと目を細め、広間に漂うお出汁の優しい香りに視線を向けた。それから、梨乃の顔をじっと見つめる。
「部屋に、お前の香が残っていたからな。……いや、邸中に美味そうな『ちえ』の香りが満ちていて、目が覚めてしまったという方が正しいか」
安明は歩み寄ると、お膳の前に優雅に腰を下ろした。そして、蓋を開けて湯気が立つ朝粥を見つめ、それから悪戯っぽく唇を歪める。
「わざわざ私の私室の前まで来たくせに、中に入らずにここへ引き返しただろう。……気配で分かっていたぞ。案外、意気地のない奴め」
「えっ……!?」
梨乃の心臓がドキン、と跳ね上がった。
(気配で分かってたって……じゃあ、やっぱり、夜中に私の部屋に来たのも、あの額の温もりも……!)
確信犯的な安明の視線に、梨乃の顔は瞬時に真っ赤に染まっていく。
安明はそんな梨乃の反応を「ふっ」と満足そうに見つめて楽しむと、お粥を一口、優しく口へと運んだ。
「……美味いな。疲れた腑に、じんわりと染み渡るようだ」
今度はからかうことなく、素直に漏らされたその言葉と、穏やかな微笑み。
お互いに夜中の「答え合わせ」は決して口にしない。けれど、二人の間の距離は、この柔らかな朝の光の中で、昨日よりも確実に、ぐっと甘く縮まっていくのだった。




