公務
国家公務の陰陽師
次の日の朝。
昨日あれだけ働いたというのに、上等な寝具のおかげで目覚めは驚くほどスッキリしていた。梨乃は「今日も一日、生き延びるぞ!」と小さく拳を握って気合を入れ直し、廊下を歩いていた。
すると向こうから、朝の柔らかな光を浴びて、どこか人間離れした神聖さすら纏った安明が歩いてくる。手にはいつもの扇子。相変わらず、隙のない冷徹な美しさだ。
「おはようございます、安明さ――」
「なんだ、その寝惚けた顔は。昨夜は私がいないのがそれほど寂しくて眠れなかったか?」
すれ違いざま、挨拶もそこそこに、端正な唇の端を釣り上げてからかってくる。その眼差しには、獲物の反応を愉しむような、意地の悪い光が宿っていた。
「ち、違います。爆睡でした」
梨乃が真っ赤になって抗議すると、安明は「ふっ、嘘をつくと空気が歪むと言っただろう」と、その気の揺らぎを見透かすように目を細めた。そして、持っていた扇子の要で、梨乃の頭を(ぽん、ぽん)と軽く叩く。その動作は、お仕置きのようでありながら、どこか奇妙な距離の近さを感じさせた。
「まあよい。大人しく留守番をしていろ。……これから陰陽寮へ出仕せねばならん。今日の公務は少々骨が折れそうだ」
そう言い残すと、安明は一瞬で表情から笑みを消し、完全な仕事モードの優雅な足取りで、従者を連れて邸を出ていった。
頭を叩かれた感触を頭頂部に残したまま、梨乃は廊下で一人、ぽつんと立ち尽くした。
「おんみょうりょう……」
その響きを頭の中で反芻した瞬間、梨乃の背中にゾクッと鳥肌が立った。
(陰陽寮……! 教科書で見た、あの、中務省に属するリアルな国家機関だ……!)
現代の日本でお役所に出勤するのと同じ感覚で、安明が「陰陽寮に行ってくる」と言った事実。そこには、昨夜彼が戦っていた本物の怪異や、彼が操る陰陽術が、この世界では「国家の政」として厳然と存在しているという圧倒的な現実があった。
(安明さん、ただの偏屈な天才貴族じゃなくて、ガチの超エリート国家公務員なんだなぁ……)
遠い世界に来てしまった寂しさよりも、歴史の教科書の世界に自分が息づいているというリアルな感動が勝り、梨乃は自分の頭を叩かれた場所をそっと押さえながら、しみじみとため息をつくのだった。
邸の救世主と、陰陽寮の暗雲
「梨乃様、このお野菜、すぐに傷んでしまうのですが……何か良い工夫はございませんか?」
「あ、それならね、この涼しい日陰の床下に、こうして風が通るようにカゴに入れておくと長持ちしますよ。あと、こっちの干物は……」
西の対の古い納戸を見事に整理し、女房たちの信頼を勝ち取った梨乃は、台所や庭の洗濯場にまで顔を出し、下人たちとも気さくに言葉を交わしていた。
最初は「主人が連れてきた異界の怪しい女子」と遠巻きに見ていた下人たちも、梨乃が身分を笠に着ず、泥汚れを嫌がらずに一緒に汗を流す姿を見て、急速にその心を開いていく。
「まあ……梨乃様は本当に知識が豊富なのですね」
「私ども下民の拙い知恵とは、比べものになりませぬわ」
女房たちが目を輝かせて感嘆するたびに、梨乃は「いやいや、ただの生活の知恵だから!」と慌てて手を振った。現代ならネットで検索すれば一瞬で出るような類のライフハックだが、医療も保存技術も未熟なこの時代の人々にとっては、命を守り、暮らしを劇的に豊かにする「最先端の素晴らしい知識」だったのだ。
(よしよし、みんなと仲良くなれたぞ。安明さんの邸の居心地、どんどん良くなっていくなぁ)
梨乃がそんな等身大の充実感を味わい、己の居場所を確かに築きつつあった、ちょうどその頃。
都の中心、大内裏の一角にある陰陽寮の庁舎。
その奥まった一室では、梨乃のいる邸の温かさとは正反対の、息が詰まるような重苦しい空気が立ち込めていた。
「――間違いないのだな」
低く、冷徹な声が部屋に響く。
脇息に肘をかけ、届けられた報告書を冷ややかな目で見下ろしているのは、安明だった。
彼の前には、数人の陰陽師や天文博士たちが、額を床に擦り付けんばかりに平伏し、声を震わせている。
「は、はい……! ここ数日、都の北東、鬼門の方角における不穏な気の膨れ上がり方は異常にございます。昨夜、安明様が祓われた怪異は、ほんの端切れに過ぎず……」
「各地の観測でも、妖の動きがかつてないほどに活発化しているとの報告が相次いでおります。このままでは、近いうちに都の結界を破るほどの大物が現れるかと……!」
ひそひそと怯えるような声が部屋を満たす中、安明は持っていた扇子をパチン、と大きな音を立てて閉じた。
その瞬間、周囲の陰陽師たちがビクッと肩を震わせ、部屋の空気が一段と氷結する。
安明の脳裏に浮かんだのは、昨夜、自身の結界の中で無防備に眠っていた、あの奇妙な娘の姿。そして、彼女が放つ、この国の五行のどれにも属さない『澄み切った異質な気』。
(……妖どもの動きが急に活発化したのは、あの娘がこの都に落ちてきた時期と、奇妙に一致するな。やはり、あの異質な気につられて、闇の奥に潜んでいた大物が目を覚ましつつあるということか……)
それが、冷徹なる天才陰陽師・安明の本質だった。
やはり当初の目算通り、彼女を「撒き餌」として囮に使えば、都を脅かす怪異の親玉を引きずり出し、一網打尽にできるかもしれない。その方が確実であり、陰陽寮の長たる己の役割としても至極真っ当な判断のはずだった。
しかし――。
「……チッ」
安明は、誰にも聞こえないほどの小さな音で、不快そうに舌打ちをした。
以前の彼なら、都の平穏のため、そして自身の目的のために、迷わずその効率的な手段を選んでいたはずだ。なのに、今朝、自分のからかいに真っ赤になって怒り、扇子で頭を叩かれて不満げにしていた彼女の、あのあまりにも無力で等身大の顔が、どうしても脳裏を離れない。
(下らん。あのような無力な羽虫、どう扱おうと私の勝手だというのに……。囮にすれば、あの乾いた気は一瞬で濁り、喰い尽くされるか)
それは、彼自身にとって極めて不快な「計算の狂い」だった。
安明はゆっくりと立ち上がると、直衣の裾を厳かに翻した。
「これ以上の騒ぎは、上に報告するまでもない。鬼門の件は、引き続き私が直々に預かる。お前たちは結界の補強にだけ集中していろ」
「は、ははっ! 畏まりました!」
怯える部下たちを後にし、陰陽寮の長い廊下を歩く安明の表情は、いつになく険しいものだった。
都を揺るがす怪異の足音。そして、その中心にいるであろう、己の邸で無邪気に笑う、あまりにも脆く、そして計算を狂わせる「異物」。
安明は手の中の扇子を固く握り締め、昏い情動を押し殺すように、ただ前を見据えて歩を進めた。
出汁と暖かな灯火
夕暮れ時。都の空が燃えるような茜色から、ねっとりとした藍色へと染まりゆく頃、安明がようやく邸へと帰ってきた。
陰陽寮での重苦しい報告と、梨乃をどう扱うべきかという冷徹な計算。一日中頭を悩ませていた彼の表情は、門をくぐった時点では、いつになく険しく、近寄りがたい冷徹さを纏っていた。
しかし、主殿の廊下に一歩足を踏みした瞬間――。
「あ、おかえりなさい、安明さん! ちょうど良かった、今夕餉が出来たところですよ!」
パタパタと小走りでやってきた梨乃が、まるでずっと待っていたかのように、満面のひまわりのような笑顔で彼を迎えた。その手には、この時代には珍しい、清潔に仕立てられた手拭いが握られている。
安明は一瞬、毒気を抜かれたように足を止め、それからいつものように意地悪く口元を歪めた。
「ほう……。私がいない間、大人しく怯えていたかと思えば、随分とこの邸に馴染んでいるようだな」
わざと冷ややかな声音で言ってみせる安明。しかし、胸の奥に燻っていた陰陽寮でのトゲトゲとした空気は、彼女の屈託のない笑顔を見ただけで、不思議なほど霧散していくのを自覚せざるを得なかった。
そこへ、背後からお膳を運んできた女房たちが、嬉しそうに声を弾ませて安明に一礼する。
「安明様、今夜の御膳はいつもと一味違いますのよ。梨乃様がお力添えくださったのです」
「さようでございます。傷みやすい食材の扱いから、お出汁のとり方まで……梨乃様の驚くべき『ちえ』のおかげで、これほど素晴らしい夕餉が仕上がりました」
女房たちが口々に梨乃を絶賛する様子を見て、安明は少しだけ目を見開いた。
「お前が……厨房に立ったというのか? 下民のフリをやめたと思えば、今度は女房たちをそそくかして料理番の真似事とはな。……本当に、じっとしていられぬ異物だ」
安明は呆れたように溜息をつきながらも、手にした扇子の要を梨乃の額に(ぽん)と、今朝よりもずっと優しく、労うように当てた。
「よかろう。陰陽寮での退屈な政で、ちょうど酷く腹が減っていたところだ。お前の言う『ちえ』が詰まった夕餉、その価値を今夜はじっくりと吟味してやろう」
そう言って、安明は梨乃の横を通り過ぎる際、彼女にしか聞こえないほどの低い声で囁いた。
「……美味になければ、今夜こそ寝かせんからな」
(またそういう不穏な冗談を言うーーー!!)
真っ赤になって固まる梨乃を置いて、安明はふっと満足げに笑い、部屋の奥へと歩いていく。
陰陽寮で「彼女を囮にするか」と冷酷に天秤にかけていた男とは到底思えない、ほんのりと甘い空気。都に迫る妖の陰謀を知る由もない梨乃の作った温かい夕餉が、いま、天才陰陽師の冷え切った心を、確実に、優しく溶かし始めていた。
「もぐ、もぐ……」
自分の分のお膳を前に、梨乃も密かに舌鼓を打った。現代の便利な調味料はないけれど、昆布や、煮干しに代わるこの時代の出汁を丁寧に、かつ贅沢に引いたスープは、素材の旨味が凝縮されていて驚くほど深い味わいになっていた。
おそるおそる、膳を挟んで向かい側に座る安明に視線を送る。
安明はいつも通り、優雅で隙のない所作で箸を動かしていた。一口、また一口と、梨乃が考案した「出汁の効いた優しいお粥と、大根の含め煮風」を口に運んでいる。
いつもならほんの少し箸をつけるだけで「もうよい」と膳を下げさせてしまう彼が、今夜は珍しく、黙々と食べ進めているのだ。その切れ上がった美しい目元も、どこか心なしか、いつもより柔らかく緩んでいるように見えた。
(……あ、今、ちょっと満足そうに目を細めた気がする! よし、胃袋掴んだ!)
梨乃は心の中で小さくガッツポーズ。
気強い天才陰陽師相手でも、現代の知恵は有効だったようだ。これでこの邸での生存確率、および居心地の良さは爆発的に跳ね上がったに違いない。
安明は、梨乃の視線と、彼女の頭の中で繰り広げられているであろう不遜な「ドヤ顔」を気の揺らぎから察したのか、ふっと箸を置いた。
「……何だ、その勝ち誇ったような目は。言っておくが、まだ『美味』と認めたわけではないぞ。ただ……昨夜の飢えを凌ぐには、悪くないというだけだ」
相変わらず素直じゃない物言いだった。だが、彼のお膳を見れば、お粥もおかずも、見事なまでに綺麗に完食されていた。
「ふふ、お口に合わなかった割には、すっかり綺麗になくなってますね?」
梨乃が少しからかうように言うと、安明は一瞬だけ、本当に一瞬だけ気まずそうに視線を逸らした。しかしすぐに、妖艶な笑みを浮かべて身を乗り出してくる。
「言うようになったな。私の胃の腑を満足させた褒美だ。……今夜はお前のその『ちえ』の出処について、もっと深く、夜通し語ってもらおうか」
「あ、それ昨日も聞きました! 却下です!」
昼間の陰陽寮での重苦しい空気や、都に迫る妖の脅威なんて、今のこの部屋には微塵も感じられない。
安明は、自分の心に滑り込んできたこの暖かな灯火を守りたいと、梨乃の笑顔を見つめながら静かに思うのでした。
背中への祈り
「却下、か。お前に拒否権があるとでも思っているのか?」
梨乃の小気味よいお断りに、安明がいつものように妖しく微笑み返した、その瞬間。
彼の懐から、パチパチッと小さく火花が爆ぜるような音が不穏に響いた。
見れば、直衣の隙間から覗く呪符の束が、昨日よりも激しく、まるで恐怖に怯える生き物のように小刻みに震えている。都の鬼門に集う怨霊どもの蠢きが、一段と強まった証拠だった。
「……チッ、またか」
安明の顔から、先ほどまでの僅かな弛緩が一瞬で消え去った。その瞳は冷徹な陰陽師のそれへと戻り、彼は静かに、けれど素早く立ち上がる。
(あ、また……夜のお勤めだ)
梨乃は、彼が纏う一瞬で張り詰めた空気でそれを察した。
安明は烏帽子を軽く整えると、御簾の方へと歩き出す。その背中を見送りながら、梨乃はふと、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えていた。
(今夜も、またすぐにお仕事なんだ……。天才陰陽師なんて言われて、偉そうにドSなことばっかり言ってるけど、本当は毎日夜通し命がけで戦ってて、めちゃくちゃ大変なんだなぁ……)
現代の激務なビジネスパーソンなんて比じゃない。たった一人で都の命運を背負って闇と対峙している安明。そんな彼に、梨乃は自然と、お膳の向こうから声をかけていた。
「安明さん」
「……何だ。まだ話し足りないか?」
振り返った安明に、梨乃は真っ直ぐな視線を送る。
「今夜も、お仕事なんですね。……大変ですけど、あの、ちゃんと無理しないで、気をつけて行ってきてください。また明日、美味しい朝餉を作って待ってますから」
梨乃のその言葉に、安明は一瞬、本当に驚いたように目を見開いた。
この世界で、彼に「無理をするな」「気をつけて」などと、その身を純粋に案じる言葉をかける者など存在しない。周囲の人間はみな、彼を「人間の規格から外れた、畏怖すべき最強の陰陽師」としてしか見ていないのだから。弱音を吐くことも許されぬ彼に向けられた、あまりにも等身大で、温かい人間としての響き。
安明はしばらく無言で梨乃を見つめていたが、やがて、フッと、いつもの皮肉げな笑みとは違う、どこか心底愛おしさを噛み締めるような、柔らかい微笑みを浮かべた。
「……お前という奴は、本当に私の計算を狂わせる。この私が、そこらの有象無象の怪異に遅れをとると思うか? 心配など、千年早いわ」
そう言いながらも、安明は梨乃の傍らまで戻ってくると、その衝動を堪えきれないといった様子で、彼女の頭を少し乱暴に、けれど確かな温もりを込めて叩いた。
「私の胃袋を掴んだのだ、勝手に死ぬことは許さん。……昨日よりもさらに強固な結界を敷いていく。大人しく、良い子で待っていろ」
怨霊どもが梨乃の異質な気を狙っている可能性はある。だが、彼が今ここに展開しようとしている術は、単なる「囮の保護」などでは決してなかった。
「それはこっちの台詞ですよ、危険な目に遭うのは安明さんの方なんですから」
「……フッ。行ってくる、梨乃」
その言葉を最後に、安明は夜の闇へと、優雅に、そして力強く消えていった。
残された梨乃は、部屋を包む温かい結界の光がかすかに明滅するのを見つめながら、「よし、明日も美味しいご飯作ろう!」と、この過酷な世界で彼を支える決意を新たにした。そして、彼の無事を祈りながら、今夜もふかふかのお布団へと潜り込むのだった。




