値踏
審判の朝と、冷徹な値踏み
結界の膜が、朝の光を受けて淡く明滅している。
その光に包まれて目を覚ました梨乃は、自分が確かに千年以上前の夜を越えたことを実感した。昨夜、結界に守られていたおかげか、不思議と深く眠れた気がする。
(……静かだ。あの不穏な妖の鳴き声も、もう聞こえない)
そう思った瞬間、部屋を包んでいた結界の膜が音もなく霧散した。
朝の冷たい空気が肌を撫でる。その直後、廊下の先から、ひたひたと歩み寄ってくる足音があった。現れたのは、夜通し怪異を祓い、狩衣を微かに焦がした安明だった。
「……起きていたか。主殿へ来い。お前の『値』を測る」
彼はそれだけ告げると、表情一つ変えずに背を向け、主殿の方角へと去っていった。
後に残された梨乃は、呆然としながらも、慌てて寝台の脇に畳んであった淡い桜色の小袿を羽織る。昨夜、泥を落として整えられた髪を鏡なしで簡単にまとめ、部屋の外で待機していた女房に声をかけた。
「あの……主殿まで案内をお願いできますか?」
昨日とは別の、無表情な女房に導かれるまま、梨乃は広い廊下を歩く。案内された先は、昨日とは比べ物にならないほど厳格な空気が漂う主殿であった。
女房が静かに御簾を上げ、梨乃を促す。その奥に座していたのは、狩衣から公的な場にふさわしい、仕立ての良い直衣に着替え終えた安明だった。夜通し怪異と渡り合い、僅かな時間の間に身なりを完璧に整えたその隙のない美しさは、近づきがたいほど神々しい。
「そこへ座れ」
短く、拒絶を許さない声。
梨乃は部屋の真ん中、安明から少し離れた板敷きの床の上で、おずおずと正座をした。板床の冷たさが膝を通して伝わってくる。
安明は、脇息に美しく細い肘を預け、流れるような動作で手にした扇子を閉じた。
朝の光が差し込む広い部屋に、パチン、と硬い音が響く。そして安明は、その扇子の先端で、己の片膝を――(ぽん、……ぽん、……ぽん)。
規則正しく、静かに叩き始めた。その小さな音が、やけに広く静かな部屋に響き渡り、梨乃の緊張をいや増させていく。
安明の切れ上がった涼しげな瞳は、じっと、ただ真っ直ぐに梨乃を捉えていた。
そこには、昨日までのような「珍しい玩具」を眺めるような軽さは微塵もない。怜悧で、底が深く、何を考えているのか全く読めない――まさに「都の闇を統べる、天才陰陽師」の冷徹な眼差しだった。
品定めされるように上から下まで視線で射抜かれ、梨乃は居心地の悪さに身を縒りたくなるのを必死に堪えた。
(……そうだ。私は昨日、自分の口で『遠いところから来た、牛車でも辿り着けない場所だ』って言っちゃったんだ。つまり、今のこの時間は……ただの無害な迷い人として保護する段階は、昨夜で終わったのだ)
ここからは、生かすべきか、それとも災いの芽として排除すべきかを見定めている。その張り詰めた沈黙が、安明の放つ冷気となって梨乃の肌を刺した。
(……黙って殺気を浴びるだけじゃ、私はただの『観察対象』で終わる。何とかして、この沈黙に風穴を空けなきゃ)
あまりの視線の痛さに、梨乃は意を決して上座の主人を見上げた。
「……何を、仰りたいのですか。そうして沈黙のまま視線を向けられると、こちらの魂が削り取られるようで……まともに呼吸すらできません」
精一杯、声を絞り出す。それは安明という絶対的な権力者に対し、沈黙による窒息を拒絶するような、梨乃なりの精一杯の自己防衛だった。
すると、膝を叩いていた扇子の動きがぴたりと止まった。安明は少しだけ顎を引き、細い瞳の奥に冷たい、けれど試すような鋭い光を宿して静かに唇を開いた。
「……ほう。この沈黙に耐えきれず、自分から切り出してくるとは。お前がこの都にとって『害』となる異物か、それとも私の役に立つ『益』となる存在か……。それを静かに見定めていたのだが、どうやらお前には、待つという美徳は備わっていないようだな」
安明は脇息から肘を離すと、上半飾を少しだけ前へと傾けた。物理的な距離はさほど縮まっていないというのに、彼が動いただけで、強力な霊力の圧が肌をチリチリと刺すように迫ってくる。
「昨日、お前は『嘘偽りのない、澄んだ気』を放っていた。だからこそ、処分もせず生かしてここに置いている。だが、ただ無害なだけの羽虫を、いつまでも私の邸で養っておくほど、私は慈悲深くはないのだよ」
扇子でトントンと自身の顎を叩きながら、安明は梨乃の魂を抉り出すような声で問いかけた。
「さあ、示してみせろ。お前のいた『遠き地』の知識、あるいはその身に宿る異質な力が、この私にどんな利をもたらすのか。お前の『価値』を、私の前で証明してみせよ」
異物の言い分と、認証の木札
(どう答えるのが、この男に対する正解だ……!?)
梨乃の脳内はフル回転していた。ここで「何の価値もない」と言えば処分されるか路頭に迷う。逆に大口を叩けば、一生檻に監禁されかねない。
(私の持っている手札は……この中世さながらの衛生環境や、乱雑な生活を正す知恵なら……!)
梨乃はゆっくりと深呼吸をし、上座の安明を真っ直ぐに見据えた。
「安明様。私には、あなたの持つような素晴らしい陰陽術も、戦う力もありません。ですが……私のいた場所は、ここよりもずっと『病にかかりにくく、物が溢れ、人が長く生きられる理』に満ちた世界でした。私の知識なら、どうすれば病を未然に防げるか、どうすれば限られた物資を滞りなく管理できるか……そういう『営みの知恵』を、あなたの邸にお貸しできます」
安明はしばらく無言のまま、梨乃を見つめていた。やがて彼は、皮肉げな、けれど極めて深い興味をはらんだ笑みを唇に浮かべる。
「……病を防ぎ、物の滞りを無くす、異界の理か。呪詛や怪異といった陰の力ではなく、陽の営みの根底を整えると。なるほど、お前が放つ、あの不自然なほど清潔で乾いた気の理由が、少し分かった気がするな」
安明は脇息から身を離し、立ち上がると梨乃の前まで歩いてきた。彼はその場に美しく気品のある動作でしゃがみ込み、視線の高さを合わせる。
「よいだろう。お前の言う『ちえ』とやらが、単なる大言壮語か否か、この邸で試してやる。……まずは、西の対の奥にある古い納戸の整理を命ずる。あそこは文台や古びた記録が積み重なり、湿気と埃が理を乱している。お前の言う、物の滞りを無くす力を私に見せてみよ」
安明は懐から、奇妙な紋様が彫り込まれた一枚の小さな木札を取り出し、梨乃の目の前の板敷きに静かに置いた。
「その札を持っていれば、納戸にかけた私の結界を通り抜けることができる」
(敷地全体にも、私の部屋にも結界を張っておいて、今度は納戸にまで?……まるで、家の中にいくつもセキュリティのかかった電子ロックがあるみたい。この人はどれだけ用心深いんだろう)
梨乃が息を呑むのを、安明は見透かしたような笑みで見つめている。
「お前の価値、じっくりと測らせてもらうぞ、梨乃。もし落胆させるような結果であれば……その時は、分かっているな?」
冷徹な釘を刺しながらも、彼は梨乃という異物を己の領域へ、まずは最も外側の境界線として正式に組み込むことを決めた。二人の、一歩も引かない監視と対峙の生活が、ここから本格的に始まっていく。
異世界の防塵、陰陽師の目算
「ふぅ……。よし、やるぞ」
安明に案内された西の対の奥――古い納戸に足を踏み入れた梨乃は、その圧倒的な「埃と湿気」に一瞬怯んだものの、すぐに腹をくくった。ここで成果を出さなければ、あの冷徹な主人に切り捨てられる。
この時代の人間には奇異に映るだろうが、梨乃は近くにいた女房に頼み込み、清潔な白い麻の端切れをいくつか借り受けた。それを器用に折り畳んで耳の後ろで結び――即席の「布マスク」を作り上げる。
「これでハウスダスト対策は問題ない。さあ、まずは換気からね」
袖を実用的にたくし上げ、パタパタと小気味よく、けれど大切な文台や古びた記録を傷つけないよう丁寧に叩き、整理を始める。マスクのせいで息は少し籠もっていたが、その迷いのないテキパキとした動きは、この時代ののんびりとした女房たちのそれとは明らかに一線を画していた。
その頃、主殿の自室に戻った安明は、文机の前に座りながら、先ほど梨乃が残していった空気の残滓を測るように、手の中の扇子を弄んでいた。
「……生活の知恵、ときたか」
誰もいない部屋で、安明の唇から、ふっと低く冷ややかな笑いが漏れた。
実は、先ほどまでの対峙において、安明が梨乃に求めていた「価値」の真意は、彼女の言うような実用的な知識などでは到底なかった。彼が本当に視ていたのは、梨乃の魂の奥底、その霊的な特異性だ。
(私が求めたのは、あ奴の持つ『霊的な異能』。あの見たこともない気の流れ……強力な結界を呪いとして弾くような『無効化』の力か。あるいは、この国の五行のどれにも属さぬ、未知なる属性の依り代か。最悪……あの穢れなき気を撒き餌にすれば、都にのさばる大物の怪を引きずり出す最高の『囮』にすらなると、そう踏んでいたのだがな)
それが、冷徹なる天才陰陽師・安明の本質だった。彼は、梨乃が宮廷の権力闘争や、怪異との命がけの戦いにおいて、どれほど強力な「駒」になるかを冷酷に見定めていたのだ。
それなのに、彼女が堂々と胸を張って差し出してきたのは、まさかの「生水の危険」だの「物を長持ちさせる」だのという、あまりにも等身大で、泥臭い『生きるための知恵』だった。
陰陽術という超越的な力で世界を視ている安明にとって、その提案は、計算を狂わせる驚き以外の何物でもなかった。
「命のやり取りをする場で、生きるための営みを説くか。……だが、不思議とあの娘が言うと、それが何よりも強固な理のように聞こえるから妙だな」
先ほど、納戸へ向かう梨乃の様子を遠目に覗いた配下の式神からは、「梨乃殿が顔の下半分を白い布で覆い、怪しげな呪術の構え(ただの雑巾絞り)をして、書物を仕分けしております」と困惑した報告が入っていた。
「顔に布、か。また私の知らぬ『防備のまじない』を始めたらしい。……本当に、退屈させない異物だ」
安明は扇子でトントンと机を叩くと、脇息にもたれかかり、天井を見上げた。瞳の奥にある冷徹な計算は、いつの間にか、彼女という存在そのものへの尽きない興味へと塗り替えられつつある。
「物の怪の囮にするには……ふむ、少し惜しくなってきたな。面白い娘だ。しばらくは私の側で、その奇妙な『ちえ』とやらを、余すことなく披露してもらうとしよう」
不遜な呼び名
「ふぅ……! ひとまず、こんなもんかな!」
梨乃は、マスク代わりにしていた白い布をパッと外すと、額の汗を袖で拭い、満足げに両手を腰に当てて完成した納戸を見渡した。
床に乱雑に積み上げられ、どこに何があるかも分からなかった大量の書物、巻物、そして木簡。梨乃は現代の生活で培った分類の精神をフルに発揮し、文字の雰囲気や巻物の紐の色など、判別できる範囲で整然と種類別に仕分け、配置したのだ。
湿気対策として窓を開け放ち、風を通された納戸は、さっきまでのジメジメした暗がりが嘘のように、清々しい朝の光に満ちていた。
その様子を、部屋の入り口から恐る恐る覗き込んでいた女房たちが、一斉に目を見張る。
「まあ……! お見事ですわ、梨乃様……!」
「あんなに埃まみれで、誰も近寄れなかった納戸が、まるで生まれ変わったよう……」
「これなら、安明様が急に古い記録を探される時も、すぐにお手元に届けられますね」
口々に感嘆の声を漏らす女房たち。ただの「主人が連れてきた怪しい女子」だと思っていた彼女たちの目が、明確に「実力への評価」へと変わった瞬間だった。
梨乃は、少し誇らしげに胸を張る。
(よしよし、第一段階はクリアね。まずはこの邸の人たちの信頼を勝ち取って、居場所を確保しなきゃ!)
「――ほう。これは驚いたな」
不意に、背後から低く、けれどいつもより少しだけ硬さの取れた声が響いた。
振り返ると、いつの間にか安明が納戸の入り口に立っていた。彼はいつも通りの美しい直衣姿だが、一歩中に足を踏み入れた瞬間に、結界の通気や、綺麗に整列した木簡を眺め、珍しく目を見開いて感心したように息を漏らした。
「ただの掃除かと思えば……見事なものだ。分類の理が、実に整然としていて美しい。陰陽寮の書庫番たちに見せてやりたいほどだな」
安明は歩み寄ると、棚に並んだ木簡を指先でなぞり、それから梨乃の少し赤くなった頬へと視線を移した。
「どうやらお前の言う『ちえ』とやら、単なる大口ではなかったようだ」
冷徹に利用価値を測っていたはずの安明の瞳に、今、彼女の「等身大の有能さ」に対する、純粋な驚きと評価の光が宿っていた。
(ふぅ、よかった……。これで第一関門クリア、かな?)
安明の口から出た言葉に、梨乃は心の中で小さくガッツポーズをした。これでひとまず「何の役にも立たないから排除」とされる最悪の事態は免れたはずだ。
梨乃はホッと胸をなでおろすと、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな笑みを安明に向けた。
「ありがとうございます、安明さん。そう言っていただけると、頑張って片付けた甲斐がありました!」
「……やすあき、さん?」
梨乃がごく自然に口にしたその呼び方に、安明は片方の眉をぴくりと跳ね上げた。
この時代、貴族の男を公に名前で、しかも「さん」などという奇妙な敬称をつけて呼ぶ者など存在しない。常識では考えられない不敬にあたる。
しかし、安明はそれを怒るどころか、またしても未知の法則を見つけたかのように、瞳の奥の光を冷ややかに、しかし深く揺らめかせた。
「『さん』、か。また聞いたことのない妙な響きだが……。お前が呼ぶと、まるで私と対等の身分であるかのように聞こえるな」
安明は一歩、梨乃との距離を詰めると、彼女の少し埃のついた前髪を、長い指先で静かに払いのけた。その触れ方は、昨夜のような威圧的な強引さはなく、どこか奇妙な価値を見出した対象を確かめるかのような、静かな執着を含んでいる。
「……悪くない。その不遜な呼び方、私と二人の時は許してやろう。だが、第一関門を越えた程度で安心するなよ? お前の持つ『ちえ』の底、私がすべて暴くまで、まだまだ色々と試させてもらうからな」
耳元で、クスッと静かに告げられる声。
ただの「便利な居候」から、安明にとって「容易に手放してはならぬ異物」へと、二人の関係の歯車が確実に回り始めた。
結界の温もり
二日目の夜。昼間の張り詰めた対峙と、慣れない納戸の肉体労働でさすがに疲弊したのか、都に夜の帳が下りる頃には、梨乃は早くもあくびを噛み殺していた。
するとそこへ、烏帽子をきりりと結び直し、狩衣を纏った安明が姿を現した。その手には、昨日よりもさらに多くの呪符が握られており、彼の纏う空気は一瞬でピリリと引き締まる。男の色気ではなく、怪異を屠る冷徹な陰陽師の圧が部屋を満たした。
「今夜も外の様子が騒がしい。また夜のお勤めだ。留守中、昨日のように大人しく寝ていろよ」
安明は梨乃の前に立つと、フッと皮肉げな、けれどどこか僅かに声音を和らげて笑った。
「……それとも、今夜も私がいなくて寂しいか?」
「なっ……! 寂しくないです。お仕事、気をつけて行ってきてください」
咄嗟にからかわれて顔を赤くする梨乃を見て、安明は満足そうに「ふっ、律儀な奴め」と低く呟いた。そのままふわりと衣を翻し、彼は夜の闇へと音もなく消えていった。
(……はぁ。本当、毎日お疲れ様だなぁ)
彼が去ったあと、梨乃は昨日と同じように、用意された上等な寝具へと身体を横たえた。白く清潔な布の質感が、片付けで疲れた身体を優しく包み込んでいく。
部屋の四方には、安明が去り際に指先一つで張り巡らせた、強力な「特級結界」の光がかすかに揺らめいていた。障子の向こうからは、都を脅かす不気味な妖の遠吠えや、不穏な風の音がかすかに聞こえてくるというのに、この部屋の中だけはぽかぽかと温かく、信じられないほど静かだった。
(昨日までは、物の怪の囮にされるかもとか、生存ルートを探すのに必死だったけど……)
梨乃は夜着に身を包みながら、昼間の安明の言葉を思い出していた。
『お前が放つ、あの不自然なほど清潔で乾いた気の理由が、少し分かった気がする』
『お前の価値、じっくりと測らせてもらうぞ』
(……私の現代の知識、一応は認めてくれたんだよね。冷たくて怖い人かと思ったけど、私の言い分を切り捨てずに、試すだけの度量はあるみたいだし)
最悪の「囮ルート」や「処分ルート」を一時的にでも回避できたという安堵。そして、何より自分をこの世界の未知の脅威から完璧に隔絶し、守ってくれている安明の結界の確かな効力。
「……ありがと、安明さん」
誰もいない部屋で、梨乃は小さくそう呟いた。
まだ恋情などという生易しいものは一切ない。けれど、昨夜のパニック状態から一歩進み、不器用ながらも自分を「生かす」と決めて守りを提供してくれた冷徹な陰陽師への、確かな「信頼」の芽生えを、梨乃は静かに自覚していた。




