誘惑
甘い罠と極上の食事
(えっ……妖……!? 冗談じゃなくて、本物……?)
歴史の教科書で習った平安時代。それは、貴族たちが文学に興じ、陰陽道なんてものは政治の道具か、単なる迷信の類に過ぎないはずの世界だった。
けれど、目の前にいる安明から感じるものは、どう考えても正常な神経では受け止めきれないものだった。彼が歩くだけで室温が下がったように感じ、呼吸をするたびに首筋に冷たい空気が張り付くような圧迫感がある。
(……何これ。ただの威圧感? それとも、今の私が極度の低血糖で幻覚を見てるだけ? ……いや、そんなはずはない。この得体の知れない「重圧」は、今の私の体調のせいじゃない……!)
現実を否定しようとすればするほど、五感がその「異常な何か」を突きつけてくる。安明の本気すぎる忠告を聞く限り、どうやらここは、梨乃の知っている歴史とは根本的に何かが違っているらしい。
(ここはただの過去じゃない。……教科書には絶対に載っていない、ファンタジー要素が現実を侵食している「異世界平安時代」なんだ……!)
「おい、梨乃。何をそんなに呆けている」
深い思考の海に沈んでいた梨乃の耳元で、安明が呆れたような、けれどどこか拗ねたような声を落とした。せっかく極上の脅し文句を授けてやったというのに、当の獲物が完全に上の空。天才陰陽師としてのプライドが、ほんの少しだけ刺激されたらしい。
安明は額を離すと、梨乃のふにふにとした両頬を、親指と人差し指でぎゅっと挟み込んだ。
「む、ふぎゅ……っ!?」
「私の言葉を前にして、これほど集中を欠く娘は初めてだ。お前という奴は、本当に底が知れん。……それとも、私の顔を間近で見すぎて、魂でも抜けたか?」
不遜に、けれどどこか嬉しそうに口元を歪める安明。頬をタコのようにすぼめられた梨乃は、喋りにくい口を一生懸命に動かす。
「う、うふあ……(違う、そうじゃない……! 今はそれどころじゃなくて、この世界の生存難易度が急上昇したことに絶望してたのーー!!)」
「ふっ……まあよい。その締まりのない顔も、見ていて飽きないからな」
安明は満足したように手を離すと、侍従に命じて夜食を用意させた。色鮮やかな御粥や、干物、果物が盆に並ぶ。
梨乃は一口すすり、優しく染み渡る出汁の味に安堵した。
(コンビニスイーツはないけど、あの泥まみれのガチ下民生活に比べたら、信じられないくらい上等な食事……!)
恐怖も忘れて一心不乱に口を動かすその姿は、この時代の人間としてはあまりに異質だった。安明は頬杖をつき、まるでその動作ひとつひとつを解剖するかのようにじっと見つめている。
「……お前、本当に不可解な奴だな」
安明は呆れたような、けれどひどく深い関心をはらんだ溜息を漏らした。
「先ほどまで物の怪と疑われ、脅されていたというのに。この状況で、これほど無防備に、美味そうに飯を食う娘がどこにいる。……毒が入っている、とは疑わなかったのか?」
梨乃の動きがピタッと止まった。口をリスのように膨らませたまま、引きつった目で安明を見つめる。彼はそのリアクションを見て、くすくすと肩を揺らして笑った。
「安心しろ。私が手に入れた極上の謎を、わざわざここで毒殺するような無駄な真似はしない。お前にはまだ、暴かれるべき中身が詰まっているからな」
安明は細い指先を伸ばし、梨乃の唇の端に付いた米粒を拭う。その指先は驚くほど冷たかった。彼は懐紙で指を拭いながら、切れ上がった瞳をさらに細める。
「お前の箸の進め方、器の持ち方……どれも都の庶民のそれではない。身のこなしには飢えを知らぬ余裕がある。……今の困窮を、まるで一時的な下民生活とでも割り切っているような、奇妙な俯瞰を感じるぞ」
(うわ……! 喋ってないのに、食べてる姿だけでそこまで見抜かれてる……!?)
梨乃がそれ以上の情報を与えまいと身構えると、安明は膳を挟んで顔をぐっと近づけてきた。上品な薫物の香りが迫り、梨乃は息を詰める。
「焦らなくとも、膳は逃げん。……そして、お前ももう、私から逃げられん。さあ、腹が満たされたら、次はお前が魂に刻んでいる『未知の理』の話を、夜通し聞かせてもらおうか」
# 第九章:夜の静寂と、狩人の背中
膳が片付けられ、部屋には二人きり。灯台の細い炎が、御簾の影を壁に長く落としている。
部屋の灯りが低く落とされ、揺らめく灯火が安明の鋭い輪郭を妖しく浮かび上がらせる。食後の沈黙の中、安明がゆっくりと立ち上がり、梨乃の座るすぐ傍へと歩み寄ってきた。
(……来る)
梨乃は息を呑み、反射的に身を強張らせた。現代の価値観では測り知れない、この男の底知れぬ力。もしも彼が、自分の魂を「研究材料」として強制的に解剖しようとしたら。あるいは、未知の異物として排除しようとしたら――。
(殺されるかもしれない、それとも……もっと恐ろしい『何か』をされるのか)
梨乃はぎゅっと目を閉じ、両手を胸の前で固く組み、自身を守るように身を縮こませた。その震えを、安明は逃さなかった。
「……フッ、冗談だ」
安明の声は、驚くほど静かで、冷え切っていた。彼は梨乃のすぐ傍で腰を落とし、その長い指先で、梨乃の震える顎をすくい上げた。強制的に向けられたその瞳には、熱や欲望ではなく、獲物を観察するような純粋な知的好奇心だけが宿っている。
「気を読まずとも、何を考えているか手に取るように視える。分かりやすいヤツだ……」
怯える梨乃を前に、安明はフッと薄く、冷酷な笑みを浮かべた。
「安心しろ。お前という謎を、私はまだ解き明かしていない。……私はお前をじっくりと調べたいが、怯える雛鳥を無理やり手籠めにするような、無粋な趣味は持ち合わせておらんよ」
安明はそこで一度言葉を切り、ふいに鋭い視線を御簾の向こうへ向けた。
その瞬間、彼の纏う空気が、一人の美しい男から、冷徹な陰陽師のそれへと一変した。懐の呪符が熱を持って呼応し、闇を切り裂くような微かな霊鳴を放つ。
「……今夜はここまでだ。どうやら、都の北東、鬼門の方角で穢れが膨れ上がったらしい。……仕事の時間だ」
安明は慣れた手つきで、夜闇に溶け込むような色の狩衣を素早く纏う。
「お前の話がすぐに聞けぬのは惜しいが、致し方ない。……この部屋には特級の結界を張っておく」
安明は立ち上がり、空中に指先で複雑な術式を描いた。部屋の空気が張り詰め、目に見えない薄い膜が、梨乃を外界から隔絶する。
「いいか、梨乃。間違っても、結界の外へ出ようなどと思うなよ。お前のその軟らかい魂が、結界に触れた瞬間に焦げ付くぞ」
淡々とした、脅しにも聞こえる忠告。
安明は狩衣を翻し、御簾の向こうへと歩み出した。去り際、彼は一度だけ振り返り、梨乃を射抜くような冷徹な瞳で見つめた。
「待っていろ。戻ったら、今度こそお前のその『遠い場所』の理について、じっくりと聞き出させてもらう」
その言葉を最後に、彼は夜の闇の中へ、怪異を祓うために優雅に消えていった。
後に残されたのは、結界に守られた静寂と、安明の香りが染み付いた部屋だけ。
(……戦いに行くんだ。本当に、あの人は異形と渡り合っているんだ……)
不覚にも、その背中に圧倒的な強者としての矜持を見た気がした。
異世界平安での、奇妙で、逃げ場のない生活。梨乃にとって、それは恐怖であると同時に、安明という「最大の監視者」なしでは生き残れないことを痛感する、長い長い夜の始まりだった。




