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異質



 桜色の小袿と、交わされる名


 

夕闇が京の都を完全に包み込む頃、梨乃が連れてこられたのは、広大な敷地に美しい庭園が広がる、高貴な陰陽師にふさわしい寝殿造の邸であった。

邸に到着するや否や、梨乃は数人の女房たちに囲まれて湯殿へと連行された。

「……あの方が、これほど人の気配に敏感になられるなんて」

「あのような得体の知れぬ娘を連れ帰るなど、初めてのことでございますわ」

そんな噂話を小耳に挟みながら、温かいお湯で泥を綺麗に洗い流され、衣服を整えられる。用意されていたのは、目が覚めるような、けれどどこか儚げな淡い桜色の小袿。手入れされた髪を整えられ、鏡に映った自分の姿を見た梨乃は、まるで別人のようになってしまった己の佇まいに、ただ戸惑うしかなかった。

「……泥を落とせば、それなりに見映えのする姿になるものだな」

背後から、低く心地よい声が響く。振り返ると、いつの間にか白い狩衣から、くつろいだ直衣へと着替えた安明が、静かに部屋に入ってくるところだった。部屋には、彼のお気に入りの上品な薫物の香が、しっとりと満ちていく。

安明は立ち尽くす梨乃の姿を、少し離れた場所から、値踏みするような鋭い視線でゆっくりと眺めた。

「あの……お着物まで用意していただいて、ありがとうございます。ですが、私は本当に怪しい者ではありません。ただの庶民です。ですから、すぐにでも帰していただけないでしょうか」

贅沢な絹の肌触りに圧倒されながらも、梨乃が精一杯の警戒心を込めて一歩下がると、安明は静かに、けれど流れるような動作で距離を詰めてきた。壁に背が届く一歩手前、絶妙な距離感で安明が足を止める。見上げるほどに高い位置から見下ろしてくるその双眸は、やはり冷徹で、底が知れない。

「帰すわけにはいかないな。お前が物の怪の類でないことは、先ほど言った通りだ。だが……湯を浴びて泥を落としたというのに、お前の身体からは、まだ見たこともない異質な残り香がする」

安明の切れ上がった瞳が、梨乃の首元から手元へと、観察するように動く。

「この国のどの香とも違う。ひどく合理的で、どこか無機質で……しかし、妙に鼻腔に残る。お前、一体どのような場所で育てば、そのような香を魂に刻めるのだ? 隠そうとしても、その気の歪みがすべてを物語っているぞ」

(それ、ただの現代のシャンプーとか柔軟剤の匂いなんだけど……!)

心の中で叫ぶ梨乃だが、陰陽師としての冷徹な知的好奇心を隠そうともしない彼の威圧感に、言葉が詰まる。安明はふっと唇の端を上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。

「まあよい。急いて嘘の真実を並べ立てられてもつまらん。私は陰陽寮に仕える者、安明だ。お前のその異質が都に害をなすものか、あるいは私の役に立つものか、しばらくここで見極めさせてもらう」

安明は真っ直ぐに梨乃の瞳を見据え、静かに、しかし拒絶を許さないトーンで問いかけた。

「素性を隠すのはお前の自由だが、呼び名くらいは教えろ。お前を何と呼べばいい?」

安明の放つ圧倒的な存在感と、これから始まる監視という名の生活に腹をくくり、梨乃は小さく息を吸い込んで、自身の名を口にした。

「……梨乃、と言います」

「りの、か。この都にはない珍しい響きだな」

安明はその名を確かめるように一度だけ呟くと、満足そうに目を細めた。

「では梨乃。お前が私を完全に納得させるだけの正体を明かすか、あるいは私がその謎をすべて解き明かすまで……私の目の届く場所にいてもらう。夜は長い、じっくりといこうではないか」



 異界の理と、冷徹な追及


 

「では梨乃。お前が私を完全に納得させるだけの正体を明かすか、あるいは私がその謎をすべて解き明かすまで……私の目の届く場所にいてもらう。夜は長い、じっくりといこうではないか」

安明の低く、淡々とした宣告が、しっとりと薫物の香る部屋に響いた。

そのあまりにも一方的で当然のような物言いに、梨乃の胸の奥で、恐怖を通り越した別の感情が鎌首をもたげた。令和の日本で教育を受け、平等の思想を当たり前として育ってきた身だ。どれほど身分差がある世界とはいえ、何一つ罪を犯していない自分を「謎だから」という理由だけで縛り付けようとする不条理に、現代人としての拒絶反応が抑えきれなくなった。

「……勝手に閉じ込めるなんて、ただの監禁です」

静かな怒りをはらんだ梨乃の声に、安明の切れ上がった眉がわずかに動く。

「いくらあなたが貴族で、偉い陰陽師だからって……他人の人権や自由を、そんな風に奪っていい理由にはならないはずです」

言い切った瞬間、部屋の空気が凍りついたように静まり返った。

ハッと我に返った梨乃は、己の失言の重さに脳裏が真っ白になり、血の気が引いていくのを感じた。

(しまった……! 平安時代の庶民が、こんな言葉使うわけない……!)

必死に弁解の言葉を探そうと、梨乃の視線が泳ぐ。しかし、彼女が口を開くより早く、安明の鋭い双眸がさらに細められた。その瞳にあるのは愉悦ではなく、獲物の生態を解剖するかのような、冷徹なまでの観察の光だった。

「……カンキン。ジンケン。ジユウ」

安明は、梨乃が発した未知の単語を、その美しい唇で小さく復唱した。

「聞いたこともない言葉だな。この国の法にも、唐国の書物にも、そのような概念は存在せぬ。……だが、妙だな」

安明はゆっくりと、しかし確実な足取りで梨乃との距離を詰めた。梨乃の身体が強張る。彼は手を伸ばすことさえせず、ただ至近距離から、その圧倒的な霊気をはらんだ視線で梨乃を射抜いた。

「お前が今、その言葉を口にした瞬間、お前の気は、身の程知らずな狂言を吐く者の歪みを見せなかった。それどころか、まるでそれが揺るぎない世界の真理であるかのような、確固たる理に基づいた憤りを示したぞ」

「それは……その……」

梨乃の喉がひっつり、言葉が続かない。焦れば焦るほど、気の流れが乱れ、安明に情報を与えてしまう。安明は心の声を読んでいるわけではない。ただ、梨乃の感情の揺らぎと、その言葉の裏にある確信を、陰陽師としての卓越した知覚で論理的に見抜いているのだ。

「ただの無学な庶民が、独自の精緻な思想や、個の尊厳を謳うような法を魂に刻んでいるはずがない。やはりお前は、この国のどこにも繋がっていない。……お前が育ったのは、一体どこの異界だ?」

安明の声音には、先ほどまでの侮りや退屈しのぎの気配は消え失せていた。目の前にいる存在は、都の治安を揺るがしかねない未知の異物であるか、あるいは自身の領域を広げるための破格の鍵であるか。彼はただ冷徹に、梨乃の利用価値と危険性を測っていた。

「お前を外に放てば、その異質な気と妙な思想が、都の理を乱す火種になりかねん。陰陽寮に仕える者として、見過ごすわけにはいかないな」

安明は背を向けると、衣服を冷ややかに鳴らして御簾の向こうへと歩き出した。

「素性を明かす気になったら、いつでも私を呼びなさい。それまでは、その『人権』とやらが守られるか、この邸で試してみるといい」

残された梨乃は、ぎゅっと拳を握りしめたまま、彼の後ろ姿を睨みつけることしかできなかった。恋情など微塵もない。あるのは、互いへの強い警戒と、決して相容れない価値観の火花だけだった。

 


 嘘偽りのない境界線


 

「……素性を明かす気になったら、いつでも私を呼びなさい」

冷ややかに衣を鳴らし、御簾の向こうへと去ろうとする安明の後ろ姿を見つめながら、梨乃はぐるぐると頭をフル回転させていた。このまま彼に「危険な異物」として完全に幽閉されるわけにはいかない。けれど、これ以上下民のフリをするのも、拙い嘘を重ねるのも逆効果だ。

(……だったら、本当のことを言えばいい。ただし――徹底的にオブラートに包んで!)

嘘はつかない。けれど、決定的な正体は隠す。梨乃は命がけの究極の妥協点を見出し、小さく息を吸い込んだ。

「……嘘じゃ、ありません」

ぎゅっと閉じていた口をゆっくりと開き、梨乃は足を止めさせた安明の背中に向けて、真っ直ぐに言葉を投げかけた。安明が、わずかに首を巡らせる。その切れ上がった冷徹な瞳が、再び梨乃を捉えた。梨乃は怯えを噛み殺し、彼の美しい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「私は……とにかく、途方もなく遠いところから来ました。あなたがどんなに優秀な陰陽師様でも、牛車や馬を使っては、逆立ちしたって絶対に辿り着けないくらい、遠い遠い場所です」

それは、あながち嘘でもない、梨乃の精一杯の真実だった。距離にすればほんの数百キロ、しかし時間の流れで言えば、千年以上も先の世界。牛車どころか、どんな陰陽術を使ったって、自力で行き来することなど不可能な「時の果て」の場所だ。

梨乃がそう告げた瞬間、二人の間に流れる空気が、ぴたりと静まり返った。安明は梨乃の顔をじっと見つめたまま、微動だにしない。部屋を支配する沈黙が痛いほど肌に刺さり、梨乃は不安に駆られて身を固くした。

(……あれ? また『嘘をついて空気が歪んだ』って、信じてもらえないのかな……)

しかし、次の瞬間。安明の目元が、感嘆したようにわずかに見開かれた。

「……なるほど。今の言葉には、微塵の歪みもないな」

安明はゆっくりと反転し、梨乃の目の前まで歩き寄った。衣服から漂う上品な薫物の香りが、梨乃の鼻腔をくすぐる。

「お前は真実を口にしている。牛車でも馬でも辿り着けぬ、遥か遠き地……。ふっ、面白い。この国の人間ではないどころか、大陸のさらに果て、あるいは――」

安明はそこまで言うと、ふっと妖艶な笑みを漏らした。彼はすっと美しい指先を伸ばし、梨乃の頬に軽く触れる。冷たい指先が肌に触れた瞬間、梨乃の背中にゾクリとした緊張が走った。しかし、その指先は驚くほど優しく、梨乃の豊かな髪をすくい上げるようにして後ろへと撫で下ろした。

至近距離で見つめ合わされる、彼の完璧な美貌。冷徹なはずの瞳の奥に、ギラリとした、底知れない知的好奇心と独占欲の光が灯っている。恋情ではない。けれど、男としての圧倒的な色気と、獲物を捉えた確信に満ちたその眼差しに、梨乃の心臓は不覚にもドクン、と大きく跳ね上がった。

「よかろう。お前が何者であるか、その答えは今すぐでなくともよい。だがな、梨乃。それほど遠い場所から来たというのなら……お前にはもう、帰る家も、頼るべき身寄りもこの都にはおるまい?」

「う……」

図星だった。現代に帰る方法なんて分からない以上、今の梨乃は、この世界で完全に天涯孤独の身。それを瞬時に見抜いた安明の声音は、どこか低く優しく、けれど確実に梨乃を逃がさないための鎖を編み上げていく。

「ならば、大人しく私の庇護に入れ」

安明はさらに顔を近づけ、梨乃の耳元で静かに囁いた。

「お前のような異質な気を放ち、妙な思想を抱く娘が一人で都をうろつけば、それこそ本物の物の怪や、邪な陰陽師に目をつけられて、魂ごと喰らい尽くされるのがオチだ。お前を外の脅威から守り、その異質を隠してやれるのは……この都で、私だけだぞ」

その言葉は優しく聞こえて、実質的な生涯の軟禁宣言のようでもあった。しかし、彼の放つ圧倒的な霊気と、耳元に触れる熱い吐息に、梨乃は完全に気圧され、ただ身を強張らせることしかできない。安明はゆっくりと身体を離すと、満足そうに唇の端を釣り上げた。

「お前のその遠い故郷の話、そして先ほど口にした奇妙な言葉の裏にある理……。毎夜、一つずつ私に聞かせなさい。私の退屈を紛らわせるだけの価値が、お前にはある」


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