邂逅
出会いの絵巻 〜水溜まりの境界線〜
京の都の片隅、市場からの帰り道。激しい夕立が通り過ぎたばかりの路地は、ぬかるみと大きな水溜まりで溢れかえっていた。
「……あーあ、お気に入りの草履がドロドロ。最悪。っていうか、早く帰って洗濯しなきゃ」
つい口を突いて出たのは、この時代の人間なら誰も口にしない、現代の愚痴。梨乃はハッとして慌てて辺りを見回し、即座に口を噤んだ。
(……やばい、危ない。私はただの庶民の娘。目立たず、静かに生きるって決めたんだから……)
その時、路地の向こうから、ぬかるみなど存在しないかのように優雅に歩を進める一団が現れた。
中心にいるのは、透き通るような白い肌に、切れ上がった涼しげな目元をした青年。衣服の裾を一切汚すことなく、お供の者を従えて歩くその姿は、一目で高貴な身分――それも、怪異を祓う陰陽師であると分かった。
関わり合いたくない。梨乃は咄嗟に道を譲り、深く頭を下げて通り過ぎるのを待つことにした。
すっ、と青年が足を止める。
泥を撥ねるかすかな音すら消え、静寂が辺りを支配した。
頭を下げたままの梨乃の視界に、一分の隙もない上品な白い狩衣の裾と、目の前でぴたりと止まった格式高い浅沓が映り込む。
「……ほう。妙だな」
頭上から降ってきたのは、低く、どこか楽しげに響く美しい声。それが自分に向けられたものだと気づき、梨乃の心臓が跳ね上がった。
「お前。そこで平伏している、そこの娘だ」
「は、はいっ!? 何、いえ、何事でございましょうか、お代官様……じゃなくて、お上人様……?」
焦りのあまり現代の時代劇知識が混ざり、しどろもどろになる梨乃。
青年――安明は、形の良い眉をわずかにひそめ、くすりと小さく笑った。彼はすっと美しい指先を伸ばし、梨乃の顎を軽く持ち上げる。強制的に視線が交わったその瞳は、まるで心の内をすべて見透かすかのように、冷徹で、かつ異常なほど聡明だった。
「言葉遣いも妙だが、何よりその『気』だ。この国の者であれば、身分が低かろうと土地の理に縛られた泥臭い気を纏うもの。だがお前の流れる気はどうだ。見たこともないほどに澄み、乾き……まるで、この世のどこにも繋がっていないかのように浮いている」
安明の指先が、梨乃の頬の近くを空気の波をなぞるように動く。彼の手のひらを通じて、梨乃の全身を巡る「現代人としての気」が、完全に読み取られているのが分かった。
「な、何を仰っているのか、私のような学のない庶民にはさっぱり……」
「隠そうとしても無駄だ。嘘をつくと、お前の周りの空気が歪むぞ」
安明は梨乃の顔をじっと見つめたまま、その唇の端を妖しく釣り上げた。退屈に満ちた京の暮らしの中で、とびきりの『玩具』を見つけたかのような、底知れない好奇心の光がその瞳に灯っている。
「面白い。お前が何者か、じっくりと調べさせてもらおうか」
物の怪か、謎か
「安明様! そのような賤しい身分の者……物の怪の類では……!?」
お供の陰陽生たちが、怯えと警戒の入り混じった声を上げ、一斉に懐の呪符へ手をかける。周囲の殺気に、梨乃は思わず身をすくめた。
(もののけ!? 私が!? 冗談じゃない、ただの令和の一般人だってば……! でも、ここで変に否定したら余計に怪しまれるんじゃ……)
しかし、梨乃の顎を捉えたままの安明の指先は、微塵も揺るがない。
それどころか、部下たちの慌てぶりを聞いた彼は、ふっと冷ややかな、けれど酷く美しい笑みを浮かべた。
「物の怪、か。お前たちの目は節穴だな」
安明は梨乃から視線を外さないまま、低く、尊大な声で言い放つ。
「これが怪異の類であるはずがなかろう。邪気も、怨念も、人を呪う淀みも一切ない。……ただ、ひたすらに『異質』なだけだ。この都の、いや、この国のどこを探しても、このような奇妙な気を放つ生き物は存在しない」
安明の指先が、梨乃の頬をすっと滑り、髪の毛を一房、悪戯っぽく弄る。その仕草は優雅でありながら、獲物を絶対に逃さないという絶対的な支配に満ちていた。
「下がっていろ。これは私の獲物……いや、私が見つけた『謎』だ。他者が気安く触れることは許さん」
「は、ははっ……!」
主人の冷徹な一言に、お供の者たちはすっかり気圧され、それ以上口を挟むこともできずに一歩退がった。遮るもののなくなった空間で、安明は再び梨乃の瞳の奥を覗き込む。
「さて、お前。周りはあのように怯えているが……当のお前は、恐怖よりも『やってしまった』という顔をしているな?」
図星を突かれ、梨乃の背中に冷や汗が流れる。
「お前が何者で、どこから来たのか。……言えぬと言うなら、その口が開くまで、私の邸でじっくりと観察してやってもよいのだぞ?」
捕らえられた羽虫
「わ、わたしはこのように、一般庶民……下民です。高貴な御方の目にとまるなど、そのような……っ!」
梨乃は強引に顎を引くと、泥で汚れるのも構わず、再び地面に深く頭を下げた。心臓の音がうるさいほどに耳の奥で鳴り響いている。
(お願いだから見逃して! 目立たず、静かに、ひっそり暮らしたいだけなんだから……!)
そんな梨乃の必死の抵抗を、頭上から見下ろす安明。
彼はすぐに追うことはせず、ただ泥まみれになって震える梨乃の頭頂部を、面白そうに眺めていた。
「……ふっ、ははは!」
静寂を破ったのは、安明の低く、愉しげな笑い声だった。
いつも冷徹で、滅多に感情を動かさない主人の爆笑に、後ろに控えるお供の陰陽生たちが「えっ、あの安明様が……?」と互いに顔を見合わせて驚愕している。
安明はゆっくりと腰を落とし、地を這う梨乃のすぐ傍で、衣をさらりと鳴らした。
「下民、か。なるほど、衣服も、その言葉選びの不器用さも、確かに都の底辺に生きる者のそれだ。だがな、お前……。本当に卑しい者は、私のような貴族を前にした時、もっと怯え、命乞いをし、自身の存在を消そうと泥に塗れるものだ。だがお前はどうだ? 身体は震えているが、その魂の根底にある『気』は、少しも私に屈していない」
安明の声音から先ほどまでの冷ややかさが消え、じっとりとした、深い執着の色が混じり始める。
「それに、その『下民』という言葉……。自分で自分をそう称する割には、どこかその響きに馴染んでいないな。まるで、最近になって無理やりその身分を自称し始めたかのような、奇妙な浮つきがある」
(なんでそんなことまで分かるの!? この人、エスパー!?)
梨乃が心の中で悲鳴を上げた瞬間、安明の手が、梨乃の泥に汚れた小さな手を優しく、けれど拒絶を許さない強さで包み込んだ。
「身分など、私の前では何の意味も持たん。お前が何者であろうと、私が興味を持った。……それだけで、お前がただの庶民でいることは、もう許されないのだよ」
安明の美しい指先が、梨乃の手の甲をなぞる。その瞬間、梨乃の身体の奥がカッと熱くなるような、彼の強力な霊力が流れ込んできた。まるで「逃がさない」と体に直接、見えない印を刻まれたかのように。
「さあ、泥を払いなさい。そんなところで、私の獲物が汚れるのは好まない」
諦めの境界線
(……あーあ。終わった。さようなら、私の平凡、私の平穏……目立たずに生きるはずだった、私の静かな日々)
心の中で音もなく涙を流しながら、梨乃は覚悟を決めた。これ以上、下民のフリをして泥にまみれても、この鋭すぎる男の「玩具」にされる時間を無駄に引き延ばすだけだ。
梨乃は安明に握られた手にそっと力を込め、泥を払うように、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに立ち上がった。
その瞬間、安明の目がわずかに見開かれる。先ほどまで泥に這いつくばっていたはずの少女が、立ち上がった途端、凛とした佇まいを見せたからだ。その背筋の伸び方、物怖じしない視線の据え方は、やはりこの時代の「虐げられて生きてきた下民」のそれとは根本的に違っていた。
「……ほう。良い面構えになったな」
安明は梨乃の手を離さぬまま、満足そうに目を細める。
「先ほどまでの見苦しい言い訳は、やはり偽りか。そのように前を向く。私の前で、堂々と背を伸ばす。お前、己の身分が低いなどと、心の底では微塵も思っていまい?」
(そりゃあね……。令和の日本に生まれて、貴族だからって偉そうにマウントをとられる筋合いなんて、本当はないんだから……)
口には出せない現代人としてのプライドが、梨乃の瞳の奥で小さな強い光となってパチパチと弾ける。安明はその光を見逃さず、愛おしいものでも見るかのように、低く喉を鳴らして笑った。
「よし。その異質な気も、その不遜な瞳も、すべて私が預かろう。お前たち、この娘を私の邸へ連れて行く。丁重に扱え、泥を拭う手拭いも用意してやれ」
「は、はっ! 畏まりました!」
お供の陰陽生たちが慌てて動き出す。物の怪と疑っていたはずの彼らも、安明のあまりの執着ぶりに、梨乃を「絶対に粗相をしてはならない、主人の特別なお気に入り」として認識し直したようだった。
安明は梨乃の手を引き、ふわりと白い狩衣を翻して歩き出す。
その刹那、彼は歩調を緩め、梨乃の身体を引き寄せるようにしてその耳元へと顔を寄せた。
「さて……まずは温かい湯殿と、まともな衣が必要だな。それから、お前のその不思議な『出処』の話を聞かせてもらおう」
流れるような優美な動作のまま、彼の唇が梨乃の耳朶に触れんばかりの距離で止まる。低く、形良い唇から溢れた吐息の熱さが、ダイレクトに肌へと伝わってきた。
「お前のその乾いた気が、どこで育まれたものなのか……。一枚ずつ衣を剥ぎ取るように、その秘密をすべて暴いてやる。……夜は長いぞ?」
「~~っ!?」
あまりの距離の近さと、あまりに妖艶で容赦のない脅し文句に、梨乃の心臓が爆発しそうなほど跳ね上がった。驚きと、そして体の奥から一気に突き上げてきた猛烈な羞恥心で、顔が信じられないほど真っ赤に染まっていく。
梨乃は弾かれたように両手を伸ばすと、ばっと自分の両耳を強く塞いだ。これ以上、彼の甘く冷徹な声を聴いてしまえば、心臓が持たないと直感が告げていた。耳を真っ赤にしたまま、梨乃は涙目のようになって安明をキッと睨みつける。
しかし、当の安明はといえば――。
塞がれた梨乃の両手の上から、一瞬だけ慈しむようにその頬に触れると、くすくすと低く、実に愉しげに笑った。動転する梨乃をそのままに、彼は繋いでいた手をさらりと離し、何事もなかったかのように優雅に先へと歩いていく。
振り返ることもないその後ろ姿からは、獲物を完全に檻に入れたという、陰湿なほどの絶対的な余裕が漂っていた。
(なんなの、あの人……! 性格悪すぎる……!)
完全にペースを握られ、置いていかれそうになった梨乃は、地団駄を踏みたい気持ちを必死に抑え、トボトボと彼の後ろを追いかけるしかなかった。周りの従者たちも、主人の滅多に見せない愉悦に満ちた表情に目を見張りつつ、梨乃を囲むようにして歩き出す。
夕暮れの赤い光が、優雅に歩く安明の白い狩衣を美しく、そしてどこか不穏に染め上げていた。
向かう先は、天才陰陽師・安明の邸。
門をくぐった瞬間、外とは異なる重苦しいほど静寂な空気が梨乃を包み込む。そこには、現代人の彼女が想像もしなかったような、甘く、そして二度と逃げ場のない『檻』が、冷たく静かに待ち受けていたのだった。




