魂魄
魂魄観照の法
「梨乃」
不意に、いつもより低く、重みのある声で名前を呼ばれた。その響きだけで、梨乃の心臓はドキンと大きな音を立てる。
安明の後ろを付いて歩き、ついに足を踏み入れてしまった彼の私室。主のプライベートな空間は、お香の匂いが一段と深く立ち込め、薄暗い灯火の中に独特の艶っぽさが漂っていた。
(えっ、えっ、ちょっと待って! 急に私室に呼ばれるなんて聞いてない……!!)
「そこに座れ」
促されるまま、梨乃は借りてきた猫のように小さくなって畳の上に正座する。安明はそんな梨乃の正面に、音もなく、優雅に腰を下ろした。
白衣の胸元から覗く鎖骨や、いつもより近くにある彼の美しい顔。
(これって……まさか、そういう、甘い雰囲気に……!?)
梨乃は顔から火が出そうなほどドギマギして、思わずギュッと目を瞑り、着物の袖を握りしめた。
すると――。
「……ふっ。何をそんなに身構えている。私が今からお前をどうこうするとでも思ったか? 案外、お転婆のくせに初心な奴め」
「あ……」
薄目を開けると、そこには意地悪く、けれど最高に愉しげにクスクスと笑う安明の顔があった。
(な、なんだ……! からかわれただけじゃん! もう、心臓に悪いなぁ……!)
梨乃が「もう、安明さん!」と真っ赤になって怒ろうとした、その時。安明の表情からふっと笑みが消定し、真摯で深い、陰陽師の瞳へと戻った。
「からかいはここまでだ。……梨乃、少しじっとしていろ」
安明は静かに右手を上げると、人差し指と中指を立て、梨乃の目の前でシュッと空を切って印を結んだ。
「お前が放つ、あの不自然なほど清潔で乾いた『気』の正体……。昨夜、都の妖どもを叩き潰してようやく確信が持てた。怪異どもが活性化したのは、やはりお前の持つ異質な気が、この都の因果を刺激しているからだ。お前をこの世界に縛り付けている理と、その気の本質を……今夜は、もっと深く、よく視せてもらうぞ」
安明が口にしたのは、陰陽道の中でも最高階梯に位置する秘術――『魂魄観照の法』。
対象の魂そのものに直接触れ、その出処や記憶の輪郭、内包する霊的な性質のすべてを強制的に見開く、常人の陰陽師では扱うことすら叶わぬ大技だった。
安明の長い指先が、梨乃の額にすっと触れた。
その瞬間、指先から心地よい冷たさと、微かな電流のような霊力が、梨乃の額を通じて脳裏へと流れ込んでくる。それは驚くほど優しく、まるで梨乃の記憶や魂の輪郭をそっと撫でて確かめるかのような感覚だった。
「っ……」
あまりの近さに息を呑む梨乃。
甘い雰囲気は「冗談」だったはずなのに、額に触れる安明の指先と、魂の深淵までをも射抜くような彼の熱い視線は、どんな言葉よりも官能的で、深く、梨乃の心を甘く縛り付けていくのだった。
安明の瞳の奥で、青白い霊光が怪しく明滅する。秘術によって暴かれゆく梨乃の「異界の魂」を視つめながら、彼はその特異な理に、ますます深く囚われていく――。
「安明さ……っ」
かすれた声で彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。
初めて脳裏に直接流れ込んでくる、「霊力」という未知のエネルギー。それは、現代人の梨乃がこれまでの人生で一度も経験したことのない、あまりにも不思議で圧倒的な感覚だった。
肌に直接触れられているわけではない。それなのに、まるで安明の大きな腕に優しく、強く、全身をぎゅっと抱きしめられているかのような錯覚に陥る。かと思えば、体温の奥の奥、自分でも気づかなかった心の柔らかい部分を、冷たい指先でそっとくすぐられているような、妙にむずがゆい感覚が駆け巡った。
(ううん、違う……! これ、もっと……もっと私の奥深くに、直接干渉されてる……っ)
それは肉体的な接触をはるかに超えて、梨乃の「魂」そのものの輪郭を、安明の冷たくて強大な霊力でじっくりと撫で回され、暴かれているような、そんな恥ずかしくて堪らない奇妙な感覚だった。
視線を逸らそうにも、額に当てられた彼の指先から逃れることはできない。目の前にある安明の漆黒の瞳は、まるで梨乃のすべてを見通すかのように、妖しく、深く、きらりと光を放っている。
「……ほう。声を漏らすほどか。やはり、お前の魂の根源は、この国の人間とは全く異なる『理』で編まれているな。私の霊力をこれほど純粋に、拒むことなく受け入れるとは……ふっ、実に興味深い娘だ」
梨乃の身体が微かに震えるのを察したのか、安明はふっと声を和らげ、さらに顔を近づけてきた。彼の甘く上品な香の匂いが、霊力の感覚と混ざり合って、梨乃の脳内をパニックに陥らせていく。
「変な、感じがして……っ。安明さん、もう、おしまいにしてください……」
潤んだ目でそう懇願する梨乃を見て、術者としての、そして男としての不敵な唇が、意地悪く、そしてどこか酷く艶っぽく吊り上がった。
「おしまい、か? 駄目だ。まだお前の『気の底』が少し見えたばかりだからな。……大人しく、その妙な感覚に身を委ねろ。私が、優しく暴いてやる」
額に触れる指先から、さらにじんわりと熱を帯びた霊力が流れ込んでくる。
甘い雰囲気は冗談だったはずなのに、五月の静かな夜の私室で、梨乃は安明の放つ圧倒的な色気と霊術の心地よさに、なす術もなく翻弄されていくのだった。
「んっ……安明さっ……」
梨乃の口から、熱を帯びた小さな吐息が零れ落ちる。額から流れ込んでくる安明の霊力は、だんだんと深さを増し、梨乃の身体の芯までじんわりと溶け込んでいくようだった。心臓の音が耳の奥でうるさいほどにトクトクと鳴り響き、自然と息が少しずつ荒くなっていく。
(苦しいのとは、違う……。でも、なんだか頭がふわふわして、身体の力が抜けちゃいそう……っ)
呼吸が浅くなる梨乃の様子に気づき、安明の切れ上がった瞳が微かに揺れた。彼は額に当てていた指先に、さらに少しだけ力を込め、梨乃の視線を完全に捕らえて離さない。
「……息が荒くなっているぞ、梨乃。苦しいか? それとも……私の霊力に、身体が馴染み始めて抗えなくなっているか」
その声はどこか掠れていて、いつもの冷徹な陰陽師のものとは思えないほど、低く甘く響いていた。
安明の霊力が梨乃の「魂」の奥底に触れるたび、梨乃の頭の中には、彼が夜の闇で一人、張り詰めた孤独の中で戦っている姿や、その裏にある冷たいようでいて実はひたむきな強さが、言葉を介さずにじんわりと伝わってくるような気がした。
「不思議な……感じが、して……」
梨乃が潤んだ瞳で必死に訴えると、安明はふっと、降参したように目元を和らげた。
「……これ以上は、お前の小さな器には刺激が強すぎるか。本当に、脆くて放っておけぬ羽虫だな」
そう呟くと、安明はそっと、梨乃の額から指先を離した。
途端に、身体を包み込んでいた圧倒的なエネルギーが引き、梨乃の身体にトサッと心地よい脱力感が戻ってくる。
安明は、まだ肩を小さく上下させている梨乃を見つめると、今度は術の指先ではなく、彼自身の温かい手のひらで、梨乃の頬をそっと優しく包み込んだ。
額を離してもなお、至近距離で見つめ合う二人。術の干渉は終わったはずなのに、安明の手のひらの温もりと、その漆黒の瞳の奥に宿る熱に、梨乃の鼓動はしばらく激しい音を立てたまま止まりそうになかった。
その瞬間、全身の緊張が切れたように、梨乃の身体から「ふわり」と力が抜けてしまった。畳の上へ倒れ込みそうになったその小さな身体を、安明はまるで見越していたかのように、長い腕で優しく、確実に抱きとめてくれた。
「安明、さん……っ」
「全く……。少し霊術で触れただけでこの様とはな。やはりお前を外に出すなど、到底不可能な話だ」
呆れたような、けれどどこか酷く甘やかで優しい声。
安明は驚くほど軽々と、梨乃の身体を横抱きにした。男の人の逞しい胸板の温もりと、彼のお気に入りの上品な香の匂いが、すぐ近くで梨乃の五感を包み込む。
己の術をここまで素直に受け入れ、魂の深淵で響き合ってしまったこの異質な存在を、安明の理性が「絶対に他者に渡してはならない最高機密」だと告げていた。その冷徹なまでの執着を瞳に宿して梨乃を見下ろしながら、彼は静かに、彼女の身体を寝所へと運んでいくのだった。
「待って、安明さん……っ! 自分で歩ける、歩けるから……!」
そう言いたいのに、術の余韻のせいで身体がふわふわして、指一本すら上手く動かせない。
運の悪いことに、夜の回廊を静かに歩く二人の前を、ちょうど夜回りをしていた女房たちが通りかかった。
「あら、安明様……? まあっ……!」
女房たちは、主人が白衣姿のまま、異界の娘を大切そうに横抱きにして運んでいる姿を見て、一瞬で目を丸くした。何事かと言わんばかりに、驚きと、それからちょっとした好奇の視線が梨乃に突き刺さる。
(ひ、ひえぇぇ……!! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎる……!!)
梨乃は恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになり、せめてもの抵抗として、安明の白い胸元にぎゅっと顔を埋めて隠した。それを見た女房たちが「おやおや、まぁまぁ……」とさらに袖で口元を隠してヒソヒソと微笑み合う。
「……余計なものを見るな。下がっていろ」
安明が低く冷徹な声をかけると、女房たちは「これは失礼いたしました!」と慌てて、けれど嬉しそうに一礼して下がっていった。
腕の中で小さくなって震えている梨乃を見下ろし、安明はふっと、胸の奥をくくられたように優しく目を細める。
「これほど大人しいお前を見るのは初めてだな。……いつもそのように、私の胸の中で大人しくしていれば良いものを」
「……うぅ、安明さんのいじわる……」
そう消え入りそうな声で呟くのが精一杯の梨乃。
やがて、自分の部屋の御簾がくぐられ、安明は梨乃をふかふかのお布団の上へと、壊れ物を扱うようにそっと横たえてくれた。
身体は動かないけれど、胸のドキドキだけは激しく刻み続ける夜。安明の不器用な優しさと強引さに、梨乃の心はすっかり囚われ始めていた。
梨乃を布団に横たえ、髪をそっと整えてから、安明は自身の私室へと戻ってきた。
静まり返った部屋。灯火の揺らめく光の中、安明は先ほど彼女の額に当て、印を結んだ自身の右手をじっと見つめた。長い指先をゆっくりと曲げ、掌を開く――まだそこに、あの不自然なほど清潔で、乾いた「気」の残滓がこびりついているかのように。
その瞬間、安明の顔から先ほどまでの甘い空気は綺麗に削ぎ落とされ、都の陰陽師たちを統べるトップとしての、冷徹で厳格な貌が戻っていた。
「……おおよそ、予想通り、か」
ぽつりと言墨が漏れる。
梨乃の放つあの純粋すぎる気――それは、この千年前の平安の世においては、あまりにも異質で、あまりにも強大だった。
強大すぎる純粋さは、時として災厄となる。彼女の存在そのものが歪みとなり、魑魅魍魎を引き寄せ、結果として都の結界を破壊し国を揺るがす恐るべき「引き金」になり得る。しかし同時に、あの穢れなき気は、現在じわじわと滞り始めている大地のエネルギー――龍脈の乱れを、一瞬にして浄化し、癒やす可能性をも秘めていた。
まさに、諸刃の剣。神の加護か、あるいは国を滅ぼす呪いか。
「どうしたものか……」
腕を組み、深く思考の海へと沈んでいく安明。
最高権力者たちや藤原の公卿たちに知られれば、彼女は間違いなく政治の道具として幽閉されるか、あるいは危険視されて排除されるだろう。ならば、やはり私がこの邸に囲い込み、誰の目にも触れさせぬよう隠し通すのが最善か。あるいは、龍脈の制御のために彼女の力を……。
国家の命運をかけた、あまりにも重く、真剣な思索。
――しかし、その時だった。
(――んっ……安明さっ……)
脳裏に不意に、先ほど霊力に触れて、潤んだ瞳で自分の名前を呼んだ梨乃の、あの赤くなった顔が鮮明にフラッシュバックしたのだ。身体を震わせ、熱い息を吐きながら、竃の火のように熱く自分を見つめていたあの無防備な姿。
「……っ!」
安明の美しい手が、無意識のうちにぴくりと大きく反応し、そのまま固まった。
冷徹な計算で埋め尽くされていたはずの天才の脳内が、一瞬にして、どうしようもなく「梨乃の記憶」にジャックされてしまう。
「……チッ、不覚だな」
安明は、自分の耳の後ろがじわじわと熱くなっていくのを感じ、片手で顔を覆った。
国を救うだの、龍脈を正すだの、もっともらしい大義名分を並べて思考していたはずなのに、結局のところ、自分の本心が「あの娘を誰の手にも渡したくない」「己の庇護下にだけ閉じ込めておきたい」という、極めて個人的で傲慢な情動に突き動かされていることを突きつけられたのだ。
「……羽虫の分際で、この私をここまで狂わせるとは。……つくづく、罪な女だ」
誰もいない私室で、安明は自嘲気味に、けれど酷く甘く微笑んだ。
烏帽子の下の悪戯
翌日。
「んんーーっ、はあ……っ!」
差し込む眩しい五月の朝日に目を覚まし、梨乃はベッド代わりのふかふかのお布団の上で、大きく伸びをした。
昨夜のあの、魂の奥深くをかき乱されるような奇妙な感覚――あれほど抜けないと思っていた気だるさは嘘のように消え去り、すっきりと元気な身体に戻っている。
(あ、あれ……? 本当になんともない。むしろ、いつもより身体が軽いような……?)
けれど、ほっとしたのも束の間。意識がはっきりしてくるにつれて、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。
安明の冷たくて強い霊力に直接触れられた瞬間のこと。頭が真っ白になって、自分でも聞いたことのないような甘い声を漏らしてしまったこと。そして、女房たちに見られながら、彼に横抱きにされてこの部屋まで運ばれたこと――。
「う、うわあああああ……っ! 私、なんて声を……! 変なところ、すっごい見られちゃった……!!」
布団に突っ伏し、枕に顔を埋めてジタバタと足をバタつかせる梨乃。
思い出すだけで、顔から火が出そうなほど胸がドキドキと激しく脈打つ。あの時の安明の、すべてを見透かすような妖しい瞳と、耳元で囁かれた低い声が、今も鼓膜の奥に残って離れない。
(これから、どんな顔して安明さんに会えばいいのよぉ……)
そんな梨乃の心配をよそに、部屋の外からは静かな活気が伝わってくる。
様子を見にやってきたお世話係の女房が、御簾の外からクスクスと嬉しそうな気配を隠しもせずに滲ませながら告げた。
「梨乃様、お目覚めですか? 昨夜は大変でございましたね。……フフ、ご安心くださいませ。安明様は本日も朝早くから、陰陽寮へお勤めに出かけられましたよ」
「えっ……あ、もうお仕事に?」
「ええ。『あの娘はまだ疲れが残っているだろうから、昼過ぎまで寝かせておけ』と、それはそれは大切そうに言い残して向かわれました。本当に、安明様がこれほど女性に心を砕かれるなんて、私たちは驚くばかりで……」
女房の言葉に、梨乃はさらに顔を真っ赤にして布団に潜り込んだ。
(お、お勤めに行ってくれて、ちょっと助かった……。ううん、でも、私のことそんな風に気遣ってくれてたんだ……)
――と、そこで梨乃の脳細胞が、女房の言葉のニュアンスに恐ろしい「誤解」が含まれていることを察知した。
「……って、ん? ちょっと待って! ち、ちがうの! 違いますからーーー!! 女房さんたち、ストーーーーップ!!! 何も! 私たち何もなかったからね!!?」
御簾の向こうに向かって、身振り手振りで必死に弁明する梨乃。
しかし、そんな彼女の必死の訴えも、女房たちには「まぁまぁ、梨乃様ったらお初なこと……フフフ」と、完全に「照れ隠しの可愛い嘘」にしか変換されていなかった。
それもそのはず、邸の人々の視点から状況を整理すれば、事態は完全にアウトだった。
・昨夜:主の私室に、夜分遅くに二人きりで籠もる
・その後:腰が抜けたようにぐったりした梨乃を、安明が白衣姿のまま、お姫様抱っこで大事そうに運んでくる
・今朝:安明が「あいつを昼まで寝かせておけ」と、めちゃくちゃ意味深な過保護ワードを残して出仕
どう見ても「事後」のフルコースです。本当にありがとうございました。
(違うの、あれは霊術のせいで……! 相性が良すぎてちょっと魂に干渉されて、変な声が出ちゃっただけで……!!)
なんて、陰陽道の最高機密たる「霊力事情」を説明したところで、女房たちに伝わるはずもない。むしろ「魂の干渉(意味深)」と受け取られて火に油を注ぐだけだ。
「本当だから……! 本当に、ただの健康診断みたいなものだったんだからーーー!!」
誰もいない部屋で、梨乃のむなしい絶叫だけが朝の光に溶けていく。
一方その頃、陰陽寮へと出仕した安明は、邸の女房たちが今頃どのような勘違いをして梨乃をからかっているかを正確に予見し、烏帽子の下で実に愉しげに、クスクスと意地悪く笑っているのだった。




