御上文
金の文
あれから数日、門前の警戒をどれほど強めても、都の若者たちの執念は衰えることを知らなかった。相変わらず毎日のように押し寄せる有象無象の恋文を、安明はその都度、冷徹に青い火花で灰にし続けていた。
しかしある日の午後、安倍邸の門前は、これまでの不届き者たちの騒ぎとは明らかに一線を画す、異様な静寂と重々しい空気に包まれていた。
「……安明様。その、一刻も早く門前へお越しいただきたく……」
取次の従者が、今までにないほど顔を真っ青にして震えている。安明が冷ややかな視線を向けたまま玄関先へ足を運ぶと、そこには、今まで邸にやってきたどの貴族の使いとも違う、厳かな甲冑に身を包んだ複数の警固と、内裏の気品を纏った従者たちが直立不動で控えていた。
彼らが恭しく掲げていたのは、ひとつの文。
上質な和紙には、主上――すなわち、この国の最高権力者である帝、千仁からの直々のお召し物が、美しい金箔の施された飾りに包まれて光り輝いていた。
もちろん、その宛先は安明ではなく、梨乃。
(……よもや、あの御方はまだ諦めておられなかったか)
さすがの天才陰陽頭も、この「金の文」を前にしては、全方角を大凶に指定することも、ましてや青い火花で灰にすることも絶対に許されない。安明は見たこともないほど深く頭を抱えたい衝動を大人のプライドで抑え込みながら、その文を受け取るしかなかった。
「安明さん、これ、私にですか……? すごい、とっても綺麗な箱……」
部屋に戻り、梨乃にその文を手渡すと、彼女はこれ以上ないほど目を輝かせて喜んだ。
「触るな、と言いたいところだが……。主上からの御手紙だ。丁重に扱いなさい」
安明がこれまでにないほど苦々しい声を出すのを余所に、梨乃はワクワクしながら和紙を広げた。
「あ、すごい! 読める、読める気がする……!」
梨乃が歓声を上げたのも無理もなく。そこに並んでいたのは、これまでの貴族たちの流れるような難解な崩し文字とは全く異なる、きっちりと整った、けれどどこか温かみのある優しい筆跡だった。現代の文字に少し歩み寄ったような、決して難しすぎない書き方で、そこには千仁の細やかな気遣いが溢れていた。
『梨乃へ。安倍邸での暮らしには慣れただろうか。内裏では今朝がた小さな夏蝉が鳴き始めた。そなたが前に作ってくれたあのかき氷を、先日、料理人に真似させて作らせてみた。やはり、そなたと食べた時ほどの味にはならぬものだな。京の夏は暑いゆえ、身体を崩さぬよう健やかに過ごしてほしい』
中身は、仰々しい恋の和歌などではなく、ただ純粋に、梨乃の目線に合わせた等身大の近況と日常の風景を記したものだった。恋文という形を取らず、何気ない日常を共有することで、梨乃の心を自然に自分へと向けようとする――それこそが、主上の静かな策だった。
「主上、私のかき氷のこと覚えててくれたんだ! 嬉しいなぁ。安明さん見てください、私でも半分くらい読めました!」
嬉しそうに文を掲げて無邪気な笑顔を向けてくる梨乃。
その姿を前に、安明は腕を組んだまま、地を傷うような低い、低い溜め息をついた。
(……手垢のついた懸想文を送りつける若造どもより、よほど性質が悪い。あの御方は、梨乃がどのような言葉なら喜び、どのような文字なら読めるのかを完全に理解した上で、あえてこれを送りつけてこられた……)
若者たちの物量作戦には力技で勝てた安明でしたが、帝の立場と、優しく心を掠めていく圧倒的なスマートさを前にしては、手も足も出ない。
不思議そうに覗き込んでくる梨乃の頭を、安明はいつもより少しだけ力を込めて、ぽん、と大きな手で撫でた。
「何でもない。お前はただ、その読みやすい文でも眺めていればいい」
主上からの完璧な一撃に、大人の嫉妬と独占欲をこれ以上ないほど刺激された陰陽頭は、小さく微笑む梨乃をただじっと見つめながら、心の中でさらなる警戒を強めるのだった。
手習い
千仁からの文が届いた翌日。
梨乃は安倍邸の書斎で、机に向かって美しい直衣姿で書物を開いている安明の前に、正座して両手を突いていた。
「安明さん! お願いです、私に文字の書き方を教えてください!」
突然の懇願に、安明は書物からゆっくりと視線を上げ、切れ長の目をさらに細めた。
「断る。以前も言ったはずだ。お前はあの文字を読めぬままでいろ、と。不愉快な有象無象の落書きなど、お前が読む価値もない」
「それはそうなんですけど……! でも、やっぱりこのままじゃ嫌なんです。文字が読めるようになったら、安明さんが前にくれたあの綺麗な絵巻だって自分で読めるようになりますし……」
梨乃はそこで一度言葉を区切ると、ぎゅっと拳を握りしめて、少し声を潜めるようにして続けた。
「それに……主上にあんなに優しいお手紙をもらったのに、お返事も書けないなんて、やっぱり失礼だと思うんです。ちゃんと自分の言葉で、お礼のお返事を書きたいから……だから、お願いします!」
「……主上へ、お返事を」
安明の声音が、一瞬にして凍りつくような低音へと切り替わる。
手習いをしたい理由の半分が、自分を出し抜いた主上への返信のため。当代随一の陰陽頭にとって、これほどプライドと独占欲を逆撫でされる言葉はない。
安明は静かに書物を閉じると、文机に肘を突き、組んだ指先で顎を支えながら、底知れない漆黒の瞳で梨乃をじっと見下ろしました。その冷ややかな視線に、梨乃は思わずごくりと唾を飲み込む。
絶対に怒られる、そう身構えた梨乃の耳に、安明のふっと短い、諦めたような溜め息が届いた。
「……そこまで言うなら、教えてやらんこともない」
「えっ! 本当ですか!?」
パッと顔を輝かせた梨乃に、安明は細い人差し指をすっと突きつけ、有無を言わせぬ大人の笑みを唇の端に浮かべた。
「ただし、条件がある」
「条件……? 何ですか? 墨すりなら、毎日いくらでもやります!」
「そんな雑用はどうでもいい。……お前が文字を覚え、生まれて初めて誰かに宛てて書く最初の文は、主上でも誰でもない、この私に書きなさい。それが条件だ」
「安明さんに……?」
梨乃が目を丸くすると、安明は梨乃の前に、真っ白で上質な和紙と筆を、まるで行く手を阻む壁のように、すとんと静かに置いた。
「そうだ。お前が私に宛てて、一通の完璧な文を書き上げるまでは、主上への返事など一文字たりとも許さん。……分かったな?」
梨乃に文字を教える主導権を握りつつ、最初の「初めて」を自分のものにしようとする、徹底して傲慢で不器用な大人の独占欲。
梨乃は安明のあまりの気迫に圧倒されながらも、「はい!」と勢いよく頷き、さっそく筆を握りしめるのだった。
手習いの始まり
そうして、梨乃の安明による手習いの日々が始まった。
初日、書斎の文机を挟んで座ると、安明は梨乃の前に真っ白な和紙と筆、そして墨をすった硯を静かに置いた。
「まずは、お前が今どれほど文字を書けるのかを見定めねばな。何でも構わん、そこに文字を書いてみせなさい」
「えっ、何でもいいんですか?」
腕を組んで上から見下ろしてくる安明の視線に、梨乃は少し緊張しながら筆を握ります。
とはいえ、現代でスマートフォンばかり触っていた梨乃にとって、筆を持つ機会など、小学生の頃の習字の授業か書き初めくらいしかない。
(書き初めって、大体自分の名前を大きく書くよね……)
梨乃は覚悟を決めると、墨をたっぷりと含ませた筆を和紙へと下ろした。
そして、まるで現代の書き初めのように、和紙の真ん中に大きく、のびのびと自分の名前を力強く書き上げた。一画一画に迷いがない、梨乃の真っ直ぐな性格がそのまま映し出されたような二文字。
「安明さん、できました! じゃじゃーん、私の名前です!」
梨乃はまだ墨の乾ききっていない和紙を両手で高く掲げ、満面の笑みで安明の目の前に差し出した。
「……ほう」
安明は差し出されたダイナミックな文字をじっと見つめ、ふっと切れ長の目を細めた。
いつもなら「線の引き方が硬い」だの「呼吸が乱れている」だのと容赦ない品評が飛んでくるところですが、彼は珍しく黙り込んだまま、その二文字から視線を動かない。
「どうですか? 結構上手に書けたと思うんです!」
得意げに胸を張る梨乃を前に、安明はふっと視線を和紙から梨乃の顔へと移した。その瞳には、いつもの冷徹な陰陽頭の顔ではなく、どこか穏やかで、深い愛おしさを湛えた大人の眼差しが宿っている。
「己の名、か。……歪ではあるが、お前らしさがあって悪くない」
「歪なのは余計です! でも、そんなに悪くないなら合格ですか?」
「いや、話にならん。筆の扱いがまるでなっていない。これでは文字ではなく、ただの太い棒切れだ。その名前の紙はそこに退けておきなさい。別の和紙を出して、まずは基本の線からだ」
安明はいつもの調子に戻って小さく呆れたように溜め息をつきつつも、梨乃の名前が書かれた紙が汚れないよう、自らの手で大切に傍らへと避けた。
それからしばらくの間、梨乃は新しい和紙に向かい、安明に言われるがままにひたすら真っ直ぐな線や曲線を引く練習を続けた。しかし、慣れない筆の手元はどうしてもおぼつかない。
そんな梨乃の様子をじっと見守っていた安明は、手元を直接指導するために、彼女の真後ろへと音もなく移動し……。
「違う、こうだ」
低く心地よい声音が耳元で響いたかと思うと、安明の大きくて冷たい手が、梨乃の右手を上からそっと包み込む。
すっぽりと自分の手が安明の手の中に収まってしまい、梨乃の心臓がドキンと大きく跳ね上がった。しかし安明はそんな梨乃の緊張など気にも留めない様子で、彼女の手を包んだまま、迷いのない滑らかな動きで和紙の上に筆を引く。
「力を抜きなさい。線の終わりは、ただ止めるのではなく、次の文字へ呼吸を繋ぐように流すのだ」
安明の手に導かれるまま動いた筆は、和紙の上に驚くほど美しく、滑らかな流線を描き出す。
「わあ……すごい、一気にそれっぽくなった……!」
「お前は無駄な力が入りすぎている。ほら、もう一度」
安明は手を離すと、すぐ隣で梨乃の手元をじっと監視するように見つめた。
文字が読めるようになって、安明からもらったあの美しい絵巻の物語を自分の力で読みたい。そして、千仁様にもちゃんと届く言葉でお礼を伝えたい――。
その一心で、梨乃は慣れない正座で足が痺れてくるのも忘れ、何度も何度も墨をすり、一心不乱に和紙に向かい続けた。
自分の名前から始まった手習い。少し呆れたような、けれどどこか嬉しそうな安明の眼差しを感じながら、梨乃は墨で少し黒くなった指先を丸め、彼との距離がほんの少しだけ縮まったような気がして、小さく胸を弾ませるのだった。
紐解かれる物語
手習いを始めてからの梨乃の成長は、安明の予想を遥かに超えて目覚ましいものだった。令和の時代に培った日本語の基礎があるため、言葉の骨組みさえ掴めば、文字が次々と意味を持って頭の中に飛び込んできたのだ。
「読める……! ちょっとずつだけど、私、読める……!」
ある日の午後、書斎の畳の上に、梨乃は安明から贈られたあの美しい絵巻を大切に広げていた。墨の連なりを指先でそっとなぞりながら、ゆっくりと声に出して読み進めていく。
「『いまはむかし、たけとりのおきなといふものありけり』……あ、これ、かぐや姫のお話だ! 私、これ知ってます!」
思わず声を上げた梨乃に、向かいの文机で筆を動かしていた安明が、怪訝そうに切れ長の目を向けた。
「ほう。文字も読めぬお前が、なぜ我が国の古い物語を知っている?」
「私の世界ではみんな学校で習うんです。すごーい、本当にこっちの世界にもあるんだ……!」
感動しながら、梨乃は夢中になって絵巻を読み進めた。
かつて国語の授業で見たあの古典の世界が、いま、自分の力で紐解いた美しい言葉の響きとなって、鮮やかに脳裏に広がっていく。
そんな梨乃の様子をじっと見つめていた安明は、ふっと可笑しそうに目を細めた。
「お前というやつは……。文字も書けぬほど拙い知識しか持たぬかと思えば、時に妙なところで博識になる。本当に、底の知れぬ不思議な娘だ」
「あはは、褒められてるのかな? ……でも、本当にありがとうございます。私に文字を教えてくれて。おかげでこの絵巻がもっと大好きになりました」
心からの感謝を伝える梨乃の頭に、安明の大きくて心地よい重さの手が、ぽん、と置かれた。
「お前がそうして楽しそうに物語を紡ぐのなら、わざわざ良質な絵巻を選んで贈った甲斐もあったというものだ。……だが、忘れるなよ」
安明は少しだけ唇の端を吊り上げ、有無を言わせぬ独占欲を瞳に宿して梨乃を見つめた。
「お前が最初に書く文の相手は、この私だ。……約束通り、楽しみに待っているからな」
「う、プレッシャーかけるのやめてくださいー!」
また妙な異界の言葉を、と呆れ半分に思いながらも、安明はその頬を膨らませる愛らしい姿から視線を外せずにいた。梨乃は照れ隠しをしながらも、安明の言葉が嬉しくて、手元の大切な絵巻をもう一度愛おしそうに見つめるのだった。




