文騒動
懸想文·前編
出立の日のあの突き抜けるような青空から、季節は完全に夏へと移り変わっていた。
安倍邸での暮らしにも少しずつ慣れてきたある日の午後、梨乃は手元にある「それ」を前に、縁側で激しく首を傾げていた。
「わ、わたしに……? 本当に安明さんの間違いじゃなくて?」
「はい。お届け先は、確かに『内裏よりお越しになられた神子様』へと、我が主よりきつく仰せつかっております、とのことですわ」
そう言って、届けてくれた女房はどこかそわそわとした様子で、足早に去っていった。
残されたのは、一通の文。
この時代の文化に疎い梨乃には、これが何を意味するものなのか見当もつかなかったが、ただ、とても上質で綺麗なものだということだけは分かった。
ほんのりと淡い桜色に染められた、手触りの良い和紙。折り畳まれた隙間からは、甘く古典的な、けれどどこか洗練されたお香の高貴な香りがふわりと漂ってくる。全体的に少し可愛らしい色合いをしており、丁寧につくられたことが窺えた。
「うーん……。せっかくもらったのに、やっぱり読めないなぁ……」
梨乃は文を開いてみたものの、そこに並んでいるのは相変わらずの流れるような「崩し文字」。現代の文字とは似ても似つかない芸術的な筆跡を前に、梨乃は眉を寄せながら、和紙を縦にしたり、横にしたりと悪戦苦闘していた。
そこへ、パタパタと邸の奥から静かな足音が近づいてくる。
「あ、安明さん! おかえりなさい!」
陰陽寮での仕事を終えて帰宅した安明が、直衣姿のまま縁側に姿を現した。
梨乃は嬉しそうに顔を上げ、お出迎えの笑顔を向ける。――が、安明の切れ長の瞳は、梨乃の顔ではなく、彼女の両手にがっちりと握られている「それ」へと一直線に向いていた。
この時代のトップを走る陰陽頭であり、数々の宮廷政治を見てきた大人の男である安明。中身をわざわざ口に出さずとも、その和紙の色合い、香り、配置だけで、それが何を意味する「文」なのか、瞬時にすべてを読み取っていた。
安明の声音が、一気に地を這うような低音へと切り替わります。
「……なんだそれは」
「え? あ、これですか? さっき、私宛てに届いたんです。でも文字が相変わらず難しくて、全然読めなくて……。そうだ、安明さん、代わりに読んでもらえませんか?」
「……何?」
まさか、他の男からの懸想文を自分に読ませようとするとは。
梨乃のあまりに無防備で突飛な提案に、安明は一瞬だけ呆気にとられたように眉を動かす。しかしすぐにフッと細い目をさらに細め、梨乃の手から文をひったくるように奪い取った。
中身に一瞥をくれた安明の瞳の奥には、いつも以上に冷ややかな光が灯っていた。その切れ長の目を文に落としたまま、低く吐き捨てるように呟く。
「……実にくだらぬ懸想文だな」
「けそうぶみ……? 安明さん、それなんて書いてあるんですか?」
内容を知りたがって純粋な瞳で見上げてくる梨乃。
安明はそんな彼女を静かに見下ろすと、指先にパチ……と小さな青い火花を灯した。
「や、安明さん! ?」
梨乃が止める間もなく、上質な桜色の和紙は、一瞬にして美しい火花の中に包まれ、灰すら残さず綺麗に消え去ってしまった。
「何をするんですか、もったいない!」
「もったいないものか。こんな価値のない落書き、邸の結界を汚すゴミと同じだ。庭掃除のついでに私が処理したまでのこと」
安明は澄ました顔で直衣の袖を払うと、梨乃を諭すようにその頭をぽん、と撫でる。その仕草はどこまでも優しく、けれど言葉には絶対的な響きが含まれていた。
「読めぬままでいろ。以前も言ったが、お前はただ、私の言葉だけを信じていればよい」
「安明さん……」
有無を言わせぬその独占欲に、梨乃は心臓が小さく跳ねるのを感じながらも、ただコクンと素真に頷くしかなかった。安明は、梨乃の意識が完全に自分だけに向いたことに満足し、フッと唇の端を上げる。
これで一件落着。
これからは門前の警戒を強めさせれば、二度とこのような不愉快なものが梨乃の手元に届くことはないだろう。
(さて、この文を送りつけてきた男をどうしてやろうか。明日、陰陽寮の権限を使って、奴の邸の全方角を『大凶』に指定して外に出られなくしてやろうか。それとも、毎夜寝床に羽虫が集まる呪いでもかけてやろうか……)
大人の余裕の裏側で、実に容赦のない報復手段を真剣に考えている安明。
しかし、当代随一の陰陽頭である彼は、この時、完全に油断していた。
この後、毎日のように安倍邸の門前に「一枚や二枚どころではない、大量の文」を抱えた公卿たちの使いが押し寄せ、門前が大パニックになることを、彼はまだ知る由もなかった。
懸想文·後編
「……なんだ、これは」
陰陽寮での激務を終え、安倍邸の自室へと戻ってきた安明は、その場で完全に足を止めた。
いつもはすっきりと片付いているはずの彼の文机。しかし今は、そこから文字通り溢れ返り、畳の上へと零れ落ちんばかりに「それ」が山積みになっていたのだ。
淡い藤色、爽やかな青磁色、若草色――。
ありとあらゆる上質な和紙が、色とりどりのグラデーションとなって部屋の一角を占領している。部屋中に混ざり合って充満する、何種類ものお香の甘い香りに、安明の切れ長の眉が、見たこともないほどピクピクと不機嫌そうに跳ね上がる。
「安明様、お耳に入れたきことが……」
部屋の隅で、若手の従者がガタガタと震えながら平伏していた。
「すべて、梨乃様宛てにございます。ここ数日、門前をいくら厳重に警戒いたしましても、公卿たちの使いが昼夜を問わず押し寄せ……直接渡せぬなら門前に置いていく、と、皆、狂ったように文を投げ込んでいく始末で。中の女房たちで一度回収したものの、もう置き場がなく、やむを得ず安明様の御部屋へ……」
「下がれ」
地を這うような低音の一言で、従者は脱兎のごとく退散していった。
静まり返った部屋で、安明は立ち尽くしたまま、山積みの文を冷徹に見下ろした。
一人や二人の若造の仕業ではない。これは内裏に籍を置く、ありとあらゆる名門の若者たちからのもの。出立の日に彼らが目撃した神子の残像は、安明の想像を遥かに超えて、京の都に凄まじい熱狂を巻き起こしていた。
「……まさか、ここまでとはな」
さすがの天才陰陽頭も、全員に嫌がらせをするわけにはいかないという冷酷な現実に直面していた。
「……あの傾国者めが」
安明は烏帽子を脱ぎ捨てると、珍しく、本当に珍しく、自嘲気味に片手で額を押さえて深く頭を抱えた。
あの無防備で、文字も読めないお調子者の少女が、自分の知らないところで都の男たちをこれほどまでに狂わせている。その事実が、彼の冷徹な頭を、そして大人のプライドをじわじわと乱していく。
「安明さん、おかえりなさい! ――って、うわあ!?」
そこへ、安明の帰宅を聞きつけて上機嫌で部屋に戻ってきた梨乃がパタパタと姿を現した。
部屋の惨状と、見たこともないほど重々しい空気で頭を抱えている安明の姿を見て、梨乃は入り口でピシッと硬直した。
「な、なんですかこれ……! 匂いもすっごいし、これ、全部この前の綺麗なお手紙ですか?」
梨乃が目を丸くして山積みの文に近づこうとした瞬間。
「触るな、と言ったはずだ」
安明が頭を押さえたまま、低く、しかし絶対的な拒絶の声を放つ。梨乃が「ひゃいっ」と足を止めると、安明はゆっくりと顔を上げ、底知れない漆黒の瞳を梨乃へと向ける。
「これらはすべて魑魅魍魎の怨念の塊だ。これほど集まれば、並の人間なら呪い殺される。お前は何も見ず、何も聞かず、ただ大人しく私の後ろに隠れていればいい」
「ええっ!? 呪いのお手紙なんですかこれ!?」
怯える梨乃を前に、安明は直衣の袖を大きく翻す。
その指先から、バチバチと青く激しい火花が、部屋の結界を揺るがすほどの出力で燃え上がる。
「えええっ!? 部屋の中で火事はダメですってば!」
「離せ。庭掃除のついでだと言っただろう。一気に灰にしてくれる」
腕にしがみつく梨乃をよそに、彼は心の中で(……これからは門の手前ではなく、京の町ごと結界で遮断してやるか)と、いよいよ国家規模の職権乱用を大真面目に企み始めるのだった。




