泡沫
夏の夜の泡沫の花
昼間のうだるような熱気が、心地よい夜風にゆっくりと押し流されていく7月の終わり。
縁側に並んで腰を下ろした梨乃と安明は、遠くで鳴く虫の声に耳を傾けながら、静かな涼を楽しんでいた。
ふと、庭の池に反射する月明かりを眺めていた梨乃が、膝を抱えながら口を開く。
「……夏といえば、私の世界では、お祭りとか……花火があったなぁって」
「はなび?」
聞き慣れない響きに、安明が隣から視線を向ける。
梨乃はどこか遠い目をしながら、懐かしそうに身振り手振りを交えて懸命に説明を始めた。
「そうなんです。この時代にはないんですけど……夜空に、こう……ドーン!って、すっごく大きくて綺麗な火の輪が咲くんです。色んな色があって、お祭りの時にみんなで見に行って、本当に綺麗で……」
楽しそうに、けれどどこか寂しげに過去を振り返る梨乃。
安明は、そんな彼女の横顔を静かに見つめていた。
梨乃が元の世界のことを話す時、彼女の瞳には、安明の知らない景色が映っている。自分の預かり知らぬ思い出に、彼女の心が少しだけ向いているのが、どうにも彼の性分には面白くなかった。
安明はフッと唇の端を上げると、気怠げな動作のまま、直衣の袖から数枚の白い呪符を取り出した。
「え?」
呪符を出して何をするのだろうと、梨乃が目を丸くする。そんな彼女を横目に、安明は優雅に呪符を指先で弄んだ。
「お前があまりに大層に語るものだから、その『はなび』とやらがいかに他愛のないものか、私の術で証明してやろうと思ってな」
そう言うと、安明は優雅な所作で呪符を夜空へと放つ。
細い指先が、美しくしなやかな軌跡を描いて印を結ぶ。
本来であれば、国の平穏を脅かす怨霊を調伏し、禍々しい呪詛を祓うためだけに使われる当代随一の陰陽術。それを、ただ一人の娘の目を楽しませるためだけに発動させるなど、安明の長い生涯において、まじないや戦闘以外で術を扱うのはこれが初めてのことだった。
夜空へと吸い込まれていった呪符が、不意に暗い空でパチパチと繊細な音を立てて弾けた。
安明は、本物の花火を知らない。
けれど、梨乃の拙い説明から彼が想像し、紡ぎ出したその光は、本物以上に幻想的で、息をのむほどに美しいものだった。
青、紫、そして鮮やかな金色。
細やかな火花が、まるで満天の星屑が降り注ぐかのように夜空に広がり、静かな邸の庭を、そして縁側に座る二人を優しく照らし出す。
「わあ……っ!!」
梨乃は歓声を上げ、目を輝かせてその光景に見惚れる。
その瞳には、もう過去を懐かしむ寂しさは微塵もなく。今、目の前で咲き誇る一瞬の奇跡に、完全に心を奪われていた。
梨乃の瞳が、自分の創り出した光だけで満たされているのを見て、安明は満足げに目を細める。
「どうだ。お前の世界のそれよりも、私の術の方が随分と上等だろう」
「……はい! すっごく、すっごく綺麗です、安明さん!」
子供のように無邪気に笑う梨乃の頭を、安明は「当然だ」と大人の余裕たっぷりに撫でた。
(――もう戻らぬ過去の景色など、思い出してやるな。そんな顔をせずとも、お前を楽しませるものなら、今いくらでも目の前で見せてやる)
そんな、言葉には決して出さない不器用な誓いを、美しく咲いては消える火花の中にそっと忍ばせながら、安明はいつまでも、彼女の隣で穏やかな夜風に吹かれているのだった。




