幕間(安明その弐)
水羊羹と草紙
都が本格的な夏を迎える、七月の初頭。
じっとりとした昼間の熱気が、夕暮れの涼風に融け始める気だるい時間、梨乃は安明邸の奥の間にいた。
風の通り抜ける縁側で、梨乃は安明が誂えさせた淡い藤色の夏着物を纏い、彼が「息抜きに」と買ってくれた物語の草子を広げている。美しい挿絵には惹かれるものの、添えられた文字は崩し字ばかり。まるでミミズのダンスのようで読めず、絵だけを眺めて想像を膨らませていた。
蒸し暑さのせいか、今日の梨乃は長い髪をすべて片方の肩の前へ流している梨乃。
パタン、と静かに御簾が上がり、公務を終えた安明が戻ってきた。
烏帽子を無造作に脱ぎ捨て、ごく自然に梨乃のすぐ隣、衣の袖が重なり合う距離に腰を下ろす。
「安明さん、おかえりなさい」
嬉しそうに振り返った梨乃を迎えようとした安明の視線が、ふと、その首筋で止まる。
髪を前に流した襟元から、ほんのりと汗を浮かべた白い項が、すぐ目の前に晒されていた。安明はその白さに一瞬だけじっと熱い視線を落としたが、すぐに何事もなかったかのように手元の草子へと目を移し、口を開く。
「……まだその頁か。私の買ってきた草子をそれほど長く見つめられると、いささか嫉妬するのだがな」
「え?」
安明は梨乃の額をコツンと優しく叩くと、そのまま、前に流された髪の毛先を指先でくるくると弄び始めた。
内裏を離れて、まだ、たったのひと月。あの朝議の緊張が嘘のように、二人の距離はあまりにも自然に、近くなっていた。
「だって、絵は綺麗なのに文字が全然読めないんですもの。せっかく安明さんが買ってくれたのに、悔しくて」
「ふん、これすら読めぬとはな。……まあ良い、そのうち私の手で、直々に文字の書き方から教えてやる。それまでは私の言葉だけを信じて、私に物語をねだっていれば良い」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「お礼を言うのはまだ早い。私の教導は厳しいからな」
意地悪く囁きながら、安明は懐から小さな竹筒を梨乃の膝元へぽんと置く。
「ほら、お前の目当てだ。寄ったついでに拾ってきた」
「あ、氷室の氷を使った水羊羹……! ずっと食べてみたかったんです!」
目を輝かせた梨乃は、さっそく冷たい羊羹をひと口、嬉しそうに口へと運んだ。
だが、ひんやりとした小豆の甘みが舌の上に広がった瞬間、梨乃の脳裏に内裏での記憶が鮮やかによみがえる。人払いのされた清涼殿で、主上と二人きり、隣り合って食べたあのかき氷。
(主上、元気かなぁ……)
口には決して出さず、ただ、ほんの一瞬だけ、梨乃の視線がせつなげに遠くの内裏の方角へと泳いだ。
その、ほんのわずかな心の揺らぎを、安明の漆黒の瞳が見逃すはずがなかった。
梨乃の髪を弄んでいた安明の指先が、ぴたりと止まる。
安明はすっと長い手を伸ばし、梨乃が背にしていた縁柱に、衣を擦らせてトン、と静かに掌を置いた。
それだけで梨乃の視界は安明の体で遮られ、完全に逃げ道を塞がれる。至近距離で見つめ合うなか、安明の親指の腹が、梨乃の唇の端へとごく自然に伸びた。ひと口食べたときに残ってしまった、白い小豆の蜜を優しくすくい取るようにして拭う。
「あ……」
突然の感触に梨乃が息を詰めて固まると、安明はその親指についた蜜を、梨乃の目の前でゆっくりと己の唇へと運んだ。そして、至極端正な顔のまま、自身の舌先でその蜜をペロリと滑らかに舐めとったのだ。
「な……っ!?」
梨乃の顔が一気に沸騰したように真っ赤に染まるのを見届け、安明は低く、甘く囁く。
「私の檻にいる間くらい、その目も、その不器用な心も、すべて私に委ねておけば良いものを」
「安明さん……いま、何を……っ」
「それとも――他所見をする余裕などないほどに、今ここで私に溺れてみるか?」
耳元で囁かれる蕩けるような声と、あまりの濃厚な近さに、梨乃は完全に言葉を失ってしまった。
真っ赤になって固まる梨乃を愛おしげに眺め、安明は満足そうにフッと笑う。そのまま梨乃の頭を優しく撫でると、何事もなかったかのようにすっと元の距離に戻り、再び草子に視線を落とした。
「ほら、冷えているうちに食べろ。私の拾ってきた菓子の方が、ずっと美味いだろう?」
完全に安明のペースで翻弄され、梨乃は熱を持ったままの唇にそっと手を当てていた。
遠い内裏への切ない思いなど、今はもう考える余裕すら奪われてしまうほどに、激しく主張する胸の鼓動を必死に抑えるのだった。
朝餉と味見と
都の夏は、朝のうちだけがわずかに涼しく、台所には爽やかな朝の光が差し込んでいた。
梨乃は、邸の女房たちに混ざって、安明の朝餉の準備を少しだけ手伝っている。
今日のおかずは、出汁の染みた季節の煮物。
梨乃は右手で菜箸を器用に扱い、左手にはずっしりと重い大皿を抱え、出来上がった温かい料理を丁寧に盛り付けている最中だ。
そこへ、内裏への出仕を控えた安明が、ふらりと台所に姿を現した。
まだ正装である狩衣を纏う前、白い直衣をゆったりと着崩した、どこか色気のある寛いだ姿。
安明はまっすぐに梨乃の元へと歩を進め、ごく自然に、そのすぐ真後ろへと歩み寄る。ぴったりと背中を寄せて立ち塞がると同時に、梨乃が抱えていた重い大皿の底を、安明の長い指先が迷わず下からすっと支えた。
あまりにも滑らかな動作で皿の重みがふっと消え、代わりに背中に感じる安明の体温と存在感に、梨乃は心臓を跳ね上がる。安明の胸元から香る、ほのかな薫物の香りが梨乃を包み込み、彼の長い腕は、梨乃の両脇を挟むようにして前へと伸びたまま。
「安明さん、近いです……っ! 今、両手が塞がってて動けないので……」
梨乃は声を潜めて抗議。しかし、安明は梨乃の首筋のすぐ近くで、ふっと涼しげに喉を鳴らした。
「お前がそうして私の前に、美味そうなものを掲げているのが悪いのだろう」
「えっ!? ですが、これはまだ出来立てですし、ちゃんと座敷でお出ししますから……」
「目の前に馳走があれば、手が出るのが男というものだ。……ほら、出仕前の私をこれ以上焦らせるな。早くお前の手で、私の口へ運べ」
相変わらずの冷ややかな屁理屈ですが、安明の身体は梨乃の背中にぴったりとくっついたまま、離れる気配が一切ない。大皿をしっかりと支える彼の指先からは、逃げ出させないという確固たる意志さえ感じられた。
(もう、本当に意地悪なんだから……!)
梨乃は顔を真っ赤に染めながらも、観念して震える手で菜箸を動かす。よく味が染みて湯気を立てる煮物をひと口分だけ丁寧に挟み、背後の安明の唇へとそっと運ぶ。
安明は梨乃の恥ずかしそうな横顔をじっと見つめたまま、差し出された煮物を滑らかに口に含んだ。
咀嚼するかすかな音さえ、至近距離の梨乃の耳にはやけに大きく響く。
「……少し塩気が足りぬな」
安明は耳元で低く、けれどどこか楽しげに囁いた。
「お前の顔の赤さの割には、料理の味付けが随分と淡白だ」
「な……っ、もう、味見の文句を言うなら、早くお座敷に行ってください!」
恥ずかしさが限界に達した梨乃がぷうと頬を膨らませると、安明は満足そうにフッと笑い、梨乃の頭をポンと軽く小突いた。そして、驚くほど名残惜しそうにゆっくりと体を離し、いつもの大人の余裕を纏って台所を後にするのだった。
夏の午後の微睡
蝉の声が遠く響く、うだるように暑い7月の昼下がり。
梨乃は少しでも涼しい風を求め、縁側の日陰で畳の上にぐったりと寝転んでいた。
容赦なく照りつける太陽の熱にすっかり当てられ、風を待つうちに、いつの間にか本格的な眠りに落ちてしまっていた。
そこへ、いつもより随分と早い時間に、安明が内裏から邸へと帰宅してきた。
すでに公務の正装を脱ぎ捨て、白い直衣をゆったりと着崩した姿になった安明は、ふらりと廊下を通りかかったところで、縁側で完全に無防備に横たわっている梨乃を見つける。
安明は、はしたなくも床に寝そべる梨乃の姿に、「まったく、緊張感のない……」と呆れたように眉をひそめつつも、その足は自然と彼女の元へ向かい、すぐ隣に静かに腰を下ろした。
安明は懐から自分の扇子を取り出すと、広げて、梨乃の顔へとゆったりと風を送り始める。
パタパタと動く扇子からふわりと漂うのは、安明がいつも身に纏っている上品な香の匂い。その懐かしい香りが、微睡む梨乃の鼻腔を優しくくすぐる。
夏の熱気のせいで、梨乃の額や首筋はほんのりと汗ばんでいる。安明は、白く滑らかな額にぴったりとはりついた細い髪をはらってやろうと、長い指先を伸ばしてその髪をそっと掴んだ。
その、まさに一瞬のことでした。
梨乃が心地よさそうに小さく身じろぎをして、
「……やすあき、さん……」
と、無防備な寝息に混ぜて、その名前を呟いた。
自分の名前を呼ぶ、酷く無防備な寝言。
安明は梨乃の髪を掴んだまま、ぴたりと動きを止めてフリーズしてしまう。
静まり返った縁側で、遠くの蝉の声だけが響いている。安明は己の胸が微かに高鳴るのを感じながら、ただじっと、眠る梨乃の顔を見つめていた。
(――無自覚に男を煽るなど、本当にたちの悪い……)
心の中でそう毒づきつつも、掴んでいた髪をそっと下ろした彼の指先は、抗うこともできずに、吸い寄せられるようにして梨乃の柔らかな頬へと触れる。
汗ばんだ肌の、柔らかな熱が指先からダイレクトに伝わり、安明の中で、いつもは手綱を引いているはずの理性がわずかに揺らいだ。どうしても手が離せない。彼は梨乃を起こさぬよう、ゆっくりと指先を頬から輪郭、そして白い首筋へと滑らせていく。
指先のひんやりとした愛撫がくくすぐったかったのか、梨乃は睫毛を震わせ、うっすらとパチッと目を開けた。
視界がはっきりした瞬間、目の前に安明の端整な顔が至近距離であることに気づき……。
「ひゃっ!? あ、安明さん……っ!?」
慌てて跳ね起き、真っ赤になって自分の首筋を押さえる梨乃。心臓がうるさいほどに脈打つ中、安明のどこか熱を孕んだ瞳に見つめられ、梨乃は自分の寝相や言動が急に不安になる。
「あの、私、なにか変なこと言いました……!?」
恐る恐る尋ねる梨乃に対し、安明はフッと妖しく唇を歪めた。
「ああ、言ったぞ。それはもう熱のこもった、情欲的な声色で私の名をな」
大人の余裕たっぷりにそう告げる安明の、低く艶っぽい声音。
「えええっ!? うそ、え!? 」
完全にパニックになり、顔から火が出そうなほど真っ赤になって両手で顔を覆う梨乃。
安明はそんな梨乃のうぶな反応を、心の底から楽しそうに見つめ、
「ふっ、冗談だ。お前は本当に、分かりやすく赤くなる」
そう言って、いつものように梨乃の頭をポンと優しく小突いた。
これで終わり、と梨乃がホッと息を吐きかけたのも束の間。安明は立ち上がりかけた動きを不意に止め、再びすっと顔を近付けると、その耳元で低く囁いた。
「だが――お前が私の香りに安らいでいたのは、事実だからな」
有無を言わせぬ確信犯的な笑みを残して、今度こそ安明は優雅に立ち上がり、いつもの美しい所作でその場を後にする。
残された梨乃が、耳まで真っ赤にして呆然と座り込む中、背を向けた安明は歩みを止めぬまま、静かに息を吐き出していた。
(――まったく。この私の理性をここまで狂わせかけるとは。恐ろしい傾国者めが)
心の中で吐き捨てた悪態は、彼なりの精一杯の抵抗であり、梨乃への完全な降伏宣言そのものだった。安明は高鳴る胸を直衣の合わせで隠しながら、自室へと戻っていくのだった。




