懸念
自室の静寂――仮面の下の焦燥
梨乃が作った現代の珍しい甘味を共に食し、ひとときの穏やかな時間を過ごした後。
梨乃を送り出し、御簾の向こうへとその気配が完全に消え去った瞬間、安倍安明の顔から、先ほどまでの柔らかな笑みが完全に消え失せた。
そこに現れたのは、都の陰陽師を束ねる頂点としての、冷徹で、極限まで研ぎ澄まされた陰陽頭としての厳しい顔だった。
安明は静かに机に向かうと、都の龍脈を表した大図を広げ、墨をすり始める。
(……朝廷の、人間どもの問題はひとまず片付いた)
主上を味方につけた梨乃の機転と、自身の仕掛けた罠が噛み合い、藤原の当主をはじめとする公卿たちは完全に沈黙した。梨乃を自らの邸へ引き戻した今、宮廷の政治的な追求からは完全に脱したと言える。
だが、安明の胸中にある霧は、晴れるどころか深くなる一方だった。
人間よりも遥かに厄介で、理の通じない問題が、まだ厳然として残されているからだ。
最大の懸念。それは、完全に目覚め始めてしまった梨乃の力をどうするか、ということだ。
元々はただの無力な異界の娘であったはずの居候。しかし、怪異との接触を経て、彼女の魂の奥底に眠っていた気は、いまや安明すらも目を見張るほどの純粋な光を放っている。その気はあまりにも清らかで、この世界の五行の均衡を揺るがしかねないほどのもの。
安明は内裏から戻った梨乃を守るため、邸の周囲に張り巡らせた結界を、以前の数倍、いや数十倍の強度へと組み直していた。常の陰陽師であれば、近づくだけでその霊圧に押し潰されるほどの堅牢な神域。
しかし、それでもなお、闇に潜むあやかしどもの不穏な気配は留まるところを知らない。
(……いや、変わらないのではない。むしろ、奴らは必死に探している)
原因は分かっている。
あの一件──私を助けるべく顕現させた光の御柱。
一瞬にして都の呪いを焼き尽くしたあの圧倒的な光は、人間たちに天の意志と恐れさせただけでなく、都の陰に潜むすべての魑魅魍魎の目を完全に覚まさせてしまったのだ。
暗闇に生きる良からぬものどもにとって、あの光の残滓は、暗黒の海に突如として現れた太陽も同然。
幸い、今の梨乃の気は嵐の前の海のように凪いでおり、この邸の結界もあって奴らはまだ光の源まで辿り着いてはいない。しかし、都中の、あるいは国中の大あやかしや怨霊どもが、あの消えた光の行方を追って、都の闇を不気味に徘徊し始めているのは間違いない。
パチ、と蝋燭の火が爆ぜ、安明の切れ上がった瞳を鋭く照らし出す。
邸を囲む自身の結界。その外側で、目に見えぬ無数の邪悪な視線が、結界の隙間を伺うようにじっと息を潜めているのを、安明の鋭敏な霊覚ははっきりと捉えていた。
ほんのわずかな綻び、ほんの一瞬の油断。それがあれば、あの悪鬼羅刹どもがこの邸に目をつけ、梨乃へと牙を向く。それに、梨乃自身の内の気の器も、凪の裏で確実に大きくなり続けている。早急に、あの莫大な気を抑え込み、周囲の目を欺く盾を用意せねばならない。
安明は、机の上に置いた数枚の呪符を、指先が白くなるほど強く押し潰した。その漆黒の瞳に、国を滅ぼしかねないほどの昏く、冷徹な決意の火が灯る。
「……どれほど群がろうと、好きにはさせん。
主上にも、あるいは闇に蠢く羽虫どもにも……あの娘は、指一本触れさせはしない」
朝廷を騙し、主上すらも盤上の駒とした天才陰陽師。一人の男として認めたライバルであっても、梨乃を譲る気など毛頭ない。
今度は、梨乃のその圧倒的な光を守り抜くため、この世のすべての闇を相手に、冷徹極まる次なる戦いの準備を始めるのだった。
書斎での相談と、授けられし安全弁
都を長く包んでいた五月雨が嘘のようにスカッと明け、安倍邸の庭には、突き抜けるような青空からじりじりと力強い夏の太陽が降り注いでいた。
内裏でのあの怒涛の朝議を経て、この邸へ帰ってきて身体を休めてから数日。
梨乃は安明の邸の奥にある広々とした私室で過ごしていたが、どうしても胸の奥で燻り続けている焦燥感に耐えかね、ついに安明のいる書斎へと足を運んだ。
格子の隙間から静かな光が差し込む書斎。
安明は梨乃が部屋に入ってくる気配を察すると、持っていた筆をゆっくりと置き、机の上の書状から視線を上げた。
「お前が何しにここへ来たのかは、だいたい見当がついている」
梨乃は少し緊張しながらも、真っ直ぐに安明を見つめて口を開いた。
「安明さん……私、やっぱりちゃんと、気について知っておきたいんです。だけど、制御どころか、感じることもできなくて……。主上と約束したんです。嘘のままで終わりたくない。私にも、なにか、少しでもできることがあればって……」
気の制御と言っても、今の梨乃には「気」を感じることも操ることも到底できない。大それた大見栄をきったものの、どこから始めればいいのか全く見当もつかないのが本音だった。
そんな梨乃の焦りを見透かしたように、安明はいつもの意地悪な笑みを唇の端に浮かべて、梨乃を見上げた。
「なんだ、朝廷を相手に大見栄をきっていたから、私と離れている間になにか掴んでいるのかと思ったのだが」
直球で図星を突かれ、梨乃は言葉に詰まる。
「うっ……、それは、ああ言うしか他に無かったからで……」
あの朝議の場。千仁を孤立させず、藤原の強引な要求を退けるためには、自ら「安明の元で力の制御を学ぶ」と大義名分を掲げて内裏を去るしか道はなかった。
俯きかける梨乃を見て、安明の顔からいつもの意地悪な笑みが消え、冷徹な陰陽師の瞳が梨乃を射抜いた。その気配は、いつも以上に静かで、どこか重い。安明は一歩、梨乃へと歩み寄る。
「分かっている。お前が従来通り気の制御もできず、それどころか感じ取れてもいないことなど、最初からな」
安明は静かに梨乃を見下ろしたまま、言葉を続ける。
「あの一件──私を助けるべく顕現させた光の御柱。あれほどの力を放ったのだ。お前の気は、枯渇したのではなく、嵐の前の海のようにただ『凪いでいる』に過ぎない。お前が自覚していないだけで、御柱の直後と今とでは、お前の内の気の器がだんだん大きくなっている」
梨乃は、己の身に起きているという変化が全く実感できず、ただただ戸惑うように息を呑んだ。
「今は、邸に張り巡らせた私の結界でお前を覆い隠してはある。だが、お前の気が凪を終えたとき、どのような影響が出るかはまだ未知数だ。お前を内裏から引き取る裏で、私もその力を抑制する方法を調べてはいたが……まぁ、調査段階だということだ」
安明がそこまで先を読み、自分のために裏で動いてくれていたことへの驚きに、梨乃は目を見開く。
「……では、私はどうすれば……」
俯きかける梨乃の前に、安明が静かに手を差し出しました。その掌の上にあったのは、古びた、しかしどこか不思議な空気感を纏った紐付きの勾玉でした。
「これを持っていろ。我が家に伝わる家宝の一つだ。お前の莫大な気を抑え込み、周囲の目を欺く盾になる。私が根本的な制御方法を見つけ出すまでは、肌身離さず身につけておくんだ。いいな」
梨乃は、差し出された白緑色の勾玉を両手でそっと受け取った。ひんやりとしながらも、しっくりと手に馴染む不思議な重みを含んだそれを戸惑いながら見つめていると、安明はその石を細長い指先で示しながら、静かに言葉を重ねた。
「我が安倍家の歴史において、強すぎる霊力にその肉体が耐えきれぬ幼子が、過去に幾人もいた。その幼い命を救うため、暴走し溢れ出る力を安全に逃がすべく、一族が総力を挙げて編み出したのがその勾玉だ。
──もっとも、その勾玉自体に特別な意志や力があるわけではない。それは持ち主の脈の乱れや体温の上昇といった、感情の高ぶりによる『肉体の変化』をただ感知し、その負荷を鎮めるために体内の気を外へ吸い出すだけの、ただの『導管』に過ぎん。……ゆえに、五行の『火』の能力に偏った者が握れば火の力しか出せないし、『土』の者なら土の力が出る。……だが」
安明はそこで一度言葉を切り、梨乃の手の中の勾玉をじっと見つめた。
「お前がその勾玉を握り締め、身を硬くしたとき、そこから溢れ出たのは五行のどれにも属さない力──純粋な『浄化』の光だった。お前には気を感じる回路も、術式を組む才能もない。……だが、それはお前が力を『操った』のではなく、ただ恐怖や生存本能という極限の生体反応が、勾玉という調整弁を強引に突き破って漏れ出したに過ぎん」
安明は厳しい表情で、梨乃の瞳をまっすぐに見据えた。
「誤解するな。これはお前の力を制御するための道具ではない。お前の内に澱む膨大な気を、お前の身体が壊れぬよう、少しずつ外へ『逃がし続ける』ためのただの導管だ。この勾玉がなければ、お前の身体は、自身が生成し続ける力に内側から押し潰されるだろう」
梨乃は、授けられた勾玉の重みが、今までとは全く違った意味を持つことに気づき、息を呑んだ。
安明は、梨乃が安全に――いや、せめてその命の灯火が消えぬよう、この「苦肉の策」を今、手渡してくれたのだ。
「……まぁ、つまるところ、今はこれが限界ということだ。下がって身体を休めておけ。明日からは、その勾玉がどれほどお前の負荷を逃がせるか、私が見てやる」
「……はい。ありがとうございます、安明さん」
梨乃がいつもの芯のある表情を取り戻して頷くと、安明は満足そうに目を細め、その華奢な肩を引き寄せて、包み込むように優しく抱きしめた。
梅雨明けの引き締まった風が、書斎の御簾をさらりと揺らして吹き抜けていく。梨乃の掌の中に授けられた勾玉は、二人の確かな絆の裏で、世界で梨乃にしか生み出せない「純粋な浄化の力」を静かに蓄え始めていくのだった。




