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帰還

 出立の日


 出立の日は、それまでの五月雨が嘘のように晴れ渡り、突き抜けるような青空から柔らかな光が降り注いでいた。


 大内裏の正面、正門の前には、主上直属の精鋭たる武官たちがずらりと列をなし、物々しいまでの厳重な警固の陣を敷いている。

 この出立は、単なる身柄の移動ではない。主上が藤原を完全に牽制するために、あえて公卿たちの目前で行う「国家公式の儀」であった。


 これより梨乃は、都の守護を担う正式な『神子』として、陰陽寮の庇護のもとでその力を御する修行に入る――。

 麗しき大義名分を内裏の正面から堂々と天下に知らしめることで、主上は藤原に対し、「この娘に手を出すことは、すなわち帝への反逆である」という絶対的な警告を突きつけたのだ。最前線には、いつもと変わらぬ冷徹な佇まいで陰陽頭・安倍安明が控えていた。


 出立の直前、公卿たちの目を盗んだ僅かな刹那。

 清涼殿の裏手にて、最後の拝謁が許された。遠く後ろで無表情に佇む安明を背に、統治者としての重々しい平服を纏った帝は、ゆっくりと歩み寄り、梨乃の数歩前で足を止めた。漆黒の瞳には、一人の青年としての切ない情熱が宿っている。

「主上……」

 梨乃が静かに頭を垂れると、帝は愛おしげに彼女を見つめた。

「梨乃。……本当に、行ってしまうのだな」

 帝の震える問いかけに、梨乃はゆっくりと顔を上げた。瞳には、どこまでも深く、濁りのない温かさが湛えられている。

 

「……悲しいお別れだなんて、思わないでください。私は安明様のところで、この力をもっとちゃんと扱えるように、たくさん勉強してきます。私がこの浄化の力を完璧にコントロールできるようになったら……その時は、主上が命懸けで守っているこの国を、あなたの治める御世を、今度は私が影から支える盾になります。離れていても、私はいつだって、主上のために祈って、一緒に戦っていますから」

 眩いばかりの、けれど胸が締め付けられるほど愛おしい微笑み。昨朝の朝議の場、この孤独な帝を孤立させぬため、自ら盾となって内裏を去る道を選んだ少女。

 己の力を磨いていつか必ず主上の役に立つ、だから待っていてほしい――そう告げる言葉には、自分を犠牲にしたという悲壮感などどこにもない。ただ、目の前の大切な人を護り抜くという、まっすぐな覚悟に満ちていた。


「この広い空の下、私の、たった一人の主上……。あなたの歩む道が、どうか光で満たされますように」


 真っ直ぐな想いを浴びて、帝は胸の奥が引き裂かれるような痛みに耐えていた。

(お前は最後まで、朕の心を護るために去るのだな。……朕の身分も、権力も、お前を引き留める役には立たなかった)


 かつては理知的な執着に過ぎなかった感情。それが、彼女を失うこの瞬間、純粋で狂おしいほどの「恋情」へと完全に昇華していた。生まれて初めて知った、届かぬ想い――それは一国の主にとって、あまりにも美しく、残酷な「失恋」だった。

 帝はゆっくりと手を伸ばし、梨乃の頬へ近づけたが……やはり直接触れることはせず、輪郭をなぞるように、虚空で指先を揺らめかせた。それが、彼女の気高い覚悟を受け止めた、男としてのせめてもの境界線だった。


「梨乃。……最後にお前に、一つだけ無心をしたい」

「無心、ですか……? 私にできることなら、何でも」

帝は声音を一段と低く、けれど一人のただの男としての響きを帯びさせて言葉を続けた。


「朕を『主上』と呼ぶな。この宮中を去る今だけは、朕をただの男として、名で呼んでくれぬか」

「主上のお名前……」


 この時代、帝の本名を口にするなど最大の禁忌である。梨乃が目を丸くして固まっていると、帝は切なく、愛おしそうな眼差しで彼女をじっと見つめた。


千仁ゆきひとだ。……それが、朕の名だ。この内裏の誰もが呼ばぬ、朕自身の境界の拠り所。それを、お前の声で刻んでほしい」


 漆黒の瞳の奥で、金色が名残惜しそうに揺らめいている。

 梨乃は、名の重みと、そこに込められた切ない情愛の全てを胸に受け止めた。瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。ぎゅっと胸元を握りしめ、目の前の孤独な帝へ、最初で最後の特別な情愛を込めて、その名を呼んだ。


 「……千仁、様。あなたに会えて、こんなに温かく大切にしてもらえて、私、本当に幸せでした。……だから、そんなに哀しい顔をしないでください。ずっと、お元気で」

「――あぁ」

 千仁は満足そうに、けれど今にも泣き出しそうなほど美しく目を細めた。

 しかし次の瞬間、薄い唇の端をふっと不敵に上げ、本気なのか冗談なのか分からない、妖艶で不遜な笑みを浮かべた。

「……これほど朕を惑わせたのだ。タダで済むと思うなよ。朕が藤原を排し、誰もが平伏す完璧な盤面を整えたその時は――朕の正当な『后』として、この内裏へ堂々と迎えに行く。……それまで、あの陰陽頭の元で朕を待っていろ。良いな、梨乃」

「え……っ!?」


 梨乃が驚きで呆然とする中、千仁は今度こそ満足したようにふっと目を細め、静かに告げた。

「朕の生涯において、朕の心を真に温めた女子は、後にも先にもお前、ただ一人だ。お前が護ってくれたこの高御座で、朕はこれからも生きよう。……だからお前も、どうか息災で、誰よりも幸せにおれ」

 梨乃は、千仁のその不遜で、けれどあまりにも一途な愛の誓いを愛おしそうに見つめ、涙を拭って深く深く、一礼した。

「はい……。あなたの創る未来が、穏やかでありますように。ありがとうございました、主上」

 梨乃は振り返り、主上直属の武官たちが厳重に周囲を囲む、堂々たる公式の車列へと歩みを進めた。

 

 千仁は、去りゆく梨乃の背中からゆっくりと視線を外し、一歩後ろに控えていた陰陽頭へと、その漆黒の双眸を向けた。それは帝としての冷徹な眼差しではなく、一人の男としての、痛切なまでの願いが込められたものだった。


「……安明。梨乃を……あの娘を、頼んだぞ。何があっても、護り抜け」


 低く掠れた声を受け、安明は感情の読めない流麗な動作で、深く、深く一礼を捧げた。藤原への勝利を誇るでもなく、ただ一人の男の魂の叫びを、その身に刻み付けるように。


(……しかと、承った。見事な引き際だ、主上。貴方が手放した彼女のこれからは、私が生涯を賭して、私の理の中で護り抜く)


 武官たちの足並みと共に、牛車の動き出す重い音が静かな境内に響き渡る。

 動き出した御簾の隙間から、梨乃はいつまでも内裏の方角を見つめていた。そこには、青空の下、ただ一人佇み、去り行く車をじっと見つめ続ける、若き帝――千仁の、美しくも切ない姿があった。


  

 



 久方ぶりの安明邸


 

 ガタゴトと音を立て、安倍邸への帰路を辿る牛車の、狭い車内。

 表向きは「暴走しかねない異界の気を調伏・拘束するため」という名目のもと、梨乃の正面には安明が同乗していた。

 車外には主上直属の武官や陰陽寮の従者たちが護衛として隙なく付き従っているため、安明の意識は完全に「完璧な陰陽頭」としての職分に徹したままだった。腕を組み、冷徹な仮面を貼り付けたまま、一言も発しようとはしない。密閉された空間には、男物の薫物の香りと、張り詰めた沈黙だけが満ちていた。

 やがて牛車が安倍邸の重厚な門をくぐり、広い敷地の奥へと滑り込んだ。

 供の武官たちが引き揚げ、安明の身内だけが周囲を固める。

「これより、異界の娘の気の調律を行う。私が許可するまで、何人たりともこの奥の間に近づくことは許さぬ」

 安明は周囲に控える従者たちに、冷徹極まりない声で命じた。

 平伏した従者たちが迅速にその場から退散し、二人の周囲から完全に人の気配が消え去る。

 パタン、と静かに奥の間の襖が閉まり、完全に二人きりになった、その瞬間――。

 それまで完璧な公人として張り詰めさせていた安明の肩の力が、ふっと抜けた。大きなため息をひとつつくと、烏帽子を脱ぎ捨て、ひどく呆れたような、けれど底知れない愛おしさが滲む眼差しで梨乃を振り返った。

「私の策略では、もっと早く助け出せる算段だったんだがな。主上がお前の力をなかなか利用せず、そればかりか、こうも鮮やかに絆されるとは……。お前はとんだ傾国者だな」

 低く呟くと同時に、安明は長い腕を伸ばし、梨乃の華奢な身体を強引に、けれど壊れ物を扱うほど優しく胸の中へ抱きすくめた。

「や、安明さん……!?」

 内裏では決して許されなかった、一人の男としてのあまりにも強い抱擁。やっと触れることができた――その安堵と狂おしいほどの情愛が、梨乃を包み込む腕の強さから痛いほど伝わってくる。安明は梨乃の髪に顔を埋め、深く、深く息を吐き出した。

「朝議の場で勝手に私の言葉の裏を察した挙句、あの上座の場で、藤原の逃げ道を完全に塞ぐような真似をして。……お前が大人しく、私の敷いた筋書き通りに動いていれば、もっと早く、穏便にここへ連れ戻せたものを。……本当に、馬鹿者が」

「怒って……いるんですか……?」

 胸に顔を埋められたまま梨乃が小さく尋ねると、安明は抱きしめる腕の力を微かに緩め、梨乃の目線に合わせてわずかに腰を落とした。至近距離から見つめる漆黒の瞳は、ひどく優しく和らいでいる。

「怒っているさ。私の完璧な盤面を狂わせたのだからな。……だが」

 安明はそっと手を滑らせ、梨乃の頬に残っていた涙の跡を、長い指先で優しく拭った。それは主上との別れに流された、清らかな名残の露。胸の奥に燻っていた底知れぬ乾きを融かすように、安明はその温もりを指先でなぞる。

「……よく頑張ったな。お前があの場で、自分から『気の制御』を私の元で行うと言い出したおかげで、藤原の牙を抜き、主上の面目も保たれた。……何より、私に最高の口実が残った」

 安明はふっと唇の端を上げ、意地悪く、けれど愛おしげに目を細めた。

「さっきも主上の前で、私のところでたくさん勉強して、いつか盾になると約束していたな。……その言葉通り、今後は私の邸で、私の目の届く場所で暮らしてもらう。朝廷の公務である『気の管理』を大義名分に、お前を常に私の側に縛り付ける。それが一番安全で、確実だ。……お前の気が寄せる魑魅魍魎など、言った通り、庭掃除のついでに指先一つで処理してやる」

「それって……ずっと、安明さんの側にいられるということですか?」

 驚く梨乃の反応に、安明は満足そうに目を細める。

「当然だ。あの朝議で引き出した勅命も、お前がさっき主上へ差し出した健気な約束も、すべて私が都合の良いように利用して、お前を二度と手放さぬための檻にしてやったまでのことだ。……まあ、お前がその約束を果たせる日まで、退屈せぬよう京の美味いものでも食わせてやるくらいは、考えておかなくもない」

 安明の言葉に、梨乃はようやく張り詰めていた肩の力を抜き、「ふぅ……」と小さく息を吐き出した。

 そんな梨乃を改めてまじまじと見下ろした安明は、彼女が身にまとっている鮮烈な濃紅と紫の十二単へ視線を留め、美しい眉を不機嫌そうに跳ね上げた。

「……それにしても、随分と大層なものを着せられて戻ってきたな」

 安明は一歩歩み寄ると、梨乃の肩にかかる衣を、長い指先でわざとらしくつまんで見せた。

「主上直々の賜り物だ。汚しでもしたら、いくら私でも言い訳が立たん……が。明日からも毎日、私の邸でその国宝級の衣を着て過ごするつもりか?」

「えっ……! ま、毎日ですか……!?」

 梨乃はハッとして、自分の袖を恐る恐る見つめた。ただでさえ重くて身動きが取りづらいのに、国宝級とまで言われると一気にプレッシャーが押し寄せてくる。何より、千仁様が自分のためにと用意してくれた、大切な思い出の詰まったお着物なのだ。

「そんなの、もし汚しちゃったりしたら大変です……っ! 主上がせっかく私のためにって用意してくれた、すごく特別なお着物なのに……。あの、安明さん、お願いです。これはどこか安全な場所に、綺麗にしまっておくわけないですか?」

 千仁様への敬意をにじませつつ、必死に「大切に保管したい」とおねだりする梨乃。

 その反応に、安明は内心で「勝った」とほくそ笑んだ。

「ほう。主上の賜り物を、普段は仕舞い込んでおきたいと? 随分な言い草だな」

「あ、いや、そういう意味じゃなくて……っ! 本当に本当に大切にしたいからで……っ!」

「まあ、お前がそこまで言うのなら、仕方がない。主上の衣は奥の院にでも厳重に封印しておいてやろう。……その代わり、明日からは私が用意した、いつもの桜色の衣を着てもらう。……それで良いな、梨乃?」

「はい! ぜひそれでお願いします……っ!」

 安明に大切な着物の保管を保証してもらったと思い込んでいる梨乃は、ホッとして何度もコクコクと頷いた。

 自分がまんまと安明の誘導に乗せられ、結果的に「あなたの前では主上の服はもう着ない」と自ら宣言させられたことにも気づかずに。

 別の男の執着をまとった梨乃を眺めるのはどうにも目の毒だったが、彼女自身の意志でそれを仕舞い込ませたことで、安明の胸の燻りはすっきりと解消されていた。

 驚く梨乃をもう一度、今度は引き寄せるように強く抱きすくめる。安明は梨乃の髪に顔を埋め、深く息を吐き出した。

「主上には悪いが、これからお前が生きる隣には、常に私がいる」

 腕の中に収まった、確かな体温。

 安明の瞳の奥には、もう冷徹な陰陽頭の影はなく、ただ愛しい少女をようやく手元に取り戻せた、一人の男の深い情愛だけが灯っていた。

「さあ、お前の新しい生活の始まりだ、梨乃」

 こうして、梨乃の宮中での短い日々は幕を閉じ、安明と共に歩む、新しく、愛おしい日々が始まっていくのでした。

 

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