盤上
盤上の誓い
翌朝の朝廷は、五月雨の湿った空気が嘘のように、張り詰めた緊張感に包まれていた。
清涼殿の表御殿。玉座に座る帝の前に、藤原の当主、あるいは陰陽頭である安倍安明が召し上げられていた。
幕を開けたのは、藤原の当主による、慇懃無礼な奏上であった。
「主上、畏れながら申し上げます。宮中に留まる異界の女子は、都の龍脈を揺るがす恐るべき気の塊。これをこのまま内裏に置き、万が一のことがあれば、朝廷内での孤立は避けられませぬぞ。……なれば、あの娘を我が藤原が『神子』として奉り、都の龍脈の源流へと厳重に隔離、幽閉することこそが、国の平穏に繋がるかと存じます」
神子という美名に隠された、人柱としての監禁。生きることも死ぬこともできぬ生贄として、一生を暗い地底に縛り付けるという冷酷な提案に、帝の端正な顔が激しい怒りで微かに歪む。
「藤原の提案は、いささか拙速ではないか。梨乃の検分は朕が直々に行っている。他へ移す必要はない」
「……しかし、昨晩のような不穏な警護の乱れがあったと聞き及びます。……のう、陰陽頭よ。お前もそう思うであろう?」
藤原の当主は、低く笑いながら安明に同意を求めた。当主は、安明を「最高権力者である我が藤原には逆らえぬ、都合の良い道具」と高を括り、我が身可愛さに自分と同調するだろうと踏んでいたのだ。
話を振られた安明は、一歩前に出ると、烏帽子の下から感情の失せた平坦な瞳を向け、深く頭を垂れた。聞かれたことだけに淡々と、職務を全うする口調で奏上する。
「陰陽頭として、事実のみを申し上げます。藤原様が仰るように、彼女を龍脈へ縛り付ければ、その純粋すぎる気は土地の血管を伝って都全域へ拡散される。いわば、飢えた怨霊どもに『極上の餌がある』と触れ回るようなもの。……梨乃殿は地底で、生きながら死ぬことも許されず、永遠にその浄化の力を吸われ続けるでしょう。傷口から延々と怨霊が集まり続ける。つまり、我が陰陽寮は未来永劫、押し寄せる怨霊の津波と戦い続けねばならなくなります」
安明は淡々と、しかし残酷な事実を容赦なく口にした。
「……もちろん、私にその怨霊を調伏する結界を張り、永劫に戦い続ける術がないわけではありません。安倍の陰陽頭として、その任を果たすことは技術的に『可能』にございます」
安明は一拍置き、冷徹な瞳で藤原を真っ向から見据えた。
「藤原様がどうしても、都を怨霊の巣窟に変え、この地を火の海にしたいと仰る……その、いささか『奇抜で風狂な奇策』を通されたいのであれば、我が陰陽寮も職事として、喜んでその大層な尻拭いにお付き合いいたしましょう。……ですが、わざわざ都の龍脈を傷つけ、未来永劫に渡って怨霊を呼び込み続けるような『無駄な火種』を自ら撒き、それを私が指先一つで消し続ける不毛な手間に、我が寮の貴重な人手を割くことが、真に国の平穏に繋がるとお思いなのであれば――陰陽頭として、そのあまりに哀れなご見識には首を傾げざるを得ませんが」
嫌みすら超越した、あまりにも冷ややかな事務的進言。これ以上ない正論のオブラートに包まれた侮蔑に、藤原の当主はピきりと顔をこわばらせる。
一方、帝は絶望的な状況に拳を握りしめていた。内裏に置けば藤原の圧力で孤立し、藤原に渡せば、梨乃は永遠の地獄へと突き落とされる。一国の主としての理性と、一人の男としての剥き出しの独占欲の間で、帝の天秤は悲鳴を上げて軋んでいた。
(藤原が何だ浅はかな。朝廷内での孤立が何だ。そんなもの、梨乃を失う苦しみに比べれば――帝の地位など、いっそ――!)
激しい情念が理性を焼き尽くし、自暴自棄な言葉が喉元まで出かかった、まさにその時であった。
御殿の陰に控えていた梨乃が、静かに進み出て平伏した。
不敬を承知で、まっすぐに帝を見上げる梨乃の瞳。
彼女は分かっていた。ご自分のせいで、この優しい主上のすべてを壊させるわけにはいかない。安明の言葉に隠された意図を聡く察した梨乃は、帝の暴走を止め、そして藤原の言い分を封じるための大義名分を、自らの口で紡ぎ出した。
「主上、あるいは藤原様。畏れながら、私からも申し上げさせてください。……私がここにいることで、主上の立場が危うくなるというのであれば、私は喜んで、今すぐこの内裏を去ります。私は決して、都を脅かす妖女などではございません」
きっぱりと言い切った梨乃は、再び帝へと視線を戻した。その瞳には、どこまでも純粋な光が宿っている。
「そして……私の内にある力が都の脅威となるのなら、強力な結界でその気配を隠しながら、この力を正しく制御し、操れるようになりたいのです。いつか、私を救ってくださった主上の、あるいはこの国の、本当にお役に立てるようになるために――」
梨乃はそこで言葉を切り、まっすぐに帝を見つめた。
その瞳は、言葉以上に雄弁に訴えかけていた。
『どうか、ご自分を責めないで』と、ただそれだけを、祈るように。
梨乃が命懸けで蒔いた、藤原の逃げ道を塞ぐための種。その健気でまっすぐな眼差しに触れた瞬間、帝は激しい衝動に突き動かされ、膝の上で握りしめられた拳が白くなるほど強く震えた。
(強力な結界ならば、この清涼殿にもある。朕が、お前をいくらでも匿ってやれる。……だが)
帝の胸に、残酷な現実が突き刺さる。
彼女は「主上の役に立ちたいから、浄化の力を操る術を学びたい」と言った。しかし、自分はまつりごとを司る身であり、陰陽道の術士ではない。彼女の持つ異界の強大な力を暴走させず、正しく扱いこなすための『指南』など、自分には逆立ちしても不可能なのだ。
(この国で、彼女を安全に守りながら、その力を正しく導き、指南できるのは――)
帝の視線が、隣に佇む男――安倍安明へと向いた。
悔しさと、己の無力さへの悲痛な葛藤が帝の胸を締め付ける。しかし、彼女の不退転の覚悟と、自分を想っての願いを無駄にすることはできない。帝はやり場のない想いを噛み締めながら、ぎりぎりと限界まで張り詰めていた拳から――ゆっくりと、フッと力を緩めた。あまりにも切ない、諦めを滲ませるように。
「――藤原の言う通りだな。わざわざ都を危険に晒す必要はない。なれば此度の件、陰陽寮の公式の役目として、朕が直々に命じよう」
「なっ……!?」
藤原の当主は絶句した。
梨乃がパスを出し、帝が完璧な形で受け止めた。二人の鮮やかな連携によって、「主上が陰陽頭に身辺管理と指南を直接命じる」という、覆せない大義名分が完成しかけていたのだ。
(帝から引き離す目的は達せるが……これでは主導権が完全に安倍安明へ移ってしまう。ええい、あの道具が我が藤原の御せる範疇を超えて動くのは看過できぬ!)
不快感と焦りを募らせた藤原の当主は、ギラリと濁った目を剥き、恐るべき言葉を吠り散らした。
「――お待ちくだされ、主上! 陰陽頭の申す通り、その女子が龍脈を揺るがし、都に怨霊の巣窟をなすほどの危うき存在であるならば、生かしておくこと自体が害悪! 国の平穏のため、今すぐこの場で処刑し、禍根を断つべきにございます!」
「なっ……!?」
今度は梨乃の顔から血の気が引いた。自分の差し出した大義名分が、最悪の形で跳ね返ってきたことに愕然とする。帝も激昂し、玉座から立ち上がりかけた。
しかし、安明だけは表情一つ変えず、一歩前に出た。烏帽子の下から、憐れみすら含まぬ冷徹な瞳を藤原へと向けた。
「藤原様。陰陽頭として、公務の観点からあまりに近視眼的なその暴論、到底首肯しかねます」
安明の声は、静かで、驚くほど平坦であった。
「彼女の持つ浄化の力は、確かに扱いを誤れば都を揺るがす火種となりますが、裏を返せば、正しく制御できれば都の穢れを永劫に清め尽くす『至高の神徳』となり得るもの。それをただ恐れて殺すなど、宝の山を前にして火を放つような愚行にございます」
安明は淡々と、しかし朝廷全体を納得させる「実利」を提示した。
「我が安倍の邸であれば、龍脈から彼女を切り離し、我が一統の結界でその気配を完全に隠蔽できます。漏れ出す気など、せいぜい『川のせせらぎ』程度に抑え込める。その安全な環境下で、彼女の望む通り、その強大な浄化の力を都のために正しく操り、制御する術を私が指南する……。それこそが、陰陽寮に課せられた真の国家公務にございます。藤原様は、その国家規模の利益を、己の短慮で叩き潰すとお仰るか」
「くっ……! ぬ、ぬかせ!」
顔を真っ赤にした藤原の当主は、醜く食い下がった。
「ならば、わざわざ陰陽寮の手を煩わせるまでもない! 我が藤原の息がかかった優秀な陰陽師どもをその女子の監視に当たらせ、我が邸にて気の管理と、その制御の術の解明を行えば済む話! それならばより安全に事を運べまする!」
権力に物を言わせた、強引なねじ込み。
帝が不快げに眉をひそめたその時、安明はふっと、冷ややかに唇の端を上げた。
「藤原様。では改めて、事務的に申し上げます」
安明の一歩は、藤原の当主を物理的にも心理的にも圧迫した。
「先ほど申し上げた隠蔽、および万が一の決壊を防ぐには、最低でも『晴明公直系の術式』、および朝廷の公認を得た祭壇の展開が不可欠。……翻って、藤原様のお抱えの術者の方々の術式を拝見するに、その大半が私伝の呪詛、あるいは簡易な護身の術にございます。……失礼ながら、基礎の出力が圧倒的に不足している。もし彼らに任せれば、管理が始まった初日に結界が崩壊し、都の半分が焦土と化す計算になりますが……藤原様は、その全責任を我が身一つで負う、とお仰る覚悟がおありで?」
「な、に……っ!?」
「庭掃除のついでに私が指先一つで処理できる魑魅魍魎すら、藤原様の術者の方々の『腕前』では、そもそも荷が勝ちすぎておいでです。命を捨てるような真似は、お止めになった方が賢明かと」
嫌みでも怒りでもなく、まるで「明日の天気」でも告げるかのような事務的なトーン。だからこそ、藤原のお抱え陰陽師たちが「足元にも及ばない雑魚である」という残酷な事実が、これ以上ない正論として突き刺さった。
これには、高を括っていた藤原の当主を尻目に、安明の言葉の裏を瞬時に読み切り、さらに「主上の役に立ちたい」という大義名分まで重ねてみせた梨乃に対し、安明自身も一瞬だけ驚いたように眉を動かした。
(まさか、私の言葉の裏を瞬時に読み切り、藤原の逃げ道を完全に塞ぐだけでなく、主上への忠義を盾に私への引き渡しの流れを完璧に整えるとはな……。全く、大した娘だ)
安明は烏帽子の下で、周囲には分からないよう、呆れたような、けれど底知れない感心の笑みを唇の端に浮かべた。
藤原の当主は、羞恥と怒りで顔を真っ赤に染め、ぶるぶると震えるしかありませんでした。完全に安明の底知れなさに圧倒され、ぐうの音も出ない。
梨乃の賢明な立ち回りによって、藤原の野心は完全に封じられ、帝が孤立する道も防がれた。
――しかし、それは。
帝にとって、あまりにも美しく、悲しい敗北の瞬間でもあった。
(お前を、后として我が側に迎えたい。誰の手にも渡さず、一生、朕の光として縛り付けておきたい――)
一国の主としての理性と、一人の男としての剥き出しの独占欲が、帝の胸の中で激しくせめぎ合う。
今ここで勅命を下せば、梨乃は確実に内裏を去る。もう二度と、昨晩のようにその温もりを抱きしめることはできない。しかし、彼女を本当の意味で生かし、輝かせる術を、自分は持っていないのだという絶望。
帝の冬の月のような双眸からギラギラとした炎が消え、ただ、張り裂けそうなほどの淡い恋情の残骸だけが、きらきらと美しく、切なく揺らめいていた。
「……分かった。内裏の安全を最優先とする。陰陽頭・安倍安明。お前に勅命を下す。その女子の身柄を一時お前に預け、その気の管理と、力の制御に関する一切の指南を命ずる。……藤原も、もはや異論はあるまい」
「……御意に、ございます」
藤原の当主は、己の言葉を完全に逆手に取られ、悔しげに頭を垂れるしかありませんでした。
「謹んで、勅命を拝受いたします。仰せの通り、我が陰陽寮の職事として、その女子の身柄と気の管理、および力の指南、しかと執り行いましょう」
安明は、感情の読めない流麗な動作で一礼した。それは藤原への勝利を誇るでもなく、ただ当然の公務を引き受けただけという、冷徹なまでの仕事人の姿であった。
梨乃は最後にもう一度だけ、帝に深く一礼した。
帝は、去りゆく梨乃の背中を、ただじっと見つめていた。
手のひらに残る、あの抱擁の温もりは、もう二度と戻らない。
自覚なき恋の天秤は、切なくも美しい失恋の余韻だけを清涼殿に残し、静かに幕を閉じるのであった。




