歯車
忍び寄る刺客
六月も終わりを迎える頃、清涼殿を包む空気は一変していた。
藤原の当主による、帝への目に見えぬ圧力が、日に日に強まっていたのだ。
「主上、近頃、内裏の警護に藤原の息がかかった武者が増えております。……それに、梨乃殿の身辺を嗅ぎ回る不審な術者の気配も」
側近から受けた密かな報告に、帝は清涼殿の奥で、冬の月のような瞳を険しく細めた。
藤原の狙いは明白でした。帝が一向に梨乃の力を政治に利用しないことを不審に思い、さらには帝が彼女を頻繁に召し上げる様子に危機感を抱いた当主が、梨乃を強引に宮中から引き離そうと、あるいは我が手中に収めようと、水面下で動き出したのだ。
(藤原め……。朕の『物』に、不埒な手を伸ばそうというのか)
帝は己の胸に湧き上がる激しい焦燥を、あくまで「帝としての不快感」だと自分に言い聞かせようとしていた。しかし、藤原が梨乃を奪おうと画策すればするほど、帝の心は反比例するように、激しく、狂おしいほどに梨乃を求め始めていた。
その日の夕刻、事件は起こった。
いつものように検分を終え、清涼殿から自身の控えの間へと戻る廊下でのこと。
長雨のせいで薄暗い渡り廊下を進む梨乃の前に、音もなく、数人の見慣れぬ陰陽生たちが立ち塞がる。その衣服の端には、藤原の家紋が微かに刺繍されていた。
「梨乃殿とお見受けする。当主様が、あなたの持つ『異界の力』について、直々にお聞きしたいことがあるとお呼びだ。……大人しく、我らと共に来てもらおうか」
「え……っ? でも、私は主上の検分を受けている最中で……」
梨乃が怯えて一歩身を引いた瞬間、術者の一人が懐から、邪悪な邪気を放つ呪符を取り出した。梨乃の浄化の力を一時的に封じ、無理やり連れ去るための藤原の罠。
「主上の許しもなく、勝手な真似は――」
「黙れ。異界の小娘が、偉そうに口を叩くな」
術者が呪符を掲げ、梨乃の手首を強引に掴もうと手を伸ばした、その時。
「――朕の宮中で、誰の許しを得て、誰に触れようとしている」
低く、地を這うような、凄まじい威厳を孕んだ声が廊下に響き渡る。
ハッとして術者たちが振り返った先――そこには、供の者も連れず、ただ一人の統治者として佇む帝の姿があった。
その冬の月のような双眸は、見たこともないほど冷酷に狂い咲き、瞳の奥の「金色」が、怒りのままにギラギラと恐ろしい光を放っている。
「し、主上……!? なぜここに……」
術者たちが真っ青になってへたり込む中、帝は彼らを一瞥することすらせず、大股で梨乃の元へと歩み寄る。
そして、怯える梨乃の肩を、周囲の目も帝としての体面もすべて投げ打って、我が物にするように強く、強く抱き寄せたのだ。
「主上……っ」
「……怪我は、ないか」
梨乃を抱きしめる帝の腕は、怒りと、そして「奪われるかもしれない」という激しい恐怖のあまり、微かに震えていた。
藤原が彼女を連れ去ろうとしたその瞬間、帝の胸の中で、これまで必死に均衡を保っていた理性の天秤が、カラン、と大きな音を立てて、完全に、修復不可能なほどに叩き割れた。
(道具だからではない。都の調和のためでもない。……朕は、この者を失いたくないのだ。誰の手にも、あの陰陽師にさえも、渡したくない――)
それは、これまでの「ただの興味」という言い訳をすべて焼き尽くす、圧倒的な独占欲の目覚めだった。まだこれが「恋」という名前の感情だとは自覚していなくとも、彼女が自分の世界のすべてになってしまっていることに、若き帝は気づかざるを得なかった。
「藤原の狗どもめ。朕の『器』に不遜な手を伸ばした罪、容易に許されると思うな。主に伝えよ。これ以上梨乃に近づかば、何人たりとも容赦はせぬ、と」
帝の凄まじい神気に圧され、術者たちは命からがら逃げ出していた。
静まり返った廊下で、帝はなおも梨乃を抱きしめたまま、荒い呼吸を繰り返している。
梨乃は、自分を包む帝の腕の強さと、その奥から伝わる、切ないほどの必死さに息を呑んだ。
(主上……そんなに、私を心配してくださったんですか……?)
梨乃のなかの深い情愛が、傷ついた獣のように自分を抱きしめる帝の背中に、そっと手を回させた。
「……梨乃。お前は、朕の側にいろ。どこへも行くことは許さぬ」
耳元で囁かれた、切なくも、どこか執着を孕んだ帝の言葉。
藤原の襲撃という危険を経て、帝の無自覚な想いは、もう誰にも止められないほどに強まり、深く、梨乃を縛り付けようとし始めていた。
五月雨の檻と、不退転の誓い
襲撃してきた藤原の刺客を退け、静まり返った廊下から、帝は梨乃を抱きすくめたまま清涼殿の最奥へと連れ戻した。
外では、まるで二人の世界を世俗から切り離すかのように、激しい五月雨が御殿の屋根を叩き、轟々と鳴り響いている。
御簾も几帳も取り払われた薄暗がりの中、帝の荒い呼吸だけが室内に響く。
梨乃を離せば、今度こそ藤原の闇に、あるいはあの陰陽師の元へ、二度と戻らぬ場所へ消えてしまうのではないか――その怯えが、高潔な帝の理性を完全に焼き尽くしていた。
帝は梨乃の肩を掴んでいた手を、ゆっくりと、けれど逃がさぬようにその細い身体へと回し、再び強く抱きしめる。
「主上……もう、大丈夫ですから。私はここにいます」
梨乃は、自分を包む帝の腕のあまりの強さと、その奥から伝わる、切ないほどの必死さに息を呑む。
己の危険よりも、この孤独な帝の心が張り裂けそうなことの方が、梨乃には耐えがたかった。彼女のなかの深い情愛が、傷ついた獣のように自分にしがみつく帝の背中に、そっと手を回させる。
しかし、その梨乃の優しい温もりが、かえって帝の胸の奥の、名前も知らぬ狂おしい情動を決定的なものにしてしまった。
「……っ藤原が何だ、中宮が何だ。奴らがその地位で都を操るというなら、朕がすべてを廃してでも、お前を誰も届かぬ最高の地位へと引き上げて、縛り付けてみせる。……朕の側から離れるな。お前のその温もりを、他の誰にも渡したくない」
「主上、私は……」
あまりの熱量に梨乃が息を呑んだ瞬間、帝はゆっくりと手を伸ばし、梨乃の華奢な顎をその長い指先で優しく持ち上げる。
拒むことを許さない、けれど壊れ物を扱うような繊細な手つき。
梨乃の視線が、否応なしに帝の端正な顔へと固定された。
次の瞬間、帝の美しいお顔が、至近距離まで一気に近づく。
最高級の薫物の香りが鼻腔を支配し、頭が真っ白になるほどの距離の中、帝の熱い吐息が、梨乃の唇を微かに掠める。触れ合う寸前の、あまりにも甘く、張り詰めた熱。
梨乃は心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされ、ただ主上の瞳に宿る、まだご自身すら名前を知らない深い恋情に、身をすくめることしかできなかった。
「……お前を、誰にも渡さぬ。朕のすべてを賭けてもだ」
唇が触れ合う一歩手前で、帝は愛おしそうに目を細め、その額を梨乃の額へとそっと重ねた。
これが「恋」という名の狂おしい執着であることに、若き帝は未だ気づかぬ振りをしながらも、己のすべてを賭してこの少女を護り抜くと、心の奥底で誓っていた。
翌朝、どのような嵐が自分たちを待ち受けているのか、この時の二人には知る術もない。
それが、すべてを裏で操る陰陽頭・安倍安明が仕掛けた、帝自らに「梨乃を安倍邸へ移すしかない」と決断させるための、完璧な盤面の幕開けであることも――。
ただ、五月雨の鳴り響く閉ざされた御殿の中で、帝は梨乃の確かな体温を、愛おしそうにいつまでも感じていた。
動き出す歯車
一方、内裏の喧騒から遠く離れた藤原邸の奥書院では、張り詰めた沈黙を破るように、どろりとした怒号が響き渡っていた。
「……何だと? 失敗した、だと!?」
藤原の当主は、目の前で平伏し、恐怖にガタガタと震える術者たちを、今にも斬り捨てんばかりの眼光で睨みつけた。
手練れの術者を差し向け、警護の薄い廊下で梨乃を速やかに引き剥がす――そのはずだった完璧な計画は、あろうことか「帝直々の乱入」という最悪の形で崩れ去ったのだ。
報告を聞くうちに、当主の顔は怒りと、そして底知れない焦燥感で歪んでいく。
「主上自らが刀を抜くが如き神気で割って入り、あの小娘を抱き寄せ、我が手の者を脅迫したというのか……。馬鹿な、そこまであの娘に絆されておいでだというのか!」
それは、藤原にとって最悪の兆候だった。
帝があの異界の小娘をただの道具ではなく、一人の男として、それも狂おしい情愛で満たしている。そうなれば、己の愛娘を中宮に据え、外戚として天下を握るという藤原の至上計画は、根底から瓦解してしまう。
「……おのれ、あの忌々しい小娘め。宮中から引き離すどころか、主上の心の最も深い場所にまで入り込んでおったか」
当主は脇息を乱暴に蹴り飛ばし、部屋の中を激しい足取りで往復する。
焦りが、彼の老獪な理性をじわじわと侵食した。もはや一刻の猶予もない。朝になれば、帝から藤原への何らかの追及や、あの娘を正式に妃へと迎えるための動きが始まるかもしれない。
(これ以上、あの娘を宮中に置いておけば、我が藤原の栄華は潰える……。ならば、手段など選んでいられぬ!)
当主の鋭い眼光に、恐ろしいほどの政治的な野心と、狂気にも似た焦燥が混ざり合っていく。
(内裏の警護を我が手のもので固め、主上に直接の圧力をかけるか。あるいは……あの娘の浄化の力を、呪詛を以て無理やりにでも藤原の道具に仕立て上げ、主上を脅迫するか――)
当主は低く唸るように言うと、苛立ちをぶつけるように、人気のない書院の闇へと鋭い視線を投げた。
「――誰ぞ。誰ぞおるか!」
その重々しい一喝が室内に響き渡るや否や、張り詰めた空気の隙間から、一人の抱え陰陽師が音もなく這い出てきた。御簾の向こうから影のように現れた男は、困惑したように額を床に擦りつける。
「ははっ、御前にございます……。藤原様。それが、お抱えの術者どもが口々に怯えておるのです。あの娘の気はあまりに強大。我らが藤原の邸へ引っ張り込んで呪詛で縛ろうものなら、気の制御が利かず、この邸に恐るべき障りや穢れが残留してしまう、と……」
「無能めが!」
当主は激昂し、脇息を蹴り飛ばさんばかりに怒声を上げた。
「ならば指をくわえて見ていろと言うのか! 邸が穢れるというなら、外に隔離すれば良かろう!」
「は、仰せの通りにございます。……ただ、並大抵の土地ではあの莫大な気を抑え込めず、結界が破れて京の都中に気が漏れ出してしまいます。……それこそ、都全域に網の目のように流れる『龍脈の源流』の真上にでも据え付けねば、漏れ出す気の処理だけで、我ら術者が全員、過労で干からびてしまいまする……」
陰陽師は「本当に困ったものです」とでも言うように、深くため息をついた。
「――待て」
当主の動きが、ぴたりと止まる。
脳裏で、濁った火花が鮮烈に弾け飛んだ。
(都全域に流れる、龍脈の源流……?)
(そこに、あの強大な気の塊を据え付ける……!)
藤原の当主は、ぞくりとするような歓喜に身震いした。
そうだ。藤原の邸に引き込むから障りになるのだ。最初から内裏の外の、都の血管である『龍脈の源流』にあの小娘を縛り付けてしまえばいい。莫大な力は土地が勝手に吸い上げて、都の浄化に還元される。邸が汚れる心配もなく、帝からは物理的に引き離せる。
何より、「国の要たる龍脈を、藤原が神子を奉って管理する」という、これ以上ない国家規模の大義名分が手に入るではないか。
「……ふっ、ふははは! 龍脈か! なぜそんな簡単なことに気づかなかった!」
当主は己の、あまりにも「天才的な閃き」に狂喜し、冷酷に唇の端を歪めた。
「術者どもに伝えよ。これより我が藤原は、あの小娘を龍脈へ縛り、国の礎たる『神子』とする大計画を執り行う。これならば主上とて、国の安泰を天秤にかけられれば、拒むことはできまい。明朝の朝廷にて、主上へ直訴する!」
「……は、ハハッ! さすがは藤原様、我ら凡愚には到底思いつかぬ見事なる御見識。平伏して従うほかにございません……」
震える声で感嘆してみせた陰陽師は、深く頭を垂れ、御簾の陰へと下がっていった。
闇に隠れたその顔から、怯えの色は綺麗に消え去り――主人を嘲笑う、ぞっとするほど冷ややかな薄笑いが浮かんでいた。
しかし、藤原の当主はまだ気づいていない。
己のこの激しい苛立ちも、焦りのあまり強硬手段に出ようとしているこの瞬間さえも、すべては陰陽頭・安倍安明が冷徹に組み立てた方程式の盤面の上――。
藤原が暴れれば暴れるほど、帝は梨乃を護るために、自ら「安倍邸へ預ける」という唯一の選択肢を選ばざるを得なくなるという、完璧な罠の檻の中に囚われていることに、彼はまだ全く気づいていないのだった。
昏き盤面と、冷徹なる布石
――同じ頃、夜陰が深く融け込む安倍邸の一室。
陰陽頭・安倍安明は、文机の上に広げられた一枚の密書を、ただ静かに見つめていた。
それは、夜の闇に紛れてもたらされた、藤原邸の動向を克明に記した潜みの報告。
藤原の放った刺客が内裏で無様に失敗したこと、そして、追い詰められた当主が今まさに怒り狂い、次なる強硬手段へと舵を切ったこと。行間に滲む敵の無様なしわぶきまでをも見透かすように、安明の薄い唇が、冷ややかに弧を描く。
(やはり、食いついたか……)
すべては、半月前のあの初日の夜から彼が組み立てていた思惑通りに動いていた。
己の野心と焦りに目が眩んだ藤原の当主が、自ら破滅の罠へと飛び込み、すぐさま明朝の朝廷で帝に直訴するよう動くことは、安明の冷徹な理性によって容易に、狂いなく計算できていたのだ。
安明の漆黒の瞳に、冴え冴えとした光が宿る。彼は頭の中で、明朝の朝議という名の盤面を、凄まじい速度で組み立てていく。
夜が明ければ、藤原は満を持して、己の首を絞めることになる「一手」を帝へ奏上するはず。その場で初めて残酷な危機を知る主上は激しい衝撃に震え、藤原への警戒を最大級に強めるだろう。しかし、内裏の中はどこも藤原の監視の目が光っており、主上は梨乃を匿う場所に窮することになる。
その時、逃げ場を失った主上が、苦渋の消去法として自ら梨乃を託さざるを得ない場所は、この京のどこを探しても――我が安倍邸以外に存在しない。
(主上への忠義の形を崩さぬまま、藤原の牙を抜き、梨乃を堂々とこの手に引き取る。……不変の理だ)
安明が長い指先で密書の端に微かに触れると、そこから音もなく、冷たい青紫の焔が燃え上がる。
妖しく揺らめく光が彼の美しい輪郭をかすかに照らし、次の瞬間には、密書は灰の一片すら残さず、虚空へと完全に消滅していった。
安明はその焔の残光を瞳に映しながら、静かに立ち上がる。その瞳の奥には、すべてを計算通りに動かしてみせるという絶対的な自信と、何より、半月もの間離れていた愛しい少女を、ようやくこの腕に連れ戻せるという、静かな、けれど底知れない熱が灯っていた。
(……もうすぐだ、梨乃。すぐに、迎えに行ってやる)
陰陽頭・安倍安明の、誰の手も汚さない華麗な計略が、完全に牙を剥こうとしていた。仕掛けられた罠の檻は閉じ、あとは明日の朝、哀れな獲物が自ら破滅の朝議へ参内してくるのを待つばかりだった。




