思惑
盤面を刻む秒針
梨乃が宮中に留まり、主上による「検分」が始まってから、十日余りが流れていた。
陰陽寮の長たる安明のもとには、内裏に放った手から、日々の動向が克明に記された報告が絶え間なく届けられている。
(主上との距離が、妙に縮まっているな……)
密書に並ぶ文字を冷たい瞳で追いながら、安明は文机の上で、白い指先を規則的にトントンと遊ばせていた。
梨乃が恐れおののくこともなく、ただの人間として微笑みかけ、いかなる公卿の前でも仮面を外さぬ若き帝の心を揺さぶり始めているという。宮中の誰もが気づかぬ、だが確実に変化しつつある内裏の空気を、安明の鋭い知性は瞬時に察知していた。
(人当たりの良い、妙な娘だとは思っていたが……。まさか、あの氷の如き主上まで、こうも鮮やかにたらしめるとはな)
安明の薄い唇から、微かに冷たい吐息が漏れます。
主上の心を動かし、藤原を牽制するための盾にする。それは安明の描いた盤面通りの動きであり、本来なら快哉を叫ぶべき状況だった。しかし、想定以上に梨乃に絆され、執着し始めている主上の動向は、安明の冷徹な計算をほんの少しだけ狂わせ、胸の奥にチリリと不快な歪みを残していた。
(これほど早く主上の心の天秤を狂わせるとは。私の目の届かぬ場所で、どれだけ人を惑わせれば気が済むのか)
己の与り知らぬところで、あの純粋な光が主上の心を溶かし、悦ばせているという事実。それは最強の陰陽頭にとって、かつて抱いたことのない、底知れぬ乾きをもたらしていた。
だが、安明はその不快感を、すぐに冷徹な微笑みの下へと圧し沈める。
(焦る必要はない。主上が彼女に溺れれば溺れるほど、藤原の焦燥は限界に達する。……すべては、この手の中に収まる不変の理だ)
安明は視線を窓の外、遠く光る内裏へと向けた。
間もなく、仕込んだ餌に飢えた獣が喰らいつく。その確信とともに、安明は闇の中で静かに、次なる一手へと指をかけた。
焦燥の檻と、不穏なる暗躍
藤原邸、奥の院
「……主上は一体、何を考えておいでなのだ」
重厚な脇息を拳で叩きつけ、藤原の当主は忌々しげに毒づいた。
部屋に漂う高級な薫香の香りすら、今の彼の苛立ちを静めることはできない。
異界の器だというあの小娘が内裏に召し上げられてから、半月。当主の目論見では、帝がその強大な力を畏怖するか、あるいは都の調和のために即座に「道具」として利用し始めるはずだった。そうなれば、藤原が「管理」を名目に横から奪い取る隙も生まれたはずだったのだ。
しかし、帝がしていることと言えば、検分と称して日に何度も清涼殿に呼び出し、ただの世間話のように問いを重ねているだけ。
「日に何度も、直々に呼び出しておいでだと……? もしや主上は、あの小娘を――寵愛し始めておられるのではないか?」
その疑念が脳裏をよぎった瞬間、当主の背筋に冷たい戦慄が走った。
藤原には、己の愛娘をしかるべき時期に宮中へ上げ、中宮(正妻)の座に据えるという、絶対に譲れない至上計画がある。それによって次の帝の「外戚」となり、この国の権力を完全に我が物にする――その完璧な目論見が、どこの馬の骨とも知れぬ異界の娘一人に狂わされるなど、断じてあってはならないことだった。
「主上とて、若き男。あの瑞々しい気に絆される前に、手を打たねば。……あの娘を宮中から引き離す、絶対的な大義名分をひねり出すのだ」
当主は脇息を乱暴に蹴り飛ばし、部屋の隅で深く平伏している配下の術者たちを、ギラついた眼光で睨みつけた。
「――警固の薄い廊下で、あの小娘を力尽くで引き剥がし、我が手元へ拐かすのだ」
言葉にこそ出しませんが、その瞳は「手段を選ぶな」と激しく物語っている。
主のただならぬ殺気と、狂気にも似た焦りを肌で感じ取った術者たちは、その恐ろしい意図を瞬時に察し、音もなく深く頭を下げた。
どろりとした沈黙の中、主の狂気を孕んだ視線だけで交わされた暗黙の命を帯びて、影たちが闇へと溶けるように動き出した。




