幕間(帝)
五月雨と、小さな灯火
六月に入り、京の都はしとしとと降り続く五月雨の季節を迎えていた。
その日も、検分という名目で清涼殿の広廂に呼び出された梨乃は、薄暗い雨空を見上げながら、御簾の向こうの帝と対話をしていた。
ジメジメとした不快な気候のせいか、あるいは連日の政務の疲れか、御簾の奥の帝はいつになく無口で、時折、重い溜息を隠そうともせずに漏らしていた。
「……主上、少し暗いですね。灯りをつけましょうか」
「構わぬ。宮中の灯し火など、どれも油の臭いが鼻について忌々しいだけだ。このままの薄暗がりの方が、いくぶんか頭痛が紛れる」
帝の言葉は、拒絶というよりも酷く疲弊しているように聞こえた。
現代の持ち物は何も持たず、気の利いたアロマも、頭痛薬もここにはない。梨乃は、(どうにかして、この重苦しい空気を和らげられないかな……)と周囲を見回した。
その時、雨に濡れる庭の植え込みの陰で、小さな、本当に小さな光が、明滅しているのが目に留まった。
「あ……蛍」
梨乃は思わず立ち上がると、濡れるのも構わずに縁側へ一歩踏み出し、その小さな光をそっと両手で包み込むようにして捕まえ、清涼殿の中へと戻ってきた。
「不遜だぞ、梨乃。朕の許しもなく動くとは――」
「主上、これを見てください」
咎める帝の言葉を遮るようにして、梨乃は御簾のすぐ近くで、そっと合わせた両手を少しだけ開いた。
手の中の狭い暗闇から、ぽうっ、と淡く柔らかな緑色の光が溢れ、御簾の隙間から帝の端正な顔を優しく照らし出す。
「……蛍、ですか? 私の世界では、夏の風物詩なんです。油の臭いもしませんし、静かで、とっても綺麗な灯りですよ」
梨乃は、少しでも帝の心が安らぐようにと、慈しむような、温かい微笑みを浮かべてその手を見つめていた。
御簾の奥で、帝は息を呑んでいた。
目の前で明滅する小さな光の美しさ以上に、帝の胸を強く打ったのは、彼女の、あまりにも見返りのない純粋な「情愛」だった。己の頭痛を案じ、ただそれだけのために雨の庭へ手を伸ばした少女。
気づけば、帝は無意識に御簾のすぐ近くまで身を乗り出していた。高貴な身分ゆえに保つべき「人との距離」を、彼女の光に吸い寄せられるように、自ら踏み越えている。その異常さに、帝自身はまだ気づいていない。
その瞬間、帝の胸の奥で、またしてもカラン、と小さな天秤が動く音がした。
「……子供だましだな。このような、今にも消えそうな虫の光が、何になると言うのだ」
帝はふっと視線を逸らし、いつものように冷淡に言い放った。けれど、その声音には先ほどまでの刺すような棘は無く、どこか戸惑ったような、愛おしさを噛み締めるような響きが混ざっている。
「ふふ、でも、主上の顔、さっきより少し柔らかくなりましたよ?」
梨乃はただ、彼の頭痛が少しでも和らいだように見えて、ほっとしただけ。しかし、至近距離でその無防備な笑顔を向けられた帝は、ドクンと跳ね上がった己の心音に、これ以上ないほど激しく動揺してしまう。
「……不敬だぞ。下がれ」
これ以上ここに居られては、この胸の騒ぎを抑え込めなくなる。
帝は突き放すように冷たく命じ、慌てて顔を背けた。その耳たぶが、隠しようもないほどに真っ赤に染まっていることなど、梨乃は知る由もない。
「あ、はい……お邪魔しました」
(やっぱり、まだちょっと怒ると怖いな……)
梨乃は小さく首を傾げながらも、お辞儀をして静かに下がっていった。
冷たい帝の仮面の裏にある、等身大の弱さ。梨乃のなかに微かに芽生えたのは、この孤独な人を少しでも支えてあげたいという、純粋な思いやりだった。
一方、帝は、彼女が下がった後も、自分の手のひらに残ったかのような、実体のない確かな温もりにずっと戸惑い続けていた。
かき氷
六月も半ばを過ぎると、雨の合間に差し込む陽射しが、じっとりと肌を焦がすような蒸し暑さを運んでくるようになった。
その日、清涼殿に呼び出された梨乃の前には、銀の器に盛られた小さな「氷の欠片」が置かれていた。
「……主上、これは?」
「氷室から切り出させた氷だ。この暑さだ、異界の器とやらが干からびては検分の障りになる。口に含むが良い」
現代の持ち物を持たない梨乃にとって、それは久々に見る「本物の氷」でした。最高権力者しか口にできない貴重なものだと知り、梨乃は目を輝かせる。
「ありがとうございます!……でも主上、せっかくの貴重な氷なら、もっと美味しく食べられる方法があるんですよ。あの、宮廷の台所に、柚子の果汁と蜂蜜ってありますか?」
「ほう? 氷を美味しく、か。……おい、持ってまいれ」
帝が御簾の奥から声をかけると、控えていた女房がすぐに柚子汁と蜂蜜を運び、そっと下がっていった。
御簾の外の広廂で、梨乃はさっそく作業に取りかかる。
銀の匙の背を使って、自分の手元にある小さな氷の欠片をトントン、トントンと細かく砕いていく。楽しげな涼しい音が、静かな清涼殿に響き渡った。
そこに柚子の絞り汁と蜂蜜を、とろりと回しかける。
「(……何をしているのだ、あの娘は)」
御簾の奥で、帝はそわそわとした奇妙な好奇心に駆られてた。手元がよく見えないもどかしさと、梨乃の楽しげな気配。
気がつけば、帝は脇息から身を起こし、自らの手で御簾をふわりと押し上げて、梨乃のいる広廂へと静かに降りてきてしまっていた。
「あ、主上!?」
いきなり背後に現れた最高権力者に、梨乃は目を丸くして驚く。驚く梨乃のすぐ隣に、帝は当然のような顔で端座しました。本来ならあり得ない近さ。けれど帝自身は、手元を覗き込みたい一心で、距離の異常さに全く気づいていない。
「それが、氷を美味しくする方法か」
「は、はい……! 私の世界でいう『かき氷』風です。あの、これ、私の分として作ったので、毒とか入ってないですから安心してください! 良かったら、どうぞ!」
梨乃は、自分が今まさに食べようとしていた、一番出来栄えの良い銀の器を「どうぞ」と帝に差し出した。
「……朕に、お前の分をくれるというのか」
宮中では、帝の食事には厳重な毒見が入るのが絶対。しかし、目の前の少女は、自分が食べるはずだった安全なものを、ただ「美味しいから」という純粋な好意で差し出してきている。
「はい! 主上のはこれから作りますから、まずはこれ、溶けないうちに食べてみてください!」
差し出された器を、帝は女房も介さず、直接受け取った。その瞬間、二人の指先がはっきりと触れ合う。
間近で見る帝の金の眼が、わずかに揺れた。息が届きそうなほどの距離。宮中の誰一人として許したことのない絶対的な聖域に、この少女はあまりにも自然に、無防備に入り込んできている。その異常な近さに、帝の心臓はまたしても煩いほどに鳴り響いていた。
帝が静かに匙を口に運ぶ。
シャリ、という涼やかな音のあと、帝の端正な顔がふっと綻んだ。
「……美味いな。氷の冷たさのあとに、この、柚子の 爽やかな風味が鼻に抜ける。甘みだけでないのが、実に見事だ」
「でしょう! 私の世界では、夏になるとみんなこうして冷たいものを食べて、暑さを乗り切るんです」
至近距離で美味しそうに食べる帝の姿に、嬉しくなった梨乃は、つい、楽しそうに心を弾ませて言葉を続けてしまった。
「……そういえば、安倍邸にいた時も、台所にあった葛粉と米飴に、真っ赤な木苺を合わせて、現代のジュレみたいな……とても甘くて瑞々しい甘味を作ったことがあるんですよ。それが凄く美味しくできて、安明様に全部『俺の物だ』って匙ごと奪われて食べられちゃって……。もし、今度また内裏の台所で材料が揃う機会があったら、主上にもぜひ作りますね!」
「――……」
その瞬間、帝の匙を動かす手が、完全に止まった。
至近距離だからこそ、梨乃にも帝の空気が一瞬で「凍りついた」のが分かる。
(……安明、か)
今、自分にその出来立ての美味をくれた少女。その口から滑り出た別の男の名。
いつも自分の前で見せるその屈託のない笑顔や、新しい甘味を工夫する瑞々しい感性が、あの陰陽師の邸でも、自分のこれと同じ距離で発揮されていたのだろうか。しかも、匙を奪われるほどの距離で。
そう考えただけで、なぜか今しがた感動したはずのかき氷の味が、急に淡くなっていくような気がする。胸の奥を激しく焦がす、この得体の知れない不快感は何だ。
あまりの空気の静まり方に、梨乃は息を呑んだ。
「主上……?」
心配そうに顔を覗き込んでくる梨乃の、あまりの近さに、帝は自分がどれほど彼女に歩み寄っていたのかを突きつけられ、ハッと我に返る。
「……いや、何でもない。少し、冷たいものが頭に響いた」
帝はいつもの冷静な声音を取り戻そうと、あえて突き放すように器を置き、すっと立ち上がって御簾の奥へと戻っていった。
「もうよい、下がれ、梨乃」
梨乃は理由が分からないまま、「……失礼いたします」と首を傾げながら、清涼殿を後にするしかなかった。
一人残された空間で、帝は残った器を見つめたまま、己のなかに生じた不可解な違和感――。
自ら御簾を上げて彼女の隣へと降りてしまったことへの戸惑いと、その笑顔を自分だけのものにしたいという、無自覚な独占欲の芽生えに、激しく心を乱されていたのだった。
夏越の夜の、不埒な境界
六月も終わりに近づいた、ある夜のこと。
その日は珍しく、夜を徹して行われる神事の合間に、帝の強い希望で検分が行われていた。
清涼殿の几帳の陰。外では、翌日の『夏越の祓』を控えた茅の輪が夜風に揺れ、どこか厳かで、同時に妖しい熱気を帯びた空気が満ちていた。
「主上、お疲れではありませんか? 毎日遅くまで神事の準備をされていると、女房の方々からお聞きしました」
いつものように少し離れた畳の上で、梨乃は心配そうに帝を見つめていた。
彼女は、この数日間帝の体調を気遣う言葉をかけることしかできなかったが、そのひたむきな情愛こそが、帝にとって何よりの毒であり、薬だった。
「……案ずるな。これしき、帝たる者の務め。だが――」
御簾の奥から響く帝の声は、心なしかいつもより低く、熱を帯びているように聞こえた。
「少し、近くへ参れ、梨乃。声が聞き取りづらい」
「え? あ、はい……」
いつもなら一定の距離を保つはずの帝からの、突然の呼び出し。
梨乃が少しだけ膝を進めると、すうっ、と内側から御簾が押し上げられた。そこから現れた帝の双眸は、冬の月のような冷徹さを保ちながらも、その奥の『金色』が、夜の闇の中でかつてないほどに、きらきらと、どこか飢えたように揺らめいている。
「主上……?」
「もっと近くへ」
促されるまま、梨乃は御簾の境界を越え、帝のすぐ目の前まで進み出た。
衣が触れ合いそうなほどの距離。帝の体温と、ほんのりと漂う高貴な薫香が梨乃の肌を包み込む。
帝自身、自分がなぜこんなにも彼女を近くに求めてしまうのか、その理由を説明できなかった。ただ、目の前にある、異界から迷い込んだ小さくか弱き存在――己の野心のために近づく誰とも違う、この純粋な少女に、どうしようもなく「触れたい」という衝動が、理性を浸食していたのだ。
帝の白く細い指先が、迷うように虚空を彷徨ったあと、引き寄せられるように梨乃の頬に落ちかかった、一房の黒髪へと伸びた。
冷たい指先が、梨乃の髪をそっとすくい上げる。
それだけで、梨乃の心臓はドキンと大きく跳ね上がった。
「主、上……?」
「動くな」
低く、掠れた声音。
帝は、すくい上げた梨乃の髪の柔らかさを指先で確かめるように、ゆっくりと滑らせていく。その指先は、まるで吸い寄せられるように、梨乃の白く柔らかな頬へと、あと数寸というところまで近づいていった。
(触れたい。この手で、この温もりを、私だけのものだと確かめたい)
胸の奥で、カラン、カランと、理性の天秤が激しく、狂ったように音を立てて揺れていた。
これは帝としての検分ではない。己のなかに巣食う、一人の男としての、醜いほどに不埒な欲望だ。そう理性が警告を発しているのに、彼女のまっすぐな瞳に見つめられると、どうしても指が止まらない。
梨乃は、帝の瞳の奥にある、見たこともないほど切なく、熱い光に息を呑んでいた。
怒られているわけではない。けれど、胸が締め付けられるほどに、帝の表情が、寂しそうに、そして愛おしそうに見えたのだ。梨乃のなかの深い情愛が、「この孤独な人を拒んではいけない」と、その身体を優しくその場に引き留めていた。
帝の指先が、ついに梨乃の耳元に触れ、そのまま頬へと滑り落ちようとした、その時――。
遠くから、神事を告げる太鼓の音が、ドォン……と重々しく響き渡った。
「――っ」
その音に弾かれたように、帝はハッと我に返った。
自分が何をしようとしていたのか。己のなかに眠る、底知れないものの深さに、帝自身が恐れをなしたように息を詰まらせる。
帝は、掴んでいた梨乃の髪を、名残惜しそうに、けれど引きちぎるような切なさを孕んで、そっと手放した。
「……夜が更けた。お前を呼び止めておくのも、検分の障りになるな」
握りしめられた帝の手が、微かに震えているのを、至近距離にいた梨乃ははっきりと視ていた。
理由のわからない切なさと、熱い余韻が、二人の間に甘やかに立ち込めている。
「主上……あの、お身体に気をつけてくださいね」
梨乃が去り際、そっと残した優しい言葉。
一人残された御簾の奥で、帝は、先ほどまで梨乃の髪に触れていた己の右手を、じっと見つめていた。手のひらに残る、かすかな熱の残像。
(朕は一体、どうしてしまったのだ。あの器に、これほどまでに……)
胸を突くこの苦しいほどの切なさと、触れたいと願ってしまう渇きの正体を、若き帝はまだ知らない。ただ、明日になればまた、彼女を呼び出さずにはいられないことだけを、確信している。
自覚なき恋の天秤は、もう二度と、元の均衡に戻ることはないほどに、深く深く、梨乃の方へと傾き堕ちていくのだった。




