境界
黄金と紅の境界
――それは、昨日までの自分をすべて塗り替えてしまうような、圧倒的な色彩だった。
御所の清涼殿、その一室に差し込む朝の光の中で、梨乃は目の前に広げられた新たな衣装を息をのんで見つめていた。
検分が始まって暫く経ったある朝。
昨日まで梨乃が身にまとっていたのは、安明が用意してくれた十二単だった。
それは桜色や藤色といった、淡く、どこか儚げな色彩の重なり。現代の女子である梨乃を優しく守るような、そして彼女の持つ清純な雰囲気をそのまま引き立てるような、安明の細やかな気遣いが感じられる召し物だった。
だが、帝から新たに賜った十二単は、ガラリと雰囲気が違っていた。
新調された着物は、深く、鮮烈だった。
最表の表着には、目の覚めるような濃紅と、高貴な紫。地紋には、天高く舞い上がる鳳凰が、繊細な金糸で織り込まれている。それは、ただの少女を「帝の庇護下にある特別な存在」へと仕立て上げるための、圧倒的な威厳に満ちた衣装だった。
女房たちに手際よく着付けられ、ずっしりとした絹の重みに戸惑いながらも、梨乃は清涼殿の御簾の前へと進む。
「……主上、あの、新しいお着物をいただいたのですが……」
現代の女子高生である梨乃にとって、こんなに豪華絢爛な、お雛様のような格好は落ち着かない。おずおずと声をかけると、すうっ、と内側から御簾が押し上げられた。
そこから現れたのは、太陽を体現したかのような、まばゆい金の御衣をまとった帝だった。
「ふむ……」
帝は脇息に肘をついたまま、梨乃を頭の先から爪先まで、じっと品定めするように見つめる。その冬の月のような金の双眸が、わずかに、本当にわずかに見開かれた。
(思った通りだ)
昨日までの安明が着せていた桜色は、梨乃を「守られるべき可憐な花」に見せていた。それが、どうにも面白くなかった。まるで安明の庇護下にあると見せつけられているようで、胸の奥がずっとじりじりと燻っていたのだ。
だが、己の選んだ烈しいほどの紅と紫は、梨乃の持つ「清らかなる気」を隠すどころか、内側から発光する気品のように引き立てている。そして何より、金の御衣をまとう朕の隣に並んだ時、お互いの色彩がこれ以上ないほどに美しく噛み合った。
まるで、初めから二人で一つの絵として完成されていたかのように。
「やはり、その方が良い。昨夜までの衣は、いささかお前を隠しすぎていた。朕の側に置くものとして、そのような遠慮は不要だ」
「は、はあ……。でも、なんだか私には派手というか、勿体無いというか……」
梨乃が少し照れくさそうに身を縮めると、帝はふっと立ち上がり、当然のような顔をして御簾から広廂へと降りてきた。
ストン、と梨乃のすぐ隣に端座する。
「あ、主上!?」
いきなりの急接近に梨乃が目を丸くする。息が届きそうなほどの距離。本来ならあり得ない境界の越え方なのだが、帝自身は「仕立ての具合を確かめる」という大義名分(脳内言い訳)があるため、自分の距離の異常さに全く気づいていない。
「……何を驚いている。検分だと言ったはずだ」
帝は冷淡を装った声音で言いながら、梨乃の肩にかかる濃紅の衣へ、白く細い指先を伸ばした。
触れるか触れないかの距離で生地を滑らせ、そのまま、梨乃の首筋に落ちかかる黒髪へと視線を移す。
間近で見る梨乃は、やはり宮中の誰とも違っていた。己の権力に怯えるでもなく、媚びるでもなく、ただ新しい衣の重さに目を白黒させている。その無防備で清らかな佇まいに、帝の心臓が、またドクンと煩く鳴り響いた。
「これからは、我が大御宝として、我が与えたものだけを身につけよ。安明の色の残り香など、朕の近くには必要ない」
「えっ……あ、はい! ありがとうございます……っ! あ、でも、あの! 安明様のは、私が着る服がなくて困ってたから、ただ親切で、貸してくれただけなんです! だから、その、安明様が怒られちゃうようなことじゃなくて……っ」
「……親切、だと?」
帝の指先がピキッと止まる。
梨乃としては、お世話になった安明に飛び火しないよう、あわあわしながら必死にその場を取り繕っただけだ。
だが、宮中の誰もが己の顔色を窺い、一言一句を肯定する世界で生きてきた帝である。出会って二日目の、どこの馬の骨とも知れぬ少女が、朕の言葉を否定し、あろうことか別の男の弁護を優先した。その事実が、最高権力者として純粋に「面白くない」し、何より調子が狂う。
(なぜ、わざわざあやつを庇うような真似をする。……やはり、異界の者は礼儀も、人との距離の取り方も知らぬな)
胸の奥にじわじわと広がる、得体の知れない居心地の悪さ。
帝はその妙な胸のざわつきを、ただ「無礼な態度をとられた不快感」だと一蹴し、それ以上深く考えるのをやめた。
梨乃は、帝のまとう空気が一瞬で「凍りついた」ことに気づき、慌てて彼の顔を覗き込んだ。
「主上……? あの、もしかして、どこかお悪いですか? お顔がちょっと怖いです……」
心配そうに真っ直ぐに見つめてくる、潤んだ瞳。至近距離でその無防備な視線を向けられた帝は、自分がどれほど彼女に歩み寄り、この些細な言動に心を囚われていたかを突きつけられ、ハッと我に返った。
「――っ、不敬だぞ。下がれ」
これ以上ここに居られては、この妙な苛立ちを抑え込めなくなる。
帝は慌てて顔を背け、すっと立ち上がると、突き放すように御簾の奥へと戻っていった。
「あ、はい……失礼します……」
(やっぱり、昨日優しかったと思ったら、今日も急に怒るなぁ……。体調悪いのかな)
梨乃は首を傾げながら、静かに下がっていった。




