検分
検分の初日
――そして、翌朝。
ほとんど眠れぬまま迎えた検分の初日、梨乃は女房に促され、清涼殿の奥に位置する『朝餉の間』へと呼び出されていた。
昨日の、大勢の公卿たちが目をぎらつかせていた仰々しい雰囲気とは一転し、そこには静謐な静寂が満ちている。
香の煙がかすかに揺らめく部屋の奥、一段高くなった畳の上に、帝は昨日とは違う、少しくだけた、けれど息を呑むほどに美しい白い御衣を纏って座しておられた。その手には象牙の笏ではなく、一本の古びた巻物。
梨乃が部屋に入り、一歩手前で深く平伏しても、帝はしばらくの間、手元の書物に目を落としたまま、視線すら動かさない。パサリ、と紙が擦れる音だけが、やけに大きく響く。
(……落ち着いて。私は、ここで私のやるべきことをやるんだから)
胸がバクバクと苦しいほどの音を立てるのを必死に抑え、梨乃は昨夜決意した「しっかりやってみせる」という言葉を、心の中で何度も呪文のように繰り返していた。
どれほどの時間が流れただろうか。
やがて、帝は静かに巻物を閉じると、脇の脇息にそれを置き、金の眼をゆっくりと梨乃へと向けた。
「面を上げよ」
昨日、あれほど耳に刻み込んだ、低く澄んだ声。
梨乃がゆっくりと顔を上げると、帝は品定めするような冷徹な眼差しのまま、ふっと薄い唇の端を上げた。
「酷い顔だな。……朕の宮が、それほど恐ろしいか」
からかうような、けれどこちらの動揺をすべて見透かしているような冷徹な言葉。
梨乃は一瞬びくりと身をすくめたが、膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、真っ直ぐに帝の『龍脈の加護の眼』を見上げた。昨夜、安明の去り際に交わした約束、そして「ここでしっかりやってみせる」という覚悟が、彼女の背中を支えていた。
「こ、怖いです……。でも、泣いたりはしません。私は、自分のやるべきことをしにここへ来ましたから」
「ふむ……」
帝はゆったりと脇息に身を預け、冷たい金色の双眸を細めた。
視る力を以て検分すれば、その装束の奥には、昨日と変わらず一片の澱みもない、圧倒的な『白光の気』が瑞々しく満ちている。
「安倍安明は、実に見事な弁舌で主たる朕を欺き、お前という至宝を隠匿しようとした。朕の眼を誤魔化せるとでも思ったか。……娘。朕を欺いてまで、あの陰陽頭がお前を囲っていた理由、誠の素性、そしてその身に秘めた力の引き出し方、すべて朕に話すがよい。これは検分だ。偽りは許さぬ」
低く、有無を言わせぬ帝の尋問。
藤原の当主をはじめ、宮中の人間であれば、己の命惜しさに安明を売り、自らの価値を必死にアピールする場面。しかし、梨乃の口から飛び出したのは、帝の予想を完全に裏切る必死の訴えだった。
「安明様は、私を隠そうとしたんじゃありません! わけのわからない私を、ただ……ただ親切に、護ってくださっていただけなんです!」
「……何?」
「あの光が出たのも、安明様が私を助けてくれて、そんな安明様が傷つけられそうになって私が勝手に暴走しただけで……安明様は、何も悪くありません! だから、安明様をお咎めなしにしてください! 私は何でもお答えしますから、お願いします……!」
不敬を承知で、涙を堪えながら必死に頭を畳に擦りつける梨乃。
(安明さんを、私のせいで罪人にしちゃ絶対にダメだ……!)
その姿を見下ろす帝の瞳に、鋭い驚きが走った。
己の身の安全や保身ではなく、真っ先に陰陽頭を庇う。それも、裏に何の野心も打算もない、ただただ恩人を護りたいという純真な一念で。
宮中の人間は誰もが、己の利益のために言葉を飾り、裏で刃を研いでいる。孤独な奥座に座り、そんな醜い人間の本質だけを視て生きてきた若き帝にとって、自分の地位に媚びることもせず、ただ真っ直ぐに涙を堪えて訴えかけてくる少女の存在は、あまりにも異質で、強烈な違和感だった。
「……己の身柄すら朕に握られている器の分際で、他人の心配か。変わった小娘だ。お前には、朕から少しでも多くの恩賞を引き出そうという欲は無いのか?」
「そんなのありません! 私はただ、安明様にこれ以上迷惑をかけたくないだけです!」
梨乃が再び顔を上げ、じっと帝を見つめ返す。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの、どこまでも純粋でまっすぐな光が宿っていた。
これまで「都の安泰のため」という理性の天秤だけで物事を測ってきた帝にとって、目の前の少女は、その天秤の目盛りを狂わせかねない、未知の深淵だった。
「……く、ふふ……」
長い静寂の後、帝の薄い唇が、ふっと小さく弧を描いた。
それは色恋の情などでは断じてなく、己の理解を超えた「妙な生き物」を前にした、統治者としての深い知的好奇心。そして、この冷徹な内裏で初めて味わう、剥き出しの面白さだった。
「主上……?」
「いや、気にするな。……梨乃、だったか」
初めて、その唇から自分の名が呼ばれ、梨乃はぱちくりと瞬きをした。昨日の公の場でも、帝にとって彼女はただの「異質な気を持つ道具」でししか無かったはず。それが今、はっきりと一個の人間として、その名が帝の記憶に刻まれた瞬間だった。
「一度の検分では、お前という『器』の底が未だ見えぬ。その異界の力、あるいはその妙な魂のありよう……神子として都の調和にどう用いるべきか、じっくりと測らねばならぬな」
帝は楽しげに目を細めると、梨乃に向かって、静かに、けれど逃れられぬ響きで命じた。
「明日も、明後日も、朕の前に来い。お前がその純真さでどこまで朕に答えられるか、何度でも、じっくりと検分してやろう」
「え……あ、はい……?」
戸惑う梨乃を他所に、帝は静かに胸の奥で、かつてない高鳴りを感じていた。ただの危険な道具のはずだった。けれど、この少女が紡ぐ言葉や気のありようは、張り詰めた内裏を生きる帝にとってあまりにも新鮮で、奇妙なほどに心を惹きつける。
(もっと見極めてみたい。この娘が、次は何を口にするのか――)
「この玩具をもっと知りたい」という、帝の冷徹で深い執着の、これが確かな第一歩であった。
冬の月に差す、未知の陽だまり
梨乃が内裏に召し上げられてから、数日が流れていた。
帝は梨乃を「検分」するという名目のもと、日に何度も彼女を清涼殿の側に呼び出し、異界の様子や彼女の持つ力について、淡々と問いを重ねていた。
最初、帝にとって梨乃は、都の平穏を揺るがしかねない「強大な力を持つ道具」であり、藤原の野心から引き離しておくべき、管理対象の「器」に過ぎなかった。しかし、数日間の「検分」を経て、帝の胸中には、ある奇妙な感覚が芽生え始めていた。
「――つまり、お前のいた世界には『呪』も『異形』も存在せぬと。では、お前たちは日々、何に怯え、何を拠り所に生きているのだ」
御簾を上げた清涼殿の奥。脇息にゆったりと身を預けた帝の冷ややかな問いかけに、梨乃は困ったように眉を下げて、けれど一生懸命に言葉を探していた。
「ええと……化け物は出ないんですけど、その代わり、明日のテストとか、お仕事の締め切りとか、そういう別のものに日々怯えてますね。拠り所は……そうですね、美味しいご飯を食べるとか、好きな音楽を聴くとか、友達とおしゃべりするとか。そういう、普通のことでみんな生きてます」
「……美味しい、ご飯、だと?」
帝はわずかに金の眼を細めた。
宮中の有象無象が、少しでも自分を高く売ろうと、あるいは帝に取り入ろうと、虚飾と欺瞞を凝らした報告をする中で、梨乃の口から飛び出すのは、拍子抜けするほどに平坦で、打算のない言葉ばかり。
己の持つ至上の価値を誇るでもなく、むしろ申し訳なさそうに「普通の人間」として、身振り手振りを交えて真っ直ぐに語る。その飾らない佇まいは、帝の目にあまりにも奇異に映っていた。
「不条理だな。怪異の脅威も持たぬ世界でありながら、そのような些末なことで心を砕くとは」
「些末じゃないですよ! 誰かと一緒に笑ったり、美味しいねって言い合ったりするのは、すっごく大事なことです!」
「――っ」
梨乃がふと声を弾ませて浮かべた、あまりにも無防備で、陽だまりのように温かい微笑み。
その瞬間、彼女の胸の奥で、白光の気がぽっと、春の陽気のように柔らかく爆ぜたのを帝の眼は捉えていた。それと同時に、帝自身の胸の奥が、トントンと静かに、けれど激しくノックされる。
今まで感じたことのない、ほんのりと胸の奥が熱くなるような、奇妙で面映ゆい感覚。
(……何だ、この妙な胸騒ぎは。ただの利用価値としての『器』のはずが……)
それが「ときめき」という感情の、本当に小さな、まだ芽吹いたばかりの種だということに、若き帝は気づく由もなかった。ただ、彼女の他愛のない微笑みが、冷徹な理性の天秤をほんの少しだけ狂わせたような気がして、帝は無自覚に動揺していた。
「……お前は、朕が怖くないのか? 一言命じれば、お前の首など簡単に飛ぶのだぞ」
これ以上調子を狂わされてはたまらないと、帝はあえて悪戯めいた冷徹さで、視線を鋭くして梨乃を脅すように見下ろした。
案の定、梨乃は一瞬びくりと身体をすくめたが、すぐにその綺麗な瞳で、真っ直ぐに帝を見つめ返す。
「そりゃ、最初は怖かったです。冷たい人だなって思いましたし……。でも、こうして毎日ちゃんとお話しを聞いてくださるから、今は、そんなに怖くないです。むしろ、なんだか……」
「なんだ?」
「いつもお仕事(政務)ばかりで、ちょっと大変そうだなって」
「――なっ」
帝は、今度こそ完全に言葉を失った。
不敬を通り越した、あまりにも無防備で、あまりにもまっすぐな人間味。己を「絶対者」として恐れ、敬う者しか周囲にいなかった自分を、ただの「大変そうな人」として視た女子など、歴史のどこを探してもいるはずがない。
帝の端正な顔が、驚きと、それから湧き上がるどうしようもない動揺に微かに染まる。よく見れば、突き放すような横顔の耳たぶが、ほんのりと朱に染まっているのを、梨乃はまだ気づいていなかった。
「……口が過ぎるぞ。下がれ、娘」
これ以上ここに居られては、己の『帝としての仮面』が崩れてしまう。帝は突き放すように冷たく言い放った。
「あ、はい! 失礼します!」
ぺこりと頭を下げて、小走りで下がっていく梨乃の、少しぎぎこちない後ろ姿。
彼女の気配が完全に消え、清涼殿にいつも通りの、深い、深い静寂が戻ってきたとき――帝は、脇息に深く身を預けたまま、ぽつりと呟いた。
「……梨乃、か」
誰もいない部屋で、初めて口の中で転がした、その少女の名前。
いつも通りであるはずの、冷え冷えとしたこの静寂を、帝がひどく退屈に、そしてどこか物寂しく感じ始めていることに、やはり本人は気づかぬままであった。
(……あのような無防備な顔を、他者の前でも浮かべるのだろうか。例えば――あの陰陽頭の前でも)
脳裏をよぎった不快な雑音を振り払うように、帝はふっと目を伏せた。
「もっとこの娘を視ていたい」という、帝の冷徹な知的好奇心が、静かに、けれど確実に、執着という名の歪んだ色を帯び始めた瞬間だった。




