誓約
檻の中の誓いと、小さな灯火
内裏の夜は、安倍邸で過ごしたそれとはまるで異なっていた。
昼間の喧騒と、公卿たちの張り詰めた視線が嘘のように、夜の清涼殿の一角は深い、深い静寂に沈んでいた。壁がなく、御簾や帳だけで仕切られた見知らぬ部屋。灯明の火影がゆらゆらと畳を照らす中、梨乃は膝を抱え、自身の心臓の音を耳の奥に聞きながら、ただじっと座していた。
(本当に……一人になっちゃったんだ)
その瞬間、昼間はずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、凄まじい孤独感が梨乃を襲った。
ここには味方は誰もいない。自分の持つよく分からない『力』のせいが原因で、化け物か、さもなくば便利な道具のように扱われ、得体の知れない貴族たちからはギラギラした欲望の視線を向けられる。現代から突然迷い込み、右も左もわからないまま、圧倒的な権力者である帝の手に囚われてしまった。
「……っ」
急に込み上げてきた恐怖に、視界が涙でぶわっと滲む。声を上げて泣き出してしまいそうな喉の奥を、梨乃は必死に手で押さえ込んだ。ここで泣いて取り乱せば、それこそ「異界の怪しい娘」としてどう扱われるか分からないからだ。
冷え冷えとした孤独の暗闇に、押し潰されそうになっていた、その時。
頭の奥に、昼間、去り際に交わした安明との『一瞬の視線』が鮮烈によみがえった。
――『……少しの間だ。大人しく気配を潜め、辛抱しろ。必ず、私がお前をここから奪い返す』――
あの漆黒の瞳の奥にあった、冷徹な仮面の下に隠された熱い誓い。
言葉を交わすことすら許されなかったあの短い刹那、安明は確かに、命に代えても梨乃を護るとその眼差しで伝えてくれた。
(そうだ……安明様は、私を諦めてなんかいない。必ず助けに来てくれる)
滲んでいた涙を、梨乃は着物の袖でぐっと力強く拭った。
不思議なことに、彼の強い瞳を思い出すだけで、凍りつきそうだった胸の奥に、確かな温もりが灯っていくのが分かった。
(ううん、泣いちゃダメ。安明様が外で必死に戦ってくれているなら、私はここで、私にできることをしっかりやってみせる。ただ怯えて流されるだけの、操り人形には絶対にならない……!)
膝の上で、袴の生地を破れんばかりにぎゅっと握りしめる。
宮中の作法も、この世界の政治も何もわからない。けれど、どんなに怖くても、明日からの「検分」という戦いに真っ直ぐ立ち向かう。安明の信じた自分を、自分自身が裏切らないために。
震える呼吸を何度も深く繰り返すうちに、梨乃の綺麗な瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの小さな、けれど確かな覚悟の火が灯っていた。
パチ、と灯明の芯が爆ぜる音が、静かな部屋に小さく響く。
未知の檻のような宮中で、自分の意志で前を向こうと決意した初日の夜。
この凛とした彼女の覚悟が、明日、冷徹な帝の心を大きく揺るがすことになるのを、梨乃はまだ知る由もなかった。
昏き盤面への最初の一手
同じ頃、内裏の喧騒から遠く離れた安倍邸。
夜の静寂に包まれた安明の書斎では、灯明の微かな火影だけが、机の上に広げられた都の龍脈を表す地図と、宮中の勢力図を照らし出していた。
安明は、冷徹な貌で静かに筆を走らせている。その一挙手一投足には焦燥も怒りもなく、ただ完璧な官吏としての冷徹さと、張り詰めた知性が宿っていた。
(少しの間だ。大人しく気配を潜め、辛抱しろ。必ず、私がお前をここから奪い返す)
昼間、清涼殿の去り際に梨乃と交わした視線。
言葉を交わすことすら許されぬ一瞬の交錯の中で、彼女が心の中で紡いだ『がんばりますね』という健気な決意が、今も安明の胸の奥底を静かに、けれど確かに揺り動かしていた。
だが、安明は感情に任せて内裏へ斬り込むような無策な真似は絶対にしない。最強の陰陽頭たる彼の戦い方は、どこまでも理詰めで、冷徹だった。
「……力ずくで奪えば、それはただの謀反であり、藤原の思う壺。梨乃を真に自由にするためには、帝自らに『彼女を手放さざるを得ない』と言わしめる盤面を作らねばならぬ」
安明の狙いは、己の手を一切汚さず、誰からも一切の不条理を咎められない「圧倒的な正当性」を構築すること。
そのために安明は、内裏に潜ませた自らの情報網を動かし、明日から始まるであろう帝による梨乃の「検分」の動向、そしてそれを取り巻く藤原の出方を完全に監視する手筈を整えていた。
今はまだ、藤原も帝がどう動くか静観している段階。ならば、まずは敵が欲に駆られて動き出すための隙を、これから数日をかけてじっくりと観察し、見極めればいい。
(藤原の当主なら、いずれ必ずあの強大な力を欲し、主上を揺さぶるための大義名分をひねり出そうとするはずだ。……その野心こそが、奴らを破滅させる最大の罠となる)
安明は再び文机へと視線を落とすと、直衣の袖を軽く払って、白く冷たい筆先を静かに進め始めた。
いずれ藤原を完全なる破滅へと導くことになる、誰にも気づかれぬほど深く静かな布石が、この初日の夜から、闇の中で淡々と、冷徹に打ち続けられようとしていた。




