黄金
始まりの決意
その夜、安倍邸の奥座敷に漂う空気は、重く冷たく沈み込んでいた。
灯されたばかりの灯籠の火が、安明の端正な横顔を淡く照らしている。いつもならば冷徹なまでに揺るがないその双眸は、今、見たこともないほど神妙な光を宿し、じっと梨乃を見つめていた。
「――主上より、直々の勅命が下った」
安明の低く張り詰めた声が、静かな部屋に響く。
「三日後、お前を連れて内裏へ参内せよ、とな。……藤原の執拗な働きかけもあったのだろう。もはや、お前の存在をこの邸の結界の中に隠し通すことは叶わぬところまで来ている」
「内裏……、帝の、いらっしゃる場所……」
梨乃は思わず、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
頭の中に、かつてないほどの巨大な不安が渦を巻いて押し寄せてくる。
現代からこの見知らぬ世界へ突然迷い込み、右も左も分からなかった自分。そんな私が、この国を統べる絶対的な存在の元へ行く。それがどれほど恐ろしいことか、容易に想像がついた。
(もし、そこへ行ってしまったら、私はどうなるの……?)
得体の知れない場所へ連れて行かれ、化け物のように扱われるかもしれない。あるいは、二度とここへは戻れなくなってしまうかもしれない。
恐怖で足がすくみ、心臓が嫌な音を立てて波打つ。今すぐにでも、子供のように首を振って拒絶してしまいたかった。
(『行きたくない』って……言ったら、どうなるんだろう?)
そんな弱音が喉元まで出かかった瞬間、梨乃は目の前の安明を見た。
安明は、稀代の天才陰陽師であり、朝廷に仕える陰陽頭という重い立場にある身だ。もし、梨乃がここで「嫌だ」と泣き叫んだら、彼はどうするだろう。
冷徹な『陰陽頭』として、立場を守るために私を無理やり引きずってでも内裏へ連れて行くだろうか。
――いや、もしかしたら。
口では意地悪なことを言いながらも、彼は陰陽頭としての立場をすべて放り出し、この都を離れることだって選ぶかもしれない。絶対に国を捨てるとまでは言い切れなくても、今の安明なら、そんな無茶な可能性すら否定できない気がした。
この邸に連れてこられてから、安明は梨乃を強力な結界の中に匿い、外の危険からずっと守ってくれた。
普段は皮肉屋で、冷たい言葉ばかりを投げかけてくるけれど、梨乃が不安に震えているときに差し伸べられるその手は、いつも驚くほど優しかった。言葉の裏にある不器用な労わりを、梨乃はちゃんと肌で感じていたのだ。
(そんな安明さんに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない)
自分のわがままで、彼の立場を悪くし、傷つけるようなことだけは絶対に避けたかった。
お世話になった、大切な安明のために、今度は自分が強くなる番だ。
「……梨乃?」
沈黙する梨乃を心配そうに見つめる、安明の細められた漆黒の瞳。その瞳の奥にある揺らぎを視た瞬間、梨乃の中で、不安や恐怖がすうっと消え去り、一つの確固たる答えが形を成した。
梨乃は深く息を吸い込み、震えそうになる膝をぐっと押さえて、真っ直ぐに安明を見つめ返した。
「私、内裏に行きます」
梨乃がその決意を告げた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。安明はゆっくりと視線を梨乃に戻し、細めた瞳で彼女を射抜くように見つめる。
「……何を言うかと思えば。内裏がどれほどの場所か、理解しての言葉か?」
「分かってます。でも、安明さんが必死に私を隠そうとして、そのせいで立場が悪くなったり、誰かに傷つけられたりするのは……もっと嫌です」
梨乃は、安明が掴んでいた自分の手を、今度は自分からそっと握り返した。安明の指先がわずかに震え、梨乃はその温度から、彼が抱えている重圧の大きさを改めて悟る。
「私、ただ守られるだけの居候じゃない。……安明さんが私を必要としてくれたように、今度は私が、安明さんの力になりたいんです。たとえ帝の前であっても、私にできることがきっとあるはずだから」
その言葉には、ただの甘えや無知による無鉄砲さはなかった。かつて、自分を守るために自らの魂を削り、巨大な光を放ったあの時のような、静かで揺るぎない覚悟が宿っている。
安明は、目の前の少女がまるで遠い存在になっていくような奇妙な感覚に襲われ、思わずその腕を強く引き寄せた。梨乃の華奢な肩が彼の胸に重なる。
「……お前という奴は。本当に、救いようのない羽虫だ」
安明の声は低く、どこか自嘲めいていた。だが、抱きしめるその腕には、二度と誰にもこの存在を奪わせないという、執拗なまでの執着が籠もっている。
「ならば、私の傍から一瞬たりとも離れるな。……私が一歩歩けば、お前も一歩歩け。私が言葉を紡げば、お前は私の影となれ。……それが出来るというのなら、内裏へ連れて行ってやる」
それは、命令であり、同時に安明なりの最大限の守護の約束だった。
「はい。……ずっと、隣にいます」
梨乃の真っ直ぐな返答に、安明は深い溜息を吐き出す。
天才陰陽師として、冷徹に盤面を支配してきた彼が、たった一人の少女の無垢な覚悟に翻弄されている。その滑稽さと、どうしようもなく込み上げる愛しさに、安明はそっと梨乃の髪に顔を埋めた。
(三日後……。その日が、私とこの娘の運命を決定づける夜になるのか)
安明の瞳の奥で、静かな、しかし確固たる闘志の炎が灯る。
帝さえも利用し、藤原の当主を出し抜き、この国の理そのものを書き換えてやる。
最愛のものを守るため、最強の陰陽師の「策」は、ここから加速していく。
そして、運命の参内の日が訪れた。
内裏。
宮中の作法に従い、美しく贅を尽くした着物に身を包まれてはいるものの、周囲の女房や公卿たちの冷ややかな、そして好奇に満ちた視線が容赦なく突き刺さる。ここが魑魅魍魎の蠢く最高峰の戦場なのだと肌で感じ、梨乃の心臓はバクバクと壊れたように高鳴っていた。
案内されたのは、内裏の最奥――帝の日常の政務の場であり、私的な聖域でもある、清涼殿。
そこを満たす空気は、結界に守られた安倍邸のそれとは全く異なっていた。数百年積み重ねられてきた国家の威厳と、立ち入る者の息の根を止めるかのような、圧倒的な静寂。
梨乃の斜め前には、一分の隙もない公服を纏った安明が控えている。表情を完全に消し去り、ただの「冷徹な臣下」になりきっている彼の横顔。けれど、微動だにせずそこに在る彼の存在だけが、張り裂けそうな梨乃の心を辛うじて繋ぎ止める、唯一の拠り所だった。
「――主上の御前である。控えよ」
厳かな先導の声が静寂を切り裂き、梨乃は青畳の上に深く、深く頭を垂れた。
ひんやりとした畳の感触が額に伝わる中、その視線の先――幾重にも重ねられた重厚な御簾の向こう側に、この国の絶対者である帝の気配があった。
おそるおそる気配を探る梨乃の肌に、御簾の奥から突き刺さるような、鋭い視線が注がれる。
それは、藤原の当主が向けてきたような下俗な「欲」の目ではなかった。この国を統べる者として、目の前の存在が国に利を成すものか、あるいは害を成す紛い物か――ただただ冷徹に、客観的に見極めようとする、刃のような「精査する目」。
その時、御簾の奥で、帝の切れ上がった双眸が、龍脈の加護によって神々しく、金色に揺らめいた。
帝の眼に、その光景が『視え』た瞬間――。
清涼殿の薄暗がりを塗り替えるように、梨乃の装束の奥から、この世のものとは思えないほどに純粋で、清らかな『白光の気』の奔流が溢れ出した。
かつて安明の身に纏わりついていた、あの微かな残滓の本物が、今、目の前で眩いばかりの輝きを放っている。
(視える……。一片の澱みもない、清き気が……)
帝の胸に、かつてない衝撃が走った。
己の心を縛り付ける重苦しい政務も、藤原との果てしない権力闘争も、その光の前ではすべてが塵のように思えるほどの、圧倒的な浄化の光。
(安明が、命を賭してまで我が手から隠そうとした理由が、これか……)
御簾の向こうで、若き帝は息を呑み、己の運命を狂わせる出逢いを確信していた。
「……面を上げよ」
御簾の奥から響いてきたのは、低く、どこまでも澄んだ、圧倒的な威厳を持つ声だった。
その声の響きだけで、清涼殿を満たす霊気がピリリと震え、平伏する身体を金縛りのように縫い止める。それが、この国を統べる絶対的な帝の力。
梨乃はごくりと息を呑み、圧に抗うようにして、ゆっくりと顔を上げた。
幾重にも重なる御簾の隙間、薄暗い奥座に座す帝の姿が、微かに梨乃の視界に映り込む。
それは端正にして、残酷なほどに冷徹な輪郭。
背後に控える安明の放つ、すべてを計算し尽くした静謐な「理」の気配とは全く違う――まるで、冬の夜空に高く気高く昇った、誰の手にも届かない冷たい孤独な月。触れれば凍てついてしまいそうな、圧倒的な高貴さがそこにあった。
(この人が、帝……。主上……。この国で、一番高いところにいる人……)
梨乃は、そのあまりの存在感に全身の血がすくむような衝撃を覚えながらも、奥歯を噛み締めた。
(ここで私が目を逸らしたら、安明様が責められるかもしれない――)
その一心だけで、梨乃は決して視線を落とすることなく、真っ直ぐに御簾の奥の威光を受け止めたのだ。
その、恐怖に怯えぬ純粋な双眸と視線が交わった瞬間、御簾の奥の気配が、微かに揺らいだ。
「お前が、安倍安明の護りし『異界の器』か」
声音に、冷徹な精査だけではない、ほんの僅かな、かすかな興味の色が混じる。
「……なるほど。その眼、その佇まい。この都の女人とは、随分と毛色が違うようだな」
向けられた言葉の重みに、清涼殿の空気がさらに一段と張り詰めていく。二人の運命の歯車が、静かに、けれど確実に回り始めた瞬間だった。
「異界の器というから、如何なる化け物かと思えば……。案外、か弱く御しやすそうな小娘ではないか。本当に、こやつがあの天を衝く光の柱を呼んだというのか?」
梨乃を値踏みするように見下ろすのは、藤原の当主。その瞳には、彼女の力を我が家の繁栄のために囲い込み、利用してやろうという剥き出しの「欲」が渦巻いていました。当主はすぐさま、御簾の奥へ向かって恭しく声を張り上げる。
「主上、このような素性の知れぬ者を、帝の御近くに置くなど滅相もございません! 都の治安を揺るがす恐れもございます。ここは是非、我が藤原の手で厳重に管理し、その怪しき力を精査すべきかと――」
「……控えよ、藤原」
遮るように御簾の奥から響いたのは、冷徹極まりない、絶対的な拒絶の声色だった。
「は、しかし主上……!」
「朕が良いと言っているのだ。下がりおれ」
有無を言わせぬ王の威圧に、藤原の当主は屈辱に顔を歪めながらも、それ以上言葉を続けることはできなかった。
衣の擦れる贅沢な音が近づきます。梨乃は再び頭を垂れた。すると、すうっ、と美しい手が内側から御簾を押し上げた。
薄暗がりの境界が取り払われ、ついに帝がその端正な素顔を梨乃の前に現す。
衣の擦れる贅沢な音が近づく。梨乃は圧倒的な威圧感に、再び深く頭を垂れた。
「……面を上げよ、娘」
低く、有無を言わせぬ声。
言われるがままに梨乃がゆっくりと顔を上げると――激しい衝撃が彼女を貫いた。
そこにいたのは、この世のものとは思えないほど高貴な、しかし、すべてを見透かすような冷たい双眸。冬の月そのものの美しさを湛えたその切れ上がった瞳の奥で、龍脈の加護を示す「金色」が怪しく、深く、吸い込まれそうなほどに揺らめいている。
真っ直ぐに視線を交わした瞬間、帝の胸の奥にも、微かな、けれど確かな波紋が広がっていた。
これまで己の周囲をうごめいていた、藤原をはじめとする有象無象の醜い野心。それらとは根本から異なる、どこまでも純粋で、一片の澱みもないまっすぐな瞳。
(ただの利用価値としての『器』かと思ったが……。なるほど、面白い)
ひやりとした冷たい感触が、梨乃の顎に触れた。
帝が白く滑らかな象牙の笏の先端で、梨乃の顎をぐい、と強引に持ち上げたのだ。
「っ……」
至近距離で、すべてを見透かすような冷たい双眸と視線が交差する。
国をも揺るがしかねない強大な『異界の道具』を、統治者として冷徹に品定めする、剥き出しの検分。帝は、笏を伝う梨乃の微かな震えと、その奥から溢れ出す澱みない『白光の気』の奔流を、その金の眼で静かに見極めていく。
「名は何という」
帝の問いかけに、梨乃は圧に押し潰されそうになりながらも、奥歯を噛み締めて答えた。
「っ……梨乃、と申します」
「梨乃、か……」
帝の冷徹な精査の奥に、深い興味の色が灯った瞬間だった。これまで視てきた京のどんな人間とも違う、その妙な佇まいと魂の性質。
帝は視線を梨乃に留めたまま、今度はその背後で深く平伏している男へと、低く声を掛けた。
「安倍安明」
「――は」
「この娘の身柄、確かに朕が預かる。都の調和のためにその異質な気をどう用いるか、じっくりと見極めさせてもらおう。……お前は下がれ」
「――御意」
一段下がった畳の上、ずっと深く平伏していた安明が、静かに身体を起こした。
一分の隙もない、完璧な臣下としての所作で立ち上がり――その去り際、きびを返して御簾の向こうへと退く直前の、ほんの一瞬。
上座の帝を見じろぎもせず見据える梨乃の瞳と、安明の漆黒の瞳が、火花が散るように交差した。
公卿たちの目が光る内裏の中、言葉を交わすことなど、指一本触れることさえ許されない。けれど、二人の間には、どんな言葉よりも確かな意思が通い合っていた。
(……少しの間だ。大人しく気配を潜め、辛抱しろ。必ず、私がお前をここから奪い返す)
その漆黒の瞳の奥にある、冷徹な仮面の下に隠された熱い誓い。それを視線だけでしっかりと受け止めた梨乃は、周囲には決して気づかれないほど微かに、小さく頷いた。そして、心の中で静かに言葉を返した。
(はい。信じて、待っています……安明さん)
安明は静かに身を翻し、昼御座を仕切る障子の陰へと、迷いのない足取りで消えていった。
その背中が隠れた瞬間、帝は梨乃の顎からゆっくりと笏を離す。
帝の鋭い視線が、未だに悔しげに息を荒げている藤原の当主をはじめ、好奇と欲に目をぎらつかせる公卿たちへと向けられた。
全空気を一瞬で凍りつかせるような威圧の気配と共に、絶対的な王の宣告が響き渡る。
「――皆もよう聞け。こやつの身柄は朕が預かり、検分しよう。その利用価値が定まるまで、何人たりとも手出しをすることは許さぬ。……異論はあるか」
低く響くその言葉に、藤原の当主はピクリと肩を震わせ、今度こそ完全に言葉を失って深く深く頭を垂れた。居並ぶ貴族たちも、帝の放つ圧倒的な威厳の前に、ただ息を殺して平伏するしかなかった。
――しんと静まり返った清涼殿。
誰もが額を畳に擦りつけ、衣の擦れる音一つ立てない圧倒的な静寂の中。
安明が去っていった遥か遠くの廊下から、板敷きを滑る絹の擦れる音が、かすかに、けれど確かに梨乃の耳に届いていた。
やがて、すうっ……と木と木が重なる引き戸の、微かな音が響き――彼の気配が、完全に途絶える。
(本当に……一人になっちゃったんだ)
その瞬間、心臓を冷たい手でぎゅっと掴まれたような、凄まじい孤独感が梨乃を襲った。
味方は誰もいない。自分の放つ「気」のせいで、化け物か、さもなくば便利な道具のように扱われ、得体の知れない貴族たちからはギラギラした欲望の視線を向けられている。恐怖で、今すぐ大声で泣き出してしまいそうだった。
けれど、梨乃は膝の上で、袴の生地を破れんばかりにぎゅっと握りしめた。
(ううん、泣いちゃダメ。安明さんは必ず私を奪い返すって言ってくれた。それなら、私はここで、私にできることをしっかりやってみせる……!)
震える呼吸を必死に整え、不安を気合いでねじ伏せるように背筋をわずかに伸ばす。どんなに怖くても、ただ怯えて流されるだけの操り人形にはならない。そんな小さな、けれど確かな決意が、彼女のまっすぐな瞳に再び灯った。
そんな梨乃の微かな変化を見逃すはずもなく。
すぐ目の前に立つ孤独な頂――帝は、彼女の小さな肩の震えが止まり、その瞳に静かな光が宿るのを、冷徹な金の眼で見下ろしていた。
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