戦場
内裏の奥深くに位置し、厳重な警備が敷かれた清涼殿。
普段であれば、限られた高貴な者しか立ち入ることの許されないその場所へ、安明は足を踏み入れた。
一歩進むごとに空気が張り詰め、肌を刺すような緊張感が漂う。
(……ほう。当主だけでは飽き足らず、主上みずからお出ましとはな)
安明は表情一つ変えず、淡々と歩を進めながら内心で冷ややかに唇の端を上げた。
殿上には、どっしりと威厳を放つ藤原の当主。そして御簾の奥、昼御座には、普段はめったに臣下の前に姿を見せない若き帝の、神々しい影があった。昨夜、都を白光で塗りつぶしたあの「光の柱」が、どれほど国家を揺るがす事態であるか、この空気だけで肌に伝わってくる。
安明は、これ以上ないほど優雅な所作で平伏し、拝礼した。
「……陰陽頭、安倍安明。召し出しに応じ、参上つかまつりました」
その声は、今朝、邸で梨乃に見せた優しさなど欠片もない。冷徹な氷のように静かで、一切の隙がなかった。
「昨夜の天変……あれは、お前の仕業か、安明」
藤原の当主が、射抜くような鋭い視線で問いかける。その声音には、隠しきれない独占欲と焦燥が混じっていた。
安明は伏したまま、切れ上がった瞳の奥で冷徹に思考を巡らせ、淀みない口調で答えた。
「……天の理にございます。朱雀門の結界の綻びより生じた龍脈の淀みを払うため、古の秘術を執り行いました。都の平穏のためなれば、我が身の命数を削ることも惜しむところではございませぬ」
嘘ではない。梨乃という存在を完全に隠蔽しつつ、昨夜の現象を「国を守るための禁忌の儀式」へとすり替える、天才陰陽師による言葉の魔術であった。この言い回しであれば、当主に対して「命を削るほどの秘術ゆえ、容易に再現はできない」という牽制にもなる。
しかし、その時、御簾の向こうで衣擦れの音が微かに響いた。
帝が、ほんのわずかに身を乗り出されたのだ。その一動だけで、清涼殿の空気が一瞬にして凍りつき、居並ぶ公卿たちが一斉に息を呑む。
「秘術、か」
鈴を転がすような、けれど逆らう者をすべて平伏させるような崇高な声音が響く。
「安明。……朕の目は欺けぬぞ。あれは古の術などという枠に収まるものではなかった。もっと……遥か遠き地より響くような、見たこともない異質な『気』であったが?」
一を訊ねて十の真実を見抜くような、帝の絶対的な直感。その神聖な一言に、殿上の緊張感は極限に達した。
ここからは、梨乃の身を守るための、一歩も引けない「戦場の間」。
安明の指先が、狩衣の袖の中で密かに、けれど強固に印を結び、全身の霊力を研ぎ澄ませた。帝の放つ至高の威圧感に対峙しながらも、その心裏には、邸で待つあの愛しい娘の笑顔だけがあった。
「……畏れながら、主上。そのお言葉こそが、天の啓示にございます」
安明はゆっくりと顔を上げ、帝の御簾を見据えた。彼の天才的な頭脳は、帝の鋭い追及さえも逆手に取り、梨乃を聖域へと囲い込むための最善の「欺瞞」を瞬時に構築し始めていた。
「……天の啓示、とはどういうことだ、安明」
藤原の当主が、焦れたように身を乗り出して問いかける。安明は玉座の前に向けた視線を外さぬまま、静かに声を紡いだ。
「昨夜の光は、私が呼び出したものではございませぬ。都の龍脈が限界を迎えた刹那、異界の神域より、一時的に流れ込んだ『尊き気』を、我が術によってかろうじて引き連れ、朱雀の門へ注ぎ込んだもの。主上のお見通しの通り、あれはこの世の理を超えた力にございます」
己の術ではなく、偶発的な「異界の現象」であったとすり替える。そうすれば、力の源泉である梨乃へ辿り着く道を完全に閉ざせるはずだった。
しかし、御簾の向こうの若き帝は、安明の精緻な嘘を、まるですべて見透かしているかのように、低く静かに笑われた。
「……見事な弁明だな、安明」
その一言で、清涼殿の空気が一気に重さを増す。
「だが、神域の気というものは、元来この地の陰陽を調和させるもの。昨夜の光は、都の穢れを払うと同時に、内裏の結界そのものを根底から塗り替えてみせた。……安明、あれは『迷い込んだ気』などという受動的なものではない。明確な意思を持ち、お前を、あるいはこの都を護ろうとした者が放った『生きた力』だ。そして、その力の始まりの糸は、お前の邸から伸びている」
一を訊ねて十の真実を見抜くような、帝の絶対的な直感。いかに天才陰陽師といえど、この国の「現人神」たる帝が感知した霊的な真理までは欺ききれなかった。
藤原の当主の目が、ぎらりと狂気的な野心に輝く。
「主上、それは真にございますか! 安明、お前、よもや都を揺るがすほどの『異界の器』を、私邸に囲い込んでいたのではあるまいな!」
「滅相もないことにございます。あれはただの居候――」
「苦苦しいぞ、安明」
帝の冷徹な一言が、安明の言葉を完全に叩き切った。都を一夜にして救うほどの存在を、一介の臣下が私物化することは許されない。それが神の申し子か、あるいは国を滅ぼす妖物か、帝みずからが見極めるという意志は揺るがなかった。
御簾の向こうから放たれる、絶対的な『勅命』の重圧。
「三日後の朝、その《器》を伴い、内裏へ参内せよ。……これは、この国の主としての命令である」
「…………っ」
安明は静かに両手を突き、深く頭を垂れた。
その顔は完璧な冷徹さを保ったままであり、眉一つ動いてはいない。稀代の陰陽師としての仮面は、この圧倒的な屈辱の前でも決して剥がれることはなかった。
しかし、その心裏は、かつてないほどの鋭い冷徹さで回転を始めていた。
(護りきれなかったのではない。……盤面が動いたのだ)
悔しさはある。だが、感情に身を任せて帝の言葉を拒絶すれば、謀反人として梨乃共々、国中から追われる身となる。そうなれば、彼女を穏やかに守ることなど、到底不可能になってしまう。
安明の瞳の奥には、帝への畏怖を遥かに凌駕する、昏く、容赦のない「算盤」が弾き出されていた。
内裏という、魑魅魍魎が蠢く最高峰の戦場。そこへあえて梨乃を連れて行くというのであれば、こちらも相応の準備をするまで。藤原の当主の野心をどう逆手に取るか、帝の好奇心をどう煙に巻くか。三日という猶予の中で、内裏の権力構造そのものをひっくり返すための策略を、安明の天才的な頭脳は瞬時に構築し始めていた。
「……御意。主上の仰せのままに」
澱みのない、静かな声で奉答しながら、安明は心の中で深く冷ややかに微笑む。
(よかろう。望み通り内裏へ連れて行く。だが……あの娘を我が手から奪えると思うなよ。この都のすべての権力を敵に回そうと、最後に勝つのは私だ)
完璧な臣下としての礼を尽くしたまま、安明の胸中には、愛しい居候を絶対に手放さないという、狂おしいほどの執念と次なる策略の炎が、静かに、けれど苛烈に燃え上がっていた。




