朝日
凪の朝日
「んん……」
差し込む柔らかな朝の光に、梨乃はゆっくりと瞬きをした。
視界に映ったのは、この半月ほどの間にすっかり見慣れた、安倍邸の天井。
(私……生きてる……。夢じゃ、なかったんだ。ちゃんと、あの冷たい闇から帰ってこられたんだ……)
まだ少しだけ頭はぼんやりとしていたが、身体を包む布団の温もりと、漂ってくる上品な香の匂いに、心の底からホッとした安堵が広がっていく。
そんな梨乃の小さな呟きを拾うように。
「――目が覚めたか」
すぐ枕元から、聞き慣れた、けれどいつもよりずっと低い声が響いた。
ハッとして視線を巡らせると、そこには寝台のすぐ傍らに座り、一晩中寄り添っていたのだろうか、少しだけ着崩した着物姿の安明がいた。いつもの意地悪な調子は潜められ、その切れ上がった瞳には、隠しきれないほどの安堵と、不器用な優しさが滲み出ている。
「安明、さん……っ。無事、だったんだ……。良かったぁ……っ」
自分のことよりもまず、背後から襲われそうになっていた安明の身を案じ、梨乃はへにゃりと安心した笑みを浮かべた。そんな梨乃の様子に、安明は呆れたようにふっと息を漏らすと、大きな手のひらで梨乃の額をそっと覆った。
「……馬鹿者。それはこちらのセリフだ」
「え……?」
「お前が背後を気に病む必要など、最初からなかったのだ。私が、あの程度の羽虫に遅れをとると思うか? ……それなのに、あんな悲鳴を上げて、身の内の力を全て爆ぜさせるなど。……本当に、どこまで無茶をすれば気が済む」
口では「馬鹿者」と叱りながらも、額に触れる安明の指先は、まるで割れ物に触れるかのように酷く繊細で、震えるほどに優しく梨乃の髪を撫でていた。
「だって……安明さんが刺されちゃうと思って。私、安明さんが傷つくの、絶対に嫌だったから……」
梨乃が布団の中から真っ直ぐに安明を見つめてそう言うと、安明は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。そして、じわじわと耳の裏を赤く染めながら、片手で顔を覆い――。
「……っ、全くお前というやつは。……そのような顔で、そのような台詞を、自覚なしに吐く。やはり、一生この邸から一歩も出さず、私の腕の中だけで飼い殺しにするのが正解のようだな」
「ええっ!? なんでそうなるの!?」
「私の心がそのように決めたからだ」
いつもの不敵で強引な安明に戻って、梨乃は「もうっ!」と頬を膨らませる。けれど、安明が梨乃の手を布団の上からそっと包み込んだその手の温もりは、昨夜、梨乃を失いかけた彼の恐怖と、絶対に離さないという強い執着を、何よりも雄弁に物語っているのだった。
「梨乃様、お目覚めになられたのですね……っ! 本当に良かった……!」
お部屋の空気が少しだけ甘く煮詰まりかけたその時、御簾の外から涙声の女房が、折敷を抱えて入ってきた。
運ばれてきたのは、炊きたての湯気がふんわりと立ち上る、温かい重粥である。
「昨夜は生きた心地がいたしませんでしたわ。さあ、少しでもお腹に入れて体力を戻してくださいませね」
「ありがとうございます……。わあ、すっごく美味しそう」
木の匙で粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて口に運ぶ。出汁の優しい味が五臓六腑にじわぁっと染み渡り、梨乃は「はぁ……」と思わず幸せなため息を漏らした。
安明は、そんな梨乃がちんまりと粥を食す姿を、すぐ傍らで静かに見つめていた。
その眼差しは、先ほどまでの激しい独占欲を優しく包み隠すような、深くて温かいものであった。
けれど、梨乃が器を空にするのを見届けると、安明はふっと表情を変えた。
宿っていた甘い余韻が綺麗に削ぎ落され、その顔には冷徹な、そしてどこか覚悟を決めたような厳しい貌が戻る。
「……梨乃。私は、これから内裏へ行ってくる」
安明は静かに、けれどまるでこれから戦場へ赴くかのような、神妙な面持ちで立ち上がった。
「え……? でも、まだ朝早いのに、お体は大丈夫なんですか?」
「私の心配は要らん。……昨夜、お前が放ったあの光だ。都中がひっくり返るほどの騒ぎになっていてな。当然、上から勅命が下った。藤原の当主も、今頃は目を血走らせて私を待っているだろう」
国家の最高権力者たちが、梨乃の持つ「神のごとき力」を我が物にしようと、虎視眈々と網を広げて待っている。
安明はその魑魅魍魎が蠢く渦中へ、たった一人で乗り込み、梨乃を煙に巻いて守り抜くつもりなのだ。
その張り詰めた空気を感じ取った梨乃は、無意識のうちに布団の中から身を乗り出し、ぎゅっと安明の白い狩衣の裾を掴んでいた。
(行かないで、とは言えない。でも……私のせいで、安明さんがまた大変な目に遭うのは嫌だ……!)
不安そうに自分を見上げる梨乃の瞳。
安明は一瞬だけ、その切れ上がった目を切なげに揺らしたが、すぐにいつもの不敵な、絶対の自信を孕んだ微笑みを唇に浮かべた。
安明は身を屈めると、裾を掴む梨乃の小さな手をそっと包み込んで離し、そのまま彼女の頭を愛おしそうに、優しく撫でた。
「案ずるな。言ったはずだ、お前を誰にも渡しはしないと。……大人しく粥を食べて、私の帰りを待っていろ。……行ってくる」
梨乃を完全に安心させるような、低く力強い声。
安明はそれだけ言い残すと、長い黒髪と狩衣の袖を美しく翻し、毅然とした足取りで部屋を去っていった。
残された梨乃は、彼の温もりが残る頭をそっと手で押さえながら、どうか無事で帰ってきてほしいと、祈るような気持ちで見送るしかなかった。




