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初めての文·前編
安明が陰陽寮へと出仕し、静まり返った昼下がりの安倍邸。
梨乃は自分の部屋の文机の前に座り、うう、と小さく唸りながら頭を抱えていた。
いよいよ、安明との約束である「最初の一通」を書き上げる時が来たのだ。
覚悟を決めて座ったものの、何から書けばいいのか分からず、梨乃の視線は机の上を彷徨う。そこには、いつでもどうぞ!と道具たちから声が聞こえてくるのではないかと思うほど、完璧なお手紙セットが並べられていた。
磨りやすそうな滑らかな硯、梨乃の小さな手にも馴染むよう選ばれた上質な筆、そして、優しく上品な風合いの真っ白な和紙――。
すべて、安明が梨乃のために、これ以上ないほど丁寧な品揃えで整えておいてくれたものだった。
(道具はこんなに完璧なのに、中身が思いつかない……!)
梨乃はまだ何も書かれていない和紙をじっと見つめた。
千仁様への返事を書くため、あるいは安明の絵巻を読むために始めた手習い。けれど、こうしてお道具を前にすると、自分に文字を教えてくれたあの大きくて冷たい手の温もりや、不器用ながらも優しかった安明の眼差しばかりが頭に浮かんでしまう。
都の貴族たちが書くような、季節の移ろいを華やかに添えた和歌なんて書けないけれど、背伸びをした借り物の言葉ではなく、自分の心にあるものを真っ直ぐに届けたい。
「……よし」
梨乃はぽんぽんと自分の両頬を叩いて気合いを入れると、ゆっくりと墨を磨り始めた。
すっと部屋に広がる、どこか心が落ち着く墨の香り。
筆をそっと手に取り、たっぷりとした黒を馴染ませながら、梨乃は安明の一喜一憂する顔を思い浮かべ、一文字目を書き出すために和紙へと向かうのだった。
初めての文·後編
書き終えたばかりの文を上質な紐で丁寧に綴じると、梨乃は足音を忍ばせながら安明の部屋へと向かった。主のいない静かな書斎の文机に、ぽつんとその文を置くと、それだけで胸がはち切れそうになり、梨乃は逃げるようにして自分の部屋へと戻る。
それからしばらくして、夕闇が京の街を包み始める頃、門前がにわかに騒がしくなった。安明が陰陽寮からの帰宅を果たしたのだ。
「安明さん! おかえりなさい!」
玄関先まで出迎えた梨乃は、いつも通り美麗な直衣姿の安明の顔を見た瞬間、昼間の緊張が蘇って心臓が跳ね上がる。
「ただいま戻った。……どうした、妙に顔が赤いぞ」
「えっ!? な、何でもないです! あ、あの、私、女房さんたちのお手伝いしてきますねー!」
安明の鋭い切れ長の目が不審そうに細められるよりも早く、梨乃は「じゃあ!」と手を振って、そそくさと廊下の奥へと走り去ってしまった。背中から「おい、梨乃」と呼び止める低い声が聞こえたが、今の梨乃には立ち止まる勇気などなかった。
「……何だ、あやつは」
嵐のように去っていった梨乃の、明らかにそわそわとした様子を不思議に思いながらも、安明は一日の激務の疲れを癒やすべく、着替えのために自室へと足を運んだ。
パチパチと静かに灯火が揺れる静かな部屋。
いつものように烏帽子を脱ぎ、直衣の紐を解こうとした安明の視線が、ふと、部屋の真ん中にある文机の上で止まった。
主の居ぬ間に整えられたはずの机の上に、見慣れないものが一通、ぽつりと置かれていたのだ。
安明は歩み寄り、その文をそっと手に取る。
都の貴族たちが好むような、香を焚き染めた華美な色和紙ではない。けれど、梨乃の手元に馴染むようにと自分が自ら選んで買い与えた、あの真っ白で上質な和紙だった。
紐を解き、和紙を広げた安明の目に飛び込んできたのは、一画一画、驚くほど丁寧に、けれど力強くのびのびと綴られた黒い文字の連なり。
『安明さんへ。私に文字を教えてくれて、本当にありがとうございました』
それは、梨乃が生まれて初めて、誰かのために紡いだ最初の一通だった。
『安明さんのおかげで、あの綺麗な絵巻が読めるようになりました。かぐや姫の話、とても面白かったです。文字が読めるようになって、この世界のことが少しだけ分かったみたいで、すごく嬉しいです』
まだ手慣れぬ歪な崩し字。安明の美しい筆跡に比べれば、まるで子供の習い事のような拙さ。しかし、和紙に無駄な力を入れず、次の文字へと呼吸を繋ぐように流すその線は、安明が教えた「書き方」を梨乃がどれほど一生懸命に守ろうとしたかが、痛いほど伝わってくるものだった。
安明は黙ったまま、文字の終わりにある『梨乃』という、初日に彼女が大きく書いた名前の二文字をじっと見つめた。
そして、手紙の最後に綴られた、彼女の真っ直ぐな本音に視線を落とす。
『これからは、安明さんのいるこのお屋敷の毎日が、もっと楽しくなりそうです。これからも、たくさんのことを教えてくださいね』
「…………」
静まり返った部屋の中で、安明は手紙を持ったまま、長く、深い溜め息をついた。
けれど、その唇の端は、これ以上ないほど穏やかに、そして愛おしそうに弧を描いていた。片手で顔を覆い、思わずといった風に低い声で小さく笑う。
主上から届いた最高級の「金の文」など、この一通の輝きの前には、ただの色褪せた紙切れに過ぎない。大人の嫉妬と独占欲をこれでもかと満たし、優しく心を溶かしていく、梨乃からの初めての贈り物。
安明はその文を、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に、ゆっくりと折り畳んだ。そして、誰にも触れさせぬよう、己の懐へと大切に仕舞い込むと、まだ女房たちの手伝いをしているであろう愛しい居候の気配を追うように、部屋の御簾を押し上げるのだった。




