99.限界の手前
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自室に戻って最初に脱いだのはローブだった。
肩から引き剥がすみたいに外して手近な椅子へ投げたつもりが、布は途中で形を失って床へ落ちた。拾い上げる気にもならず、そのまま部屋の中を見渡す。
夜更けの明かりに照らされた自室は、いつ見ても人の寝床というより作業場の残骸だった。机の上には未整理の記録板と、乾ききらないインク瓶と、封の甘い薬包紙。壁際の棚には古い術式書と試薬瓶が詰まり、その隙間へ乾燥した草根やどこで使ったのか思い出せない金属片や洗っていないビーカーまで押し込まれている。床には領収書、割れた封蝋、半端なまま止まった計算式。整頓できないのではない。していないだけだ。必要なものがどこにあるか僕では分かっているので、散らかったまま機能している。そういうところまで含めて、我ながら錬金術師らしい部屋だと思う。
医務室の白さと違ってここは何も隠さない。
匂いもそうだった。薬品の酸味、金属の冷えた匂い、埃をかぶった紙の乾き、洗い残したガラス器具の奥にわずかに腐った水の気配。それに自分の汗と、ローブへ染みついた外の空気が混ざっている。人を落ち着かせる部屋ではない。落ち着けない人間が、そのまま仕事まで持ち込んだ部屋だった。
扉へ背中を預けたまま、さっきのやり取りを思い出す。
『……私に手錠、付けなくていいの?』
朱音の声は、責めているわけでも甘えているわけでもなく、ただ確認するような硬さがあった。
あの時、僕は何を見た。手首だ。何も嵌まっていない白い手首、その先の指、膝の上で強く組まれた形。拘束の是非を考えるより先に、別のところが反応した。似合うかどうかではない。壊れるかどうかでもない。壊してでもと、そこまで一瞬でいった。
舌打ちする代わりに、浅く息を吐く。
危なかったで済ませるには近すぎる。
あの時の僕は理屈が一拍遅れていた。医者としての線も監察局の順番もあとから追いついたに過ぎない。追いつかなければどうなっていたかくらい自分で分かる。欲しかったのは相手ではなく発散や、などという言い訳も立たない。発散で済ませるにはあまりにもはっきり見ていた。見て考え、その先までほとんど決めかけていた。
「……最悪やな」
声に出しても部屋は何も返さない。机の上のガラス器具だけが黙って冷えている。
そのことを忘れさせるようにシャツの襟元を乱暴に引き、ベッドへ倒れ込む。マットレスは薄く、体重を受け止めるより先に骨組みの硬さを返してきた。
目を閉じる。閉じたところで暗くならない。白い部屋の残像が瞼の裏でまだ鳴っていて、その上へ別のものが重なる。クレアの顔。吐瀉物の酸っぱい匂い。細い肩。医務室の蛍光灯。朱音の手首。自分の指先。順番がない。どれも同じ近さで浮いて、勝手に位置を入れ替える。
眠らなければならない、と思う。
思うだけで眠れるならとっくに寝ている。
体は疲れていた。吐いたあと特有の鈍い空洞が腹の底に残っているし、目の奥も熱い。なのに神経だけがしっかり起きていて、少し眠気へ傾くたびに別の映像が差し込んでくる。クレアの件を思い出すたび、喉の奥がまた酸っぱくなる。朱音のことを思い出すたび、それとは別の熱が戻る。汚い。どうしようもなく汚いし、その汚さが自分のものだと分かっているのでなお悪い。
「ここで寝られへんかったら、明日本当に何するか分からん」
口にしてみると冗談みたいな言葉だった。だが冗談ではなかった。僕が壊れないのではなく、壊れる場所を選んでいるだけだと自分が一番よく知っている。
朱音の前では崩れない。あの場ではちゃんと戻れる。ちゃんと笑えるし、ちゃんと医者の顔もできる。だから安全……というわけはない。その帳尻がどこかで要る。
寝返りを打つ。
枕の横で黒い術式板が光も持たず沈んでいた。監察局の共鳴炉と繋がった通話板で、縁へ細く走る銀の刻印だけが触れればすぐ目を覚ます。
見ないふりをする。もう一度目を閉じる。……やはり無理だった。脈が落ちない。頭の奥がざらついていて、何かが皮膚の内側を歩き回っているみたいに落ち着かない。呼吸を整えても、数を数えても、術式の式順を逆からなぞっても駄目だった。眠るための手段はいくつかあるが、今の自分に雑に薬を入れるのはあまり賢くない。明日の判断が鈍る。それで済めばいいが、変な方向へ鈍ったらもっと面倒だ。
術式板へ手を伸ばし、途中で止める。
呼ぶな、と一度は思う。
マディカルも暇じゃない。こんな時間に付き合う義理も本来はない。ないはずなのに、指だけはもう板の位置を知っていた。躊躇の形だけが少し遅れる。自分で収めろ。寝ろ。水でも飲め。そういうまともな声はまだ残っている。残ってはいるが、何も意味は成してなかった。
クレアの件が脳裏を掠める。続けて、朱音の声がまた出る。手錠、付けなくていいの。あの時の目つきまで一緒に戻ってきて、僕はとうとう術式板を掴んだ。
掌の熱を受けて、黒い板の内側へ文字が浮く。
呼び出しの画面を開く。名前を選ぶまでが異様に早い。迷っていた時間の方が嘘みたいだった。
「……起きとるかな」
独り言みたいにそう漏らしてから、発信に触れる。
耳へ当てると、縁の刻印が短く乾いた共鳴音を返した。一定の間隔で鳴るたび、部屋の散らかり方が少しずつ現実へ戻ってくる。机の上の記録板、口の開いた試薬瓶、床の紙片、洗っていないガラス器具。そのどれもが今の自分を映す鏡としては正確すぎた。
応答までの数秒がやけに長い。
僕はベッドの端へ半身を起こしたまま、開ききらない視界で部屋を見ていた。錬金術師の顔も医者の顔も、どちらも剥がれきらない。剥がれきらないまま夜だけが深くなり、耳元ではまだ呼び出し音が続いている。
やがて、ふと音が切れた。
「……どうしたの?」
低い声だった。
寝起きではない。少し掠れていて、けれど眠気ではなく煙の膜みたいなものが乗っている声だと分かる。術式板越しでもそうなのだから、実際にはきっと煙管でもくわえているのだろう。薬臭い甘さを舌へ残したまま喋る女だった。
「起きとったんか」
「起きてるというか、起きていたというか。今日、非番なのよ」
「ほう」
「局にいるわ。退屈だったから調合してたの。あなたこそ、こんな時間にどうしたの」
最後の一文だけ、少し低く沈んだ。
ただの雑談ではないと、向こうももう分かっている。マディカルはそういうところが早い。声の継ぎ目一つで相手の状態を測るし、測ったことをいちいち恩着せがましくしない。意地は悪いが、外し方も上手い。そこが余計に性質が悪かった。
僕は返事をする前に、喉の奥へ溜まった息を一度だけ押し出した。誤魔化せるなら誤魔化したかったが、今の自分の声でそれをやるのは無理だった。
「……来てくれへんか」
言ってから、自分でも切羽詰まっているのが分かった。
もっと軽く呼ぶつもりだった。暇なら顔出してとか、ちょっと薬品保管庫見てくれへんとか、いくらでも嘘の入り口はあったのにそこまで回らない。回らないくらいには、もう頭の奥がざらついていた。
術式板の向こうで沈黙が落ちる。
長くはない。ほんの二拍か三拍だ。けれど、その短さで向こうが察したのも分かった。
「……すぐ行くわ」
それだけだった。
事情を聞かないまま必要な方へ先に動く。そういうところは薬屋というよりアイツの飼いならしている蛇に近い。獲物を締める前に、どこから巻けばいいかだけを静かに見ている感じがある。
「すまんな」
「本当にそう思ってるなら、あとで一服分くらいは付き合いなさい」
「高いなあ」
「あなたが安く済む時なんてないでしょう」
かすかに笑う気配があった。
少し喉を撫でるみたいな笑い方だ。誰に向けても同じには聞こえない声やな、と昔から思う。ラウンジに立たせれば男も女も勝手に視線を吸われるし、薬棚の前へ立たせれば今度は別の意味で近寄りがたくなる。豊満な胸を押し上げるきわどいドレスも、腰まで落ちる濃い黒紫の髪も、あの女が着ると見せ物ではなく武器になる。背中を開けた時だけ覗く蛇の刺青が脱いだ時には皮膚の上で生き物みたいに動くのに、本人はそれを見せたい時にしか見せない。そういう選び方をする女だった。
「いる場所は?」
「自室や」
「なら、そのまま動かないで。今のあなた、余計なところまで歩く顔してるもの」
「顔見えとらんやろ」
「見えなくても分かるわよ」
そこまで言って、通話は切れた。
短い共鳴が耳へ残る。僕はしばらく術式板を下ろさず、その黒く戻った面を見ていた。映り込んだ自分の顔は、思っていた以上に酷かった。目の下が落ち、吐いたあとの鈍い青さがまだ皮膚の底に残っている。医務室なら誤魔化せる顔でも、自室の明かりの下では逃がしようがない。
術式板を放り、もう一度ベッドへ倒れ込む。
眠れる気はしなかった。さっきよりむしろ覚醒している。マディカルが来ると決まった途端、神経の行き場が一つに定まったせいで逆に目だけが冴えた。どうしようもない。
クレアの件がまた浮かぶ。小さな肩。吐瀉の酸い匂い。子どもの皮膚に残る熱。続けて、朱音の手首が出る。何も嵌まっていない白い皮膚。膝の上で組まれた指。拘束具の話をしていたはずなのに、途中からまるで別のことを考えていた自分の視線。思い出した瞬間、胃の奥がまたひどく冷える。その繰り返しだ。
壊してでもやる。
あの時、一瞬だけではなくほとんどそう決めかけていた。
僕は腕で目元を覆った。暗くなる。暗くなるのに余計にはっきりする。クレアと朱音が順番もなくちらつき、そのたび別の感情が走る。保護欲と吐き気と性欲が同じ頭の中で混ざるのは、さすがに品がない。ないからといって消えるわけでもない。
「ほんまにあかんね」
独り言が漏れる。
誰も聞いていない部屋は、その言葉すら整理してくれない。
マディカルが来たらどうする。
どうするもこうするもない。煙管をくわえたまま入ってきて、僕の顔を見て一発で大体のところまでは当てる。あの女は人の欲望の滲み方を見るのがうまい。わざと踏ませるのもうまいし、踏み抜いた後の始末まで心得ている。本人はS寄りやが、相手によっては平気でMの顔も作る。そうやって相手が何を求めているか、何に負けるか、何で壊れるかまで一息で見抜いてしまう。そういう器用さは腹立たしいが、今夜ばかりは助かる。
廊下の向こうで、かすかに足音がした気がした。
まだ早い、気のせいやろと、一度は思う。けれど監察局の夜は音が伸びる。静かすぎる建物では、遠いヒールの硬さも案外早く届く。僕は腕をどけ、半身だけ起こした。散らかった部屋の中で、扉だけが妙に真っ直ぐ立っている。
呼んだのは自分なのに来られると困る気もした。
今さら遅い。遅いが見抜かれるのが嫌なのではなく、見抜かれた後でちゃんと処理されるのが分かっているのが嫌だった。優しくはないし甘くもない。けれど的確で、その的確さの中に官能まで混ぜてくる女は大抵救いにならない。
足音が今度ははっきり近づく。
細く硬い迷いのない足取り。廊下の灯りを踏むたび、夜の空気が少しずつ別のものへ変わっていく気がした。僕はベッドの端へ腰をずらし乱れたシャツの裾を直すこともなく、そのまま扉を見ていた。




