98.静かな欠損
最初に書いておきますが、これは4月14日に書いた内容です。遊戯王公式と解釈が異なるよう願いながら書いてます……。まぁ、そもそも時系列は全く異なるのですが。朱音 (ヴィラカム)を人工にした理由はこれです。ウェイトがハディート(アレイスター)の魔術を真似てるのもこれです。いろんな事情で詰め込めざるを得なくなってしまった。
*
上井草駅は、夢の中でも暗かった。
暗いと認識できている時点で、多分私はもう半分くらい起きている。けれど足裏に返ってくるホームの硬さも夜気に混じる鉄と雨水の匂いも妙に具体的で、これはただの曖昧な夢ではないのだと分かる。改札の向こうにはコンビニの白い灯りが薄く滲み、ホームの端には見慣れたはずの像が立っている。ガンダムだ。もうとっくにスタジオは移転したのに、そこに残っているだけの金属だった。
私はなぜこんなところにいるのだろう。もっと昔の場所でももっと嫌な場所でもなく、上井草駅だった。終電の後のように人がいないので、ホームの向こう側に貼られた広告の色まで冷えて見える。遠くで踏切が鳴った気がしたが、降りてくる電車の気配はなかった。
それでも、来るのだろうと思った。
そういう夢だと分かっていたからだ。自分で見ている夢なのに、自分で決めていない順番がある。先に場所が出る。次に空気が冷える。その後で、向こうからやって来る。いつもそうだった気がするし、そうでなかった気もする。夢は平気で順序を偽るので、記憶だけがあとから辻褄を合わせにくる。
ホームの端、白線の少し手前に一つ影が現れた。
最初に見えたのは杖ではなく立ち姿だった。急ぎもせず迷いもせず、こちらが気づくのを最初から知っているみたいに静かに歩いてくる。やがて光の下へ輪郭が入り顔が見えた。ウェイトだった。
胸の奥が先に冷える。足は動かない。逃げる夢ではないと、身体のどこかがもう知っているからだった。何度も見たはずの顔なのに、今は昔みたいな曖昧さがない。輪郭も、目の位置も、口元の癖も、いやにくっきりしている。夢の中でまで鮮明なものは、大抵ろくでもない。
「久しぶりだね」
声は前と同じだった。耳障りのいい高さで押しつけがましくないよう整えられていて、それなのに聞いた瞬間に喉の奥が細くなる。怒りではない。もっと単純で、もっと身体に近い嫌さだった。怖い、という言葉が一番近いのかもしれない。
「……全然嬉しくない」
「そうだろうね」
「帰ってよ」
「……話したら分かるよ」
その言い方に、返す言葉が少し遅れる。昔と同じ鍵をまだ使うつもりなのだと思った。分かる、という言葉で人を止めるやり方だ。分かったところでどうにもならないことの方が多いくせに、こういう時だけ順番の正しい言葉みたいな顔をする。
「何が?」
「私がここにいる理由も、君がここに来た理由も」
言い切るより早く、ホームの向こうから電車の灯りが滲んできた。線路の先が白く膨らみ、やがて入線の音が耳の奥へ刺さる。私は顔をしかめる。こんな時間に来るはずのない列車だ。けれど夢の中では、来るはずのないものほど正しい順番で到着する。
電車は田無行きだった。
表示だけがやけにはっきりしている。行先以外の文字は妙に滲んでいて読めないのに、田無だけは白く浮いて見えた。扉が開く。車内は明るい。照明の色が白すぎて、座席の青いモケットまで少し灰色に見えた。乗客は誰もいない。
「乗ろうか」
「嫌よ」
「でも、乗らないといけないよ」
腹が立つというより先に、そう言われると逆らっても意味がないのだと分かってしまうのが嫌だった。夢だと分かっている時の私はたまに妙に冷静だ。ここで逆らっても場面が飛ぶだけだろうし、聞かなければいけないことがある以上、結局は同じところへ行く。そういう諦めが最初からある。
先に乗ったのはウェイトだった。振り返りもしない。追うかどうかは私に選ばせているふりをして、実際にはもう扉の内側に正解が置かれている。そのやり方が怖いのだと思う。逃げ道を見せたまま、最初から塞いでいる感じがするからだ。
私は数拍遅れて乗り込む。扉が閉まり、電車がすべり出す。ホームの柱が流れ、コンビニの光が短く横に伸びる。最後に残ったのは、ホームの端で立ち尽くす像の肩だった。
ウェイトは向かいではなく、斜め前に座った。正面だと会話になるからだろう。少しずらしておけば、対話ではなく独白に見える。そういう細いところにばかり無駄に気が利く。
私はドア脇の席へ腰を下ろし、窓に映る自分の顔を見た。ちゃんと起きている顔だと思った。夢の中なのに、寝起きのぼやけたところがない。目だけが変に冴えている。
電車は止まらなかった。
駅らしい光をいくつか通り過ぎても減速せず、ただ一定の揺れで暗い街を切っていく。高架の下、塀、駐輪場、途切れた住宅地、また塀。窓の外の順番があまりにも雑なので、現実ではないと何度でも確認できる。それでもレールを踏む音だけが妙にまともだった。鉄の擦れる音が、薄い眠気の底でずっと同じところを引っかいている。
そして、少しずつ身体が重くなった。
座っただけなのに、膝の上へ見えない毛布を何枚も載せられたみたいだった。肩が鈍い。背中の内側がじわじわ軋む。ここへ来る前から疲れていたはずなのに、その疲れ方とは少し違う。歩き回った後の筋肉の重さではなく、もっと芯の方から抜かれていく感じだった。眠いわけではない。だるいのでもない。自分の中のどこかが継ぎ足しで持っていたものを、ゆっくり剥がされていく。
「……これも、ウェイトのせい?」
ウェイトは視線だけを上げた。
私の問いの意味を、最初から分かっている顔だった。
「そうだよ」
「何で?」
「君はまだ私と繋がっているから」
車内の蛍光灯が白く鳴る。鳴る、というのもおかしいが、夢の中では灯りにも音がある。薄い耳鳴りみたいな白さが、言葉の輪郭だけをはっきりさせた。
「それは単に魔力の線が残っているという意味だけじゃない。君の基礎構造を最初に組んだのは私だからだよ。骨組みも、器として成立させるための癖も、どこで外からの力を通しやすくしてどこで遮るかも、最初の設計は私の手の中で決まった」
「そう……」
「起きている時の君は今はもうほとんど私の外にいる。ハディートが作り変えた部分も大きいし、君自身の選び方も積み重なっているからね。でも、眠りは別だ」
「眠り……?」
「深く沈みきっている時ならむしろ触れにくい。君の意識が底まで落ちて、自分の殻を閉じている時は、こちらから触れても表層まで上がってこない。だが、今の君は違う」
ウェイトはそこで少しだけ首を傾けた。私を観察する時の、妙に静かな目だった。
「君はずっと不安定だ。身体の作りも、抱えているものも、君自身の精神の揺れ方も、全部が浅いところで波打っている。だから眠っていても沈みきらない。半分起きていて、半分夢へ落ちているみたいな時間が長い。そういう時は境目が薄いんだよ。現実と夢の間、意識と無意識の間、君と君以外のものの間、その全部が曖昧になる。私はそこへ入りやすい」
そこで一度だけ、ウェイトは指を組み直した。
「元々私は、相手の構造をなぞるのが得意なんだ。完全に奪うわけでも、そのまま真似るわけでもない。癖や流れや形の作り方だけを薄く写し取って自分の側へ複製する。そういうやり方をする」
「……コピー、みたいなもの?」
「近いね。ただ、もっと曖昧で、もっと不完全だ。外形をそのまま持ってくるんじゃなくて、組み方を借りる。夢に入る時も同じだよ。君の浅い眠りの形をなぞって、その層に自分の足場を作る」
そう言い切ってから、ウェイトは窓の外へ一度だけ視線を流した。暗い住宅地が、夢のせいで同じ形を何度も繰り返しながら流れていく。
「君が半覚醒に近い状態の時、私は夢の形を借りてなら触れられる。こうやって声を届かせることもできる。最初からそうだった。君が何も知らない頃から、私はその浅い眠りの縁へ出入りしていた」
「……」
「だから、夢に入れる理由は特別な術じゃない。切れていない構造と、君の眠り方の問題だよ。君が不安定で深く閉じきれないから、私はそこでまだ君へ届く」
「自分勝手すぎるよ」
「そうだろうね」
否定しないのが余計に腹立たしい。
「ハディートが君を創り変えたのは本当だ。今の君の輪郭を決めているのも多分あの人だろう。でも、元の構造は私が作った。骨組みも、器として成立させるための基礎も、君の中を流れる魔力の初期の組み方も」
「……」
「だから、君は完全には私から離れていない」
そんな話は聞きたくなかった。聞けばこの重さに形がつく。形がつけば怖さも輪郭を持つ。輪郭を持ったものは、夢の中だとやけに消えない。
「君が最近、歩けないくらい疲れるのもその一部だよ。本来なら、私の側から流れていた魔力分がある。今はそれを封じられているから消費の方が多い。君は自分でも作っているけれど、追いついていない」
「……自分で作っても、足りないってこと」
「うん。今の君は、静かな欠損の中で無理やり回っている状態に近い」
静かな欠損、という言い方が気持ち悪かった。
静かならいいみたいに聞こえる。実際には全然よくないのに、言葉だけが妙に整っている。
「それに、私が受けている損耗の一部は君にも滲む」
「損耗?」
「傷み、と言い換えてもいい。私が今受けている負荷の全部じゃないけれど、その一部は構造の繋がりを通って君へ流れる。だから君は、自分の消耗だけで疲れているわけじゃない」
私はすぐに言葉が出なかった。
怒るより先に、ここ数日のしんどさの形が嫌な感じに揃ってしまった。理由もなくではなかったのだと分かるのは、救いではなくてただ嫌だった。
「私、ウェイトの傷まで背負ってるの」
「少しだけね」
「少しだけでも十分嫌なんだけど」
ウェイトは否定しなかった。
否定しないからこそ、こっちもそれ以上強く言えない。夢の中で怒鳴る体力まで削られているのかもしれなかった。
「でも、構造上これは切れない」
「……」
「無理に切れば、君の方が先に壊れる可能性が高い。あの人がどれだけ組み替えても、最初の設計そのものは残っている。だから、君と私を切り離すことはできない」
切れない、という言葉が車内のどこかへ沈む。
私はそれをすぐには飲み込めなかったが、夢の中ではこういう言葉ほど身体の深いところへ先に落ちる。怖い、と改めて思った。これからもここが繋がったままだという事実の方が怒りより先に来る。
「なんで私を創ったの」
もう一度言ったのは、さっきの問いへの答えが足りなかったからだ。
構造の話でも魔力の話でもなく、最初に勝手に始めた理由をまだきちんと聞いていない。
ウェイトは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「君が必要だったから」
「雑過ぎるよ」
「雑に聞こえるのは、理由が一つだと思っているからだよ」
「じゃあ分けて言ってよ」
「いいよ」
白い照明が彼の頬の線を平たくしている。人間というより、今この場に都合よく呼び出された像みたいに見えた。
「最初に必要だったのは器だ。願いを通しても、すぐには壊れきらないもの。概念のままでは触れられないから、現実に置ける形が欲しかった」
「……道具ってこと?」
「そう」
あっさり認めるので、かえって冷える。
でも、それで終わりではないのも分かっていた。
「それだけじゃない。私は確かめたかったんだ。与えられた役割や真名の前に、人はどこまで自分でいられるのか。何も知らないまま息をして、何も持たないまま誰かを好きになって、それでも最後に自分の意思で何かを選べるのか。そういうのを見たかった」
「実験みたい」
「その通り実験だったよ」
私は窓の方を見る。自分の顔の横を、見知らぬ外灯の反射が何本も流れていく。疲れているせいか、視界の端だけ少し滲む。けれど話の輪郭だけはぼやけない。
「……結局、それだけじゃないでしょ」
「そうだね」
ウェイトは組んでいた指をほどいた。
「私が本当に戻したかったのは、あの人だった」
「ハディート?」
「うん。でも、今ここにいるあの人じゃない」
私は眉をひそめた。意味は分かるようで、分からない。向こうだけが何年分も前提を持っていて、こっちはその穴の前に立たされる。
「……どういう意味?」
ウェイトは少しだけ目を細めた。
「天賦の魔術師、アレイスター・クロウリーだよ」
「……アレイスター?」
「ハディートのことさ」
その答えで、胸の奥が少し重くなる。知らない名前を出されたのに、知らないままではいられない響きだけが残る。今のハディートではなく、そこへ重ねて呼びたい昔の名前があるのだと分かる。それだけで十分怖かった。自分の知らない昔の名前で、今の人を呼び続ける執着がある。
「君は知らなくていい名前だけど、私にとってはそこが分かれ目なんだ。今のあの人になる前、もっと若くて、もっと剥き出しで、才能そのものみたいだった頃の呼び名だよ。術を組む速さも、相手の隙間を見つける目も言葉の選び方も何もかもが今より露骨で、危うくて、ひどく綺麗だった。今のあの人は冷たいし、賢いし、多分昔よりずっと強い。でも、その分削れている。捨てたものが多い。昔はもっと、壊れる手前の熱がそのまま形になっていた。私が見ていたのは、そういう時期のあの人だ」
「つまり、昔のハディートを見たかったってこと?」
「そう。そして、できることなら戻したかった」
彼はそこで止まらない。説明しきるつもりの声だった。言い訳ではなく、自分の執着に順番を与えるための話し方だった。
「戻るわけがないことくらい知っていたよ。秘儀の残滓を見せたって人はそんなふうに綺麗には戻らない。まして、あの人みたいに自分で自分を削って前へ行く人間ならなおさらだ。それでも、当時のあの人が持っていた熱に近いものをもう一度この世界へ置けるなら、今のあの人の中で死んだはずの何かがこちらを向くかもしれないと思った。緋色の女――昔と同じだけ厄介で、昔と同じだけ惹かれるものが隣に立てば、今のあの人の輪郭も少しはズレるかもしれないと」
「それが私?」
「最初は」
その二文字が、車内の白さより冷たく聞こえた。
「君を置けばあの人が変わるかもしれないと思った。今のハディートではなく、かつてそう呼ばれていた頃の何かがもう一度こちらを見るかもしれないと。私はその可能性に賭けた」
「……最低」
「そうだろうね」
怒りより先に怖さが勝った。
自分が誰かの昔の熱を呼び戻すための材料として置かれたことより、その材料が今も切れずに私の中へ残っていることの方がよほど気持ち悪かった。
「私って、昔のハディートに近づくためのものだったんだ」
「最初はそうだ。今は違う」
その言い方だけ、少しゆっくりだった。
「君はもう、私が置いた時のままじゃない。あの人が触ったからだよ。壊して、組み直して、最初に創られた器のままでは済まないくらい深く君の中へ手を入れた。その結果、君は私の想定から外れた。昔のあの人を引き戻すための材料でしかなかったはずのものが、それでは済まなくなった」
「……」
「私はそこを見てしまった」
見てしまった、という言い方はずるいと思った。
自分の意思で見たのに事故みたいに言う。
「君が君として残った部分も、あの人に組み替えられて上へ行った部分も、どちらももう見てしまった。だから、今の君に対して私が持っているものは、最初に用意した意図だけでは説明しきれない」
電車の揺れが、そこで一度だけ深く沈んだ気がした。
私は膝の上で指を組み直す。指先が少し冷たい。疲れているせいか、心臓の音だけが変に近い。
「それって、何」
「執着だよ」
「それだけ?」
「……愛情も少し混ざっている」
その言葉で、私はすぐに顔を上げた。
軽い声ではなかった。かといって、重く言い立てる感じでもない。隠しても仕方がないことを言う時の声だった。
「君を道具として見ていた部分があるのは本当だ。昔のあの人を見たかったのも本当だ。でも、それだけならこんなに面倒にはならない。私は君の細部を覚えてしまった。怯える時の順番も、妙なところで頑固なことも、肝心な時だけ変に鈍いことも、誰かの名前で息が変わることも。そういう、本来なら要らないはずのものを」
「……」
「だから、心のどこかでは愛しているんだろうね」
その言い方はとても静かだった。
愛していると言い切るくせに、そこへ救いの形を与えない。むしろ、それがあるから余計に厄介だと知っている人間の声だった。
「綺麗な愛情ではないよ。君が安心する種類のものでもない。私は君を創ったし、構造の上ではまだ君の中に残っているし、君を苦しめてもいる。だから、その言葉が都合よく聞こえるなら使うべきじゃないのかもしれない。でも、全く何もないわけでもない」
「そんなの――」
私はそこで言葉を切った。
そんなの知らない、で終わらせたかったのに、喉の奥で止まる。知らないでは済まない相手だから、怖いのだと思う。嫌いだけで押し切れない何かが混ざると、人は急に扱いづらくなる。
感謝がないわけでもなかった。
認めたくないだけで、最初に私をこの世へ置いたのは確かにこの人だ。そこから先でどれだけ壊れてどれだけ別のものに組み替えられても、始まりの一部だけはどうしても消えない。消えないものに情みたいなものが混ざってしまうことがある。
もちろん、それで安心できるわけではない。
怖いものは怖いし、気持ち悪いものは気持ち悪い。けれど、その奥で家族に似た何かが少しだけ残っている。血ではなく構造の方で結ばれた、ひどく迷惑でひどく始末の悪い情だった。
窓の外に暗い川みたいなものが一瞬だけ見え、すぐに消えた。現実の路線に川があったかどうかなんて、夢の中ではどうでもよかった。どうでもいいのに、その黒い水面だけが妙に生々しい。
私は膝の上で指を組み直す。
肩が鈍い。背中の奥も重い。夢なのに自分の身体だけが現実に近い。
「――パケラスには気をつけて」
唐突にそう言われて、私は眉を寄せた。
「……なんでそこであの人の名前が出るの」
「君が、あれを見誤りやすいからだよ」
私はすぐに答えられなかった。
疲れている頭に、その話題の切り替わり方が少し遅れて刺さる。
「パケラスは壊れないわけじゃない。壊れる場所を選べる」
「場所?」
「君の前では崩れない、ということさ」
ウェイトは窓の外ではなく、私を見たまま言った。
「理性も、判断も、順番も、あれはまだ持っている。吐いても働くし、壊れそうでも手を止めないし、冗談の顔でいくらでも誤魔化すだろう。そういう人間は強い。でも、強いままではいられない」
「……」
「君の前で壊れないということは、別の場所で帳尻を合わせるということだよ」
その言い方だけ妙に静かだった。
脅しでも説明でもなく、本当に事実だけを置く時の声だった。
「ハディートより読みにくい、という意味じゃない。むしろ逆だ。あれは自分の壊れ方をよく知っている。だからこそ、見せる相手と見せない相手を分けられる」
「じゃあ、別に私には関係ないじゃん」
「関係あるよ」
ウェイトは少しも声を強めなかった。
「君の前で平気な顔をしている人間ほど、その平気をどこかへ捨てている」
「つまり……?」
「優しいわけじゃない、とは言わない。多分半分は本当にそうだろう。でも、残り半分は違う。見せないと決めたものを、別の場所へ持っていっているだけだ」
「それを私に言って、どうしろっていうの」
「忘れないでいればいい」
電車の揺れが、そこで一度だけ深く沈んだ気がした。
「君の前で壊れないからといって、傷んでいないわけじゃない。君に向けないからといって、どこにも向けないわけでもない。あれは壊れないんじゃない。壊れる相手を選んでいるだけだよ」
私はすぐには何も言えなかった。
パケラスの顔を思い出す。白衣の襟、だるそうな声、机に伏せた背中、ふいにこちらを見た時だけ鋭くなる目。全部が急に、さっきまでと別の輪郭を持ち始める。
「……なんでそんなこと言うの」
「君が知らないまま、あれを優しい側だけで見ていると危ないからだ」
ウェイトはそこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。
「君の前では多分壊れない。だからこそ見誤る」
電車が止まる。
ブレーキの擦れる音が最後に長く鳴って、それから静かになった。窓の外の駅名板が白く浮かぶ。夢のくせに妙にはっきりした文字だった。
田無。
扉が開いて、外の空気が少しだけ流れ込んでくる。上井草より生ぬるくて、雨の匂いより先にアスファルトの湿り気が鼻へ触れた。駅のホームは明るいのに、人の気配だけがなかった。自販機の光と、遠くの信号の赤だけが妙に残る。
私は立ち上がらなかった。
立ち上がったら終わるのだと、なぜか分かったからだ。ウェイトもすぐには動かない。けれど、ここが切れ目なのだということだけは、空気の継ぎ目みたいにはっきり分かる。
「ここで降りればいい」
「……ウェイトは?」
「もう少し残るよ。君が起きるまで」
その言い方は優しくはなかった。
見張る感じにも聞こえたが、置いていくのでもない。そういう曖昧な位置にいる声だった。
それっきり黙りこむ。
私も何も言わない。田無のホームが窓の向こうに止まり続け、自販機の白い灯りだけがそこに残っている。
ふいに、視界の端で影が揺れた。
ウェイトが立ち上がる。
降りるのかと思ったがそうではなかった。扉の方へ向かう手前で足を止め、そのまま私の前まで戻ってくる。私は反射的に肩へ力を入れた。逃げたいと思った。しかし、この夢の中では逃げる動きだけがいつも半拍遅い。
「……なに」
声が少し掠れた。
ウェイトは答えない。慣れた手つきで私の肩へ触れる。乱暴ではなから余計に怖い。振り払えるくらいの強さなのに、振り払ったところで意味がないことを最初から知っているみたいな触れ方だった。
そのまま、抱き寄せられる。
胸へ引かれた瞬間、息が詰まった。
温度がある。夢なのに、布の擦れる感触も腕の重みもはっきり分かる。だけど優しくされた、とは思わなかった。自分の輪郭が相手の腕の内側で一度だけ確かめられた気がした。まだここにある、と。まだ切れていない、と。そう確認されるための動作みたいだった。
「やめて」
そう言ったのに、声はあまり強く出なかった。
「うん」
頬の横で衣擦れの音がする。知らない匂いではないのが嫌だった。長く夢に出てきたせいか、あるいはもっと構造の深いところで覚えているのか、完全な他人の匂いに思えない。そこまで含めて気味が悪いのに、胸の奥のもっと鈍い場所で少しだけ落ち着いてしまう部分があるのが最悪だった。
感謝がないわけではない。情がないわけでもない。
でも、それで怖くなくなるわけではなかった。むしろ逆だ。怖いものに少しだけ家族みたいな温度が混ざるから余計に始末が悪い。
ウェイトは私の髪へ触れもしない。腕の中へ収めたまま、低い声で言った。
「君は思っているより消耗している。無理しない方がいい」
「……命令しないで」
「忠告だよ」
「同じ」
「……そうかもしれないね」
そこでようやく、腕の力が少しだけ緩む。
「でもこれだけは覚えておいて。パケラスには気をつけて。あれはまだ壊れていないだけだ。壊れた時、何をするか分からない」
「……」
「君を守るつもりで、君を壊すかもしれない」
その言葉だけ、胸の奥へ細く残った。
ウェイトはゆっくり私を離す。
離された後、肩のあたりだけが妙に寒かった。最初から触れられていなかったように見えるのに、感覚だけが遅れて残っている。
彼はそれ以上何も言わず、扉の方へ向かった。
靴音は聞こえなかった。夢だからかもしれないし、もうそこで音だけ先に死んでいたのかもしれない。白いホームの上へ降りた輪郭が柱の影に一度だけ触れ、それから少しずつ薄れていく。
やがて車内灯が一度だけちらつく。
目を閉じたわけでもないのに、視界の端から順番に輪郭がほどけていく。座席の青、扉の銀、窓の黒。全部がゆっくりと薄くなり、最後に残ったのはホームの駅名板と、自販機の白い光だけだった――




