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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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95.崩れる一拍

*


 監察局に閉じ込められて何日経っただろうか。時間は進むものではなく、薄く引き延ばされて劣化していくものになっていた。


 手首には依然として封魔の手錠が嵌まっているが、鎖だけは外された。歩くたびに金属音を床へ引きずらずに済むだけ煩わしさは幾分マシだと言える。

 最も、それで自由が戻るわけではない。局舎の外へは出られないので山にも行けず、魔力は封じられたままなので研究も進まない。加えて貞操帯まで付けられているせいで性欲の処理すら自力では不可能だった。セックスも駄目、自慰も駄目、ヘ◯インも論外、朱音にも会わせてくれない。ここまで丹念に人間の習慣と嗜好を剥ぎ取っておいて保護だの管理だのと呼ぶのだから、監察局という組織は実に趣味が悪い。


 尋問もまた同種の悪趣味だった。

 内容はほとんど同じで、日ごとに順番と語尾だけを変える。表現をずらし視線を変え、間を置いて答えの綻びを探す。やっている側は技巧のつもりなのだろうが、される側から見れば湿った布で同じ箇所を何度も撫で回されているのに近い。清潔そうに見えて執拗で、退屈で、そして不快だった。彼らは法を信じているのではない。法の書式を信仰しているだけだ。本当に人を動かすのは、もっと個人的でもっと下品な意志の方なのに、その程度のことすら分かっていない。


 故に、仕方なく歩いていた。

 房に留め置かれたまま思考だけを巡らせるより、まだ局内を徘徊している方が幾分かマシだった。白い廊下を折れ同じ材質の床を踏み、遠くで鳴り続ける換気音を聞く。消毒薬の薄い匂いが、曲がり角ごとに濃くなったり薄くなったりする。その単調さは気鬱だったが、気鬱である分まだ感覚が鈍り切っていないことだけは確認できる。


 医務室の近辺まで来た時、匂いが変わった。

 洗浄剤、アルコール、薬品、その奥に沈んだ血の名残。清潔という名の薄布で覆われてはいるが、肉体が物質である以上痕跡は完全には消えない。そういう場所だった。僕はそういう場所を嫌悪しない。理念や規則より先に、人間が腐敗し得る器官の集積であることを思い出させるからだ。


 その時、視界の端を白衣が横切った。


 歩行ではなかった。移動と呼ぶにも余裕がなく、ほとんど逃走に近い速度だった。パケラスが医務室の脇をかすめ、その隣の薬品保管庫へ滑り込む。扉は閉まりきらず、半端な角度で止まって鈍い音を立てた。


 僕は足を止めた。


 珍しい、と思った。

 あの男はだるそうに見えて実際には相当器用に自己管理をする。崩れる時刻と場所くらいは選ぶ人間だ。少なくとも、人目につく廊下の脇へ駆け込んで扉すらまともに閉められないほど余裕を失うようには見えない。

 だから興味を惹かれた。善意ではない。均衡を失った人間は観察対象として面白い。儀式でも同じだ。成功した手順より失敗した一拍の方が、術者の本質をよく露呈する。


 半ば開いた扉の隙間から中を覗く。


 保管庫は狭かった。棚が両側を塞ぎ、その間に簡易な洗面台が押し込まれている。白色灯が上から直線的に落ち、ラベルの貼られた瓶や箱の縁だけを冷たく浮かび上がらせていた。その下で、パケラスが洗面台に片手を突いたまま、吐いていた。


 音がまず耳につく。

 吐瀉そのものの湿った音より、その合間に挟まる息の裂け方の方が印象的だった。えずき、喉を縮め、どうにか呼吸を継ぎ足そうとして失敗する、あの無様な律動。消毒液の匂いに胃液の酸味が混ざり、白衣の背が細かく上下する。肩の線は布の上からでも分かるほど不規則に強張っていた。


 顔色が悪い。

 元から血色の豊かな男ではないが、これはそういう次元ではなかった。皮膚の下の赤みだけを先に抜き取られ、残り滓で輪郭を保っているような白さである。洗面台から顔を上げた瞬間は、そこに立っているのが生きた人間ではなく精度の甘い死体の試作品に見えたほどだった。


 しかも、扉は閉まっていない。

 隠れるために駆け込んだはずの場所で、隠蔽の最後の一手すら成立していない。その事実が、彼に今どれほど余裕がないかを何より端的に示していた。観察する側にとっては分かりやすくて結構だが、当人にとっては屈辱だろう。


 僕は扉枠に肩を預けたまま、少し眺めてから声をかけた。



「ひどい顔だな」


 狭い保管庫では声がよく響いたが、パケラスはすぐには反応しなかった。蛇口へ伸ばした指が一度滑り、それから遅れて肩が揺れる。振り返るまでに一拍、こちらを認識するまでにさらに半拍。普段の彼ならまずあり得ない遅延だった。


「……っ」


 声にすらならない息だけが漏れる。

 口元を持ち上げて何か言い返そうとしたのだろうが、表情筋がうまく噛み合っていない。僕はそれを見てわずかに眉を上げた。手首の手錠が冷えていて、その感覚だけが妙に鮮明だった。


「散歩していたら白衣が一枚、随分切迫した速度で消えていくのが見えた。それだけだ」

「……最悪や」

「君の体調の話なら同感だ」


 軽く返したが、いつものように軽口で立て直してくる気配はない。

 洗面台の縁を掴む手に力が戻り切っておらず、濡れた陶器の上で指先だけが妙に白かった。何か言おうとして、喉のところで止まる。その挙動が露骨で、見ていて少し面白い。人間は衰弱すると、器用に隠していたものから順に零す。


 僕は扉枠から身を離し、保管庫へ一歩だけ入った。

 薬品の匂いが濃くなる。棚のラベルが視界の端で白く滲み、代わりにパケラスの顔面の蒼白さばかりがよく見えた。


「何があった」


 そう聞いたが、彼はすぐには答えない。



「……朱音は無事や」


 先に出てきたのはそれだった。

 説明ではなく穴塞ぎに近い。僕が何を危惧するかを理解した上で、とにかく最初にそこだけは否定しなければならないと身体の方が判断したような声音だった。


「朱音のことじゃない……」


 そこから先が続かない。

 朱音ではない。ならば重要度は一段落ちるはずだったが、目の前の有様はそういう顔ではなかった。仕事の失敗や報告の齟齬でここまで崩れる男でもない。あれはもっと器用に苛立ち、もっと雑に毒づいて終える。今のこれは、理屈のつく不快ではなくもっと古いところを直に擦られた人間の反応に近い。


 僕は洗面台の脇へ視線を落とした。吐瀉の飛沫、水滴、白衣の袖口の乱れ、それからまだ完全には収まっていない呼吸の浅さ。医務室の前を通った時刻を思い返す。


「……クレアか」


 パケラスの肩が、今度ははっきり強張った。

 それで十分だった。肯定など要らない。図星を刺された人間は、否定より先に筋肉で答える。


「成程」


 僕は小さく呟いて、壁にもたれたまま腕を組む。手錠の金属音は不愉快だったが、今は少し都合がいい。場に冷たさが足される。


「君がそこまで醜く吐くなら、自分の失態じゃない。見たくないものを見たか、聞きたくないものを聞いたか、そのどちらかだ。で、朱音ではない。君の過去を考えても消去法でクレアしか残らない」


 パケラスは何も返さない。

 蛇口を閉め、両手を洗面台の縁についたまま俯いている。背中の線がさっきより硬い。吐き気が残っているというより、もう一度こみ上げる何かを押し留めているように見えた。


 沈黙は短かったが、意味としては十分だった。


 つまり、クレアに今すぐ取り返しのつかないことが起きたわけではない。あの子どもは一応無事で、目の前の男をここまで崩しているのは、むしろその一件が別の記憶を呼び戻したからなのだろう。現在の不快だけで吐く顔ではない。あれは、似た質感の何かに触れて、内部に沈めていたものが勝手に浮上した人間の顔だ。人はしばしば今この場に打たれたような貌で、実際にはもっと前の命令に従って崩れる。


()()()()


 今度は先ほどより、少しだけはっきり言った。


「クレアの件そのものに参っているわけではない。あれが引き金になった。それで胃が反転した。そういう顔だ」


 パケラスの指先が、洗面台の縁でわずかに滑る。

 否定はしない。しないというより、その労力を払う気がないのだろう。顔を上げないまま、呼吸だけをどうにか均そうとしている。だが、一度乱れた呼吸というものは、理性で整えようとするほど不恰好になる。胸郭の動きが浅く、間隔が微妙にずれていた。


「……お前、ほんま嫌な見方するな」


 掠れた声だった。

 声量は戻っていないのに、そこだけは妙にはっきりしている。気力ではなく、反射で返したのだと分かる。


「見方ではない。観察だ」

「どっちでもええわ」


 吐き捨てるように言って、パケラスは口元を手の甲で拭った。水で流したところで、身体がまだ異物感を覚えているのだろう。白衣の袖口に残る乱れが、先ほどからずっと目につく。普段の彼なら、こういう細部は無意識に整えるはずだった。


 僕は少しだけ顎を上げる。


「君にもそういうものがあるのか」

「何がや」

「踏むと駄目な記憶だよ。案外まともだ」


 その言葉に、パケラスはようやく顔を上げた。

 青白い。吐いた直後の色がまだ抜けきっておらず、目の下の影も濃い。だが、視線だけは死んでいなかった。むしろそこだけ妙に乾いている。泣く人間の目ではなく、泣く段階をとっくに過ぎてからなお実務へ戻らなければならない人間の目だと分かる。


「まともとか、そういう言い方で片づけんといてくれへん?」

「片づけているつもりはない。分類しているだけだ」

「同じや」


 即答だった。

 吐いた後の人間にしてはそこだけ妙に鋭い。逆に言えば、そこしかまだ鋭くできないのだろう。自分の中で何が起きたかを丁寧に説明する余裕はないが、雑に整理されるのは不快だという程度の輪郭は保てているらしい。


 僕は肩を竦めた。手錠がまた鳴る。こうして会話の継ぎ目で鳴るとこちらの言葉に余計な情緒が混ざらずに済むので、その点だけは便利だった。


「では訂正しよう。君はあの子どもに触れた出来事を見て、自分の内部に残っていた別種の不快を呼び起こした。それで身体が先に拒絶した。大したことだよ。口で怒るより先に胃がひっくり返る程度には、まだ君の内側に腐り切っていない場所が残っているということだから。()()()()()()()()()()()()()()


 パケラスは一瞬だけ目を細め、それから低く息を吐いた。

 笑ったのではない。呆れたのでもない。それ以上こちらの言葉を正面から受けると余計に面倒になると判断して、半ば流しただけの呼気だった。


「慰める気ないやろ」

「当然だ」

「知っとる」


 その短いやり取りで、ようやく場の空気が少しだけ落ち着いた。

 落ち着いた、というのは正確ではない。吐瀉の直後の剥き出しな不格好さが、もう一度白衣の内側へ押し戻され始めただけである。パケラスは洗面台から片手を離し、今度は壁へ体重を預けた。立ち方が少し変わる。崩れないための立ち方へ移行したのだと分かった。


「……クレアは一応無事や」

「それは結構」


 僕は即答した。

 優先順位としては妥当ではあるが、それ以上の感想も特にない。だがパケラスは、その無機質な返答に文句を言う気力もないらしい。喉の奥を一度だけ鳴らし、蛇口をひねって顔を洗った。水滴が顎先から落ち、白い陶器へ細く散る。その音がやけに乾いて聞こえる。


「で、どうする」

「どうするも何も、やることは決まっとる」


 返答は平板だったが、そこには既に先ほどまでの生理的な崩れ方がない。吐き気は残っているだろうし顔色も悪いままではあるが、思考の順番だけは戻ったらしい。


「隔離する。接触させへん。記録上げる。今日はそれでええ」

「妥当だな」

「お前に評価されたないわ」


 そう言う声には、先ほどよりいくらか普段の調子が戻っていた。

 戻っているといっても表面だけだ。とはいえ表面さえ戻れば、大抵の職務は遂行できる。監察局の人間としては十分なのだろうし、彼自身もそれ以上を今は求めていないはずだった。


 パケラスは白衣の襟元を直し、袖口の皺を一度だけ撫でる。ようやく細部へ意識が戻ってきたらしい。吐いた痕跡はまだ残っている。喉の荒れも、わずかな指先の震えも消えていない。それでも人は服を整え、顔を上げ、何事もなかったように廊下へ出ていく。そうしなければ次の処理が滞るからだ。感情とはつまるところ、実務に支障が出ない範囲でのみ許容される贅沢なのだろう。


 扉の方へ向き直って二歩進み、パケラスは一度だけ足を止めた。

 こちらを振り返るわけではない。ただ、背を向けたまま低く言う。


「……見たことは忘れろ」

「善処はする」

「信用ならんな」

「そもそも誰に言うんだ。()()()()()()()()()()()()


 彼は小さく鼻で笑った。

 それは吐瀉の合間に漏れる掠れた息ではなく、どうにか人間の体裁を拾い直した後の音だった。ほんの少しだけだが、保管庫へ駆け込んできた時よりはよくなっている。


 だから僕は、それ以上何も言わなかった。


 あの手のものは、言葉で整えるほど綺麗にはならない。

 雑に畳み、引き出しの奥へ押し込み、必要な時にだけ取り出して処理する。その程度がせいぜいだ。監察局の人間であれ、ただの人間であれ、結局やっていることは大差ない。


 パケラスが保管庫を出ていく。

 白衣の裾が扉の縁をかすめ、すぐに見えなくなる――はずだったが、その手前で一度だけ足が止まった。


 振り返りはしない。半身だけをわずかに戻し、白い廊下の気配を背に受けたまま低く言う。


「……お前も顔色悪いで」


 唐突だった。

 慰めでも忠告でもなく、診察台へ乗せる前に患者の顔色だけ見て言うみたいな雑な一言だった。しかし、雑である分だけ余計に耳へ残る。


 僕は扉枠に肩を預けたまま、少しだけ眉を上げる。


「君に言われるほどではない」

「言うやろ。死にぞこないみたいな色しとる」


 反射で返してきたにしては妙に正確だった。

 ヘ◯インを断ってからの二週間、最悪の山は越えている。床へ這いつくばるほどではない。吐いて暴れるほどでもない。とはいえ、その代わりに身体のどこにも収まらない薄い不快だけが、ずっと内側へ貼りついていた。呼吸は浅くなりやすく、眠りも浅い。何でもないことに機嫌が削れる。頭だけは回るので、余計に始末が悪い。そこへ監察局の白い灯りと封魔の手錠と貞操帯まで重なれば、顔色くらいはどうしても死ぬ。


「散歩してただけだ」

「散歩でそないな顔なるかいな」


 そこでようやく、パケラスが少しだけこちらを振り返る。

 吐いたあとの青白さがまだ抜けきっていない顔ではあるが、目だけは先ほどより幾分かマシだった。崩れた人間が、どうにか白衣の内側へ戻ってきた目だった。


「寝れてへんやろ」

「うるさいな」

「煙草だけやない顔しとる」


 そこまで言ってから、パケラスは自分でそれ以上踏み込まないと決めたらしい。医者の顔に戻る一歩手前で止まり、肩を竦めるように白衣の襟を直す。


「まあええわ。お前が勝手に腐る分には、僕の管轄外や」


 軽口の形をしているが、最後の一線だけは越えない。

 あの男らしいと思う。人の傷へ触れる時、踏み込みきらないことでどうにか自分の輪郭を守っている。多分僕の方も同じような顔をしているのだろうが、言われると気分が悪かった。


「結構。君に診てもらう気はない」

「知っとる」


 そう短く返して、パケラスは今度こそ扉の外へ出る。

 白衣の裾が扉の縁をかすめ、足音が廊下の向こうへ消えていく。残ったのは薬品の匂いと、消しきれない酸味、それから最後に投げられたあの一言だけだった。


 ……余計なお世話だと思う。

 だが、白い保管庫の薄いガラスに映った自分の顔が、確かに少し死にぞこないじみて見えたのも事実だった。封魔の手錠が手首へ食い込み、鈍い痛みを返す。喉の奥は乾いている。呼吸も浅い。煙草だけでは埋まらない空白が、身体のどこかにまだ居座っている。

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