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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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94.噛み合わない身体

 パケラスは差し出したナプキンでクレアの指先を軽く拭くと、そのまま頭へ手を乗せた。黄色いツインテールの結び目を潰さないように、撫でるというより熱を確かめるみたいな手つきだった。


「ほら、食べたんなら今日はもう戻り。寄り道せんと部屋帰りや」

「はぁい」


 クレアはまだピザのことを考えていそうな顔で頷く。口元には黄身の色が少しだけ残っていて、パケラスはそれを親指の腹で雑に拭った。


「ルシアンのとこ行ったらあかんよ」

「うん。さわろうとしてきたらにげる!」

「そこやなくて、最初から近づかんでええねんけどな……まあええわ」


 呆れたように言いながらも、声はさっきまでよりずっと穏やかだった。クレアは椅子から降りると、皿を抱えたまま数歩進み途中で振り返る。


「ピザおいしかった!」

「そらよかった」


 そう短く返して、もう一度だけ頭を撫でる。クレアはそれで満足したように笑い、ぱたぱたと医務室を出ていった。扉が閉まる。



 その閉まる音を境に、部屋の温度が少し変わった。


 ついさっきまでそこにあった子どもの明るさだけが先に廊下へ抜けて、白い部屋にはチーズの匂いと換気音、それから言い残された話だけが沈んで残る。私は、クレアの頭を撫でていた手つきをまだ少し見ていた。ああいうふうに何でもない顔で触れられることを、ほんの少しだけ羨ましいと思った自分に気づいてすぐ視線を逸らした。


 パケラスは立ったまま一度だけ深く息を吐いた。それから机の脇へ戻り、術式盤の横に置かれていた端末へ手を伸ばす。さっきピザを運んできた護衛へ短い確認だけを飛ばしたらしい。画面を二、三度叩く指先には、もうさっきの柔らかさがない。


「……今どこおる」


 独り言みたいに落とした声のまま返事を待つ。沈黙は短いはずなのにやけに長く感じた。やがて画面の向こうで何か返ってきたのか、パケラスは目だけを細める。


「外か。ならええ。今は近づけんなや」


 それだけ言って通信を切る。確認で済ませたのだと分かるのに、その短さの方がかえって怖い。怒鳴ることもなく騒ぐこともなく、逃げ道だけ先に消していくやり方だった。


 端末を机へ伏せると、パケラスはそのまま私の方を見た。


 まともに視線が合う前から見透かされた気がした。私は何も言っていない。何も言っていないのに、さっきクレアが肩から胸元を指した瞬間、自分の呼吸が止まったことだけは多分見られていた。


「……その顔見る感じ、お前もルシアンになんかされたな」


 低い声だった。責めるわけでも詰めるわけでもない。ただ見落とさへんぞ、と言われているみたいな声だった。


 私はすぐには答えられなかった。

 答えたくないというより、今更口に出すことに妙な抵抗がある。自分のことになると、途端に言葉の置き場所が分からなくなる。前に裂かれたシャツの感触も、胸元へ落ちた視線も、傷跡を値札みたいに読まれた不快さも、私の中ではもう一度片づけたものになっていた。片づけたというより、見ない棚へ押し込んだだけかもしれないけれど。


 パケラスは急かさない。机にもたれたまま、こちらの顔色を見ている。


「……服、裂かれたんだよね」


 声が思っていたより乾いていた。


「それで、胸とか傷とか見て勝手に品定めみたいなことされた」


 そう言った途端、医務室の白さが少しだけ痛くなる。あの場の冷たい空気まで遅れて戻ってくる気がして私は無意識に肩を抱きそうになったが、途中で止めた。


 パケラスはしばらく何も言わなかった。机へ預けていた指先だけが、ほんの一度だけ硬くなる。


「……それ、先に言わんかい」

「言う流れでもなかったでしょ」

「そういう問題ちゃう」


 返しが早い。怒鳴ってはいないのに、そこだけは一歩も引かない声音だった。

 私は少しだけ視線を逸らす。


「でも、クレアにしたのと同じ意味ではないと思う」

「同じやなくても、越えたらあかん線は越えとる」


 ぴしゃりと切るみたいに言われて、私は口を噤んだ。


 パケラスは目を伏せ、鼻梁のあたりを指で押さえる。怒りを整えている仕草だった。感情の出し方を知っている人間の動きだと思う。知っているからこそ今は爆発させないのだろう。


「アイツ、昔からたまにズレとる思とったけど、ズレとるで済ませたらあかんとこまで来とるな……。南西の魔術師はみんな頭おかしいやつばっかりやったけど」


 呟きはほとんど独白だった。

 それから顔を上げる。さっきクレアに向けていた保護者の目でも、護衛へ向けていた軽い目でもない。監察局の内側で、人を処理する順番を考えている顔だった。


「一応聞くけど、他に何された」

「これといって……。視線はずっと気持ち悪かったけど」

「それも十分あかん」


 その一言だけが変に重かった。私が軽く扱おうとしていたものへ、別の重さを勝手に置かれる感覚がある。


 パケラスは端末をもう一度手に取った。今度は入力の音が少しだけ速い。


「今日中に一回締める。クレアから隔離して、お前にも近づけんようにする」

「締めるって……」

「言葉の意味そのまま受け取らんでええよ」


 と言いながら、その目はあまり冗談を言っていない。


「……まあ、半分くらいはそのままでええけど」

「全然よくないでしょ」

「せやな」


 そう短く返して端末を置く。完全に気が済んだわけではない顔だったが、それでもさっきみたいに今すぐ立ち上がることはしないらしい。クレアの前で怒り切れなかった分だけ、逆に順序立てて潰す方へ頭が回っているのだと分かった。


 私は、自分の皿の上で少し冷めたピザを見た。縁のチーズはもう固まりかけていて、触っても最初みたいには伸びない。たった数分なのに、さっきまでの食卓の空気がもう遠い。


 パケラスはそんな私を見て、少しだけ眉を上げた。



「で」

「……何?」

「お前、さっきからピザ全然進んでへん」

「だって、話が話だったから……」

「そういう話したあとでも食うときは食う。食わんと頭回らん」


 それは多分医者の理屈でもあり、この人自身のやり方でもあるのだろう。怒りも不快も棚へ上げるのではなく、一旦机の脇へ寄せて必要な順番だけ守る。その雑さが妙に現実的で、少しだけ息がしやすくなる。


 パケラスは自分の冷めたピザを持ち上げ、さっきまでの険しさが嘘みたいな顔で一口齧った。数回だけ噛んで飲み込み、紙ナプキンで指先を拭く。そこで一度、手が止まった。

 ほんの一拍だった。けれど止まり方が妙だった。指先から力が抜けたわけでも、何かを考え込んだわけでもない。もっと機械の噛み合わせみたいに、動きだけが急に引っ掛かった感じだった。


 パケラスは何事もなかったみたいに端末をポケットへ滑らせる。


「……まあ、ほな僕ちょっと行ってくるわ」

「行くって?」

「報告やら連絡やら諸々。放っといたら後で余計だるなるしな」


 机の端に置かれていた記録板を引き寄せ、ざっと何かを書き足す。走り書きに近いのに手は迷わない。白衣の裾がわずかに揺れて、さっきまでクレアの頭を撫でていたのと同じ手が今度は事務的に頁をめくる。


 けれど、その横顔は少しだけ白かった。


 元から白衣の下で血色の良い人ではない。けれど今はそれとも違う。表情を作る筋肉だけでどうにか立たせているみたいな、妙な薄さが顔の上にあった。怒っているだけではない気がする。怒りより先に、別の何かを無理やり奥へ押し込めている顔だった。


「お前はそのへん食べとき。変に考え込みすぎんなよ」

「そんな簡単に切り替えられないんだけど」

「切り替えろとは言うてへん。止まるなって言うとるだけや」


 それだけ言って、記録板を閉じる音が小さく鳴る。パケラスは椅子の背へ掛けていた白衣を取り、袖へ腕を通した。薄い布が擦れる音が、換気音の下でやけに乾いて聞こえる。


 その途中で、彼は一瞬だけ喉元に手をやった。


 癖みたいな動きだった。咳をこらえる時とも異なり、襟を直す仕草でもない。何かがそこまで込み上げてきて、それを指先で押し戻したみたいな仕草だった。すぐに手は離れたが、その後口の端だけがわずかに硬くなる。


 私はそこで、ようやく少し違和感を覚えた。怒りと別の何かを誤魔化す人の動きに見えた。医務室の白い壁に囲まれてさっきまであれだけ自然にクレアへ笑っていた人が、急に自分の身体とだけ噛み合っていない感じがする。


 パケラスは扉の前まで行って、何を思ったのか一度だけ振り返った。


「何かあったら呼びや」


 いつもの軽い言い方だった。軽いのに、声の底だけ少し掠れている。

 私は反射的に頷く。


「……うん」

「ちゃんと食べとき」


 軽く手を上げる。その手は普段通りに見えたが、扉へ触れる寸前、ほんのわずかに指先が震えた気がした。気のせいかもしれないと思うくらいの揺れだった。けれど気のせいで片づけるには、さっきから細かい引っかかりが多すぎる。


 パケラスはそのまま医務室を出ていった。扉が閉まる音は静かで、白い部屋には換気音と少し冷めたピザの匂いだけが残る。

 私は皿の上の一切れを見下ろしたまま、しばらく動けなかった。何かを押し込めた人の喉元が、妙に頭へ残っていた。

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