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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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93.幼さという残酷

 しばらくしていると、医務室の外で靴音が止まった。白い扉が二度だけ控えめに叩かれ、その直後、紙箱の擦れる乾いた音といっしょに護衛が入ってくる。消毒液の匂いに混ざって、焼けたチーズと油、それから濃いトマトソースの匂いが一気に部屋へ広がった。無機質な白に、あまりにも生活のほうが強い匂いだった。


「毎回毎回、我々に持ってこさせないでくださいよ」


 箱を抱えたまま護衛が露骨に眉を寄せる。呆れているのか本気で嫌なのか、どちらともつかない顔だった。


 パケラスは術式盤の脇からその様子を見て、悪びれもせず片手を上げた。


「悪いなぁ」


 声だけは軽い。軽いだけで、そこに反省の類は一つも見当たらない。多分、次も同じことをやるのだろうと分かる言い方だった。


 護衛は何か言い返しかけたが、その前に廊下の向こうからぱたぱたと忙しない足音が近づいてきた。次の瞬間、扉の隙間から明るい声が飛び込んでくる。



「ピザだぁ!」


 そのまま小さな影が勢いよく医務室へ入り込む。黄色い髪が跳ねて、白い照明を受けてきらきらした。空気だけが急に年齢を失ったみたいに軽くなる。


 パケラスは箱へ伸ばしかけていた手を止め、その子へ顔を向ける。さっきまで護衛に向けていた雑な調子とは明らかに違う。


「おう、元気にしとったか」


 柔らかい声だった。医務室の壁に当たっても尖らない種類の声音で、私は少しだけ目を瞬かせる。


 同時に、パケラスがほんのわずか護衛へ目をやる。その合図だけで十分だったらしい。護衛は肩をすくめ箱を机へ置くと、もう何も言わずに医務室から出ていった。扉が閉まる音は静かで、けれど明確に場の輪郭を変えた。


 残ったのは、ピザの匂いと白い部屋とクレアだった。


 十三歳、と聞けば年相応に見えなくもない。けれど立ち方や目の動かし方には、もっと幼いところで時間が止まってしまったような危うさがある。黄色のツインテールは玩具みたいに鮮やかで、揺れるたび照明を細かく弾いた。瞳はアイスブルー。氷菓子の底みたいに淡く透き通っていて、表情が動くたびにきらきら光る。全体としては無邪気で可愛いと言ってしまえる造形なのに、見ていると時々どこか現実の縮尺から外れている気がする。


 そのうえ胸元だけが妙に早い。年齢に対して不釣り合いなくらい丸みがあって、ざっと見てもCはある。私はそこで、胸だけは私より成長が早いんだなと、あまり品の良くないことをぼんやり思った。


 その子――クレアは、部屋の中を一度だけ見回し、それからぱっと私を見つけた。アイスブルーの瞳が大きく開く。


「あー! ルシアンとたたかってた人だ!」


 真っ直ぐ指を差される。

 私は一瞬だけ言葉に詰まり、その細い指先を見たまま、別の部屋の空気を思い出す。



 少し前、私が「クレアって誰?」と尋ねたとき、ハディートは珍しく言葉を濁したワケありの東の魔術師。リガルディーもまた、本人に出自が知れるとよくないくらい傷を負わされた子なのだと慎重に言葉を選んでいた。



 あぁ、とそこでようやく線が繋がる。

 あの時に言っていた子か、と私は胸の内だけで小さく納得した。


 クレアはそんなこちらの理解など待たず、ピザの箱へ顔を寄せて、甘い期待そのままの目でパケラスを見上げる。白い医務室に満ちたチーズの匂いが、さっきより少しだけ濃くなった。


 パケラスはクレアの視線の先を見て、箱の蓋を軽く叩いた。


「揃ったことやし、ピザ食おか」


 言うなり立ち上がり、ベッドの横へ寄せられていた小さな台を片手で引いてくる。脚が床を擦る音が短く鳴り、白い床へ細い軌跡を引いた。その上へ箱を置くと、医務室らしからぬ油の匂いがまた少しだけ強まる。消毒液の冷たさに、焼いた小麦とチーズの熱が無理やり割り込んでくる感じだった。


 クレアはもう待ちきれないらしく、つま先を忙しなく上下させている。パケラスはそれを一瞥すると、部屋の隅へ積まれていた丸椅子を引き寄せた。


「ほら、クレアはここ座り。転ばんようにな」

「はぁい」


 返事だけは妙に素直だった。クレアは丸椅子へよじ登るようにして座り、箱を覗き込んで目を輝かせる。ツインテールが肩のあたりで揺れて、そのたび黄色い毛先が白い光を細かく拾った。


 私はベッドの端へ腰掛けたまま、その様子を見ていた。医務室で丸椅子を囲んで、皆でピザを食べる。並べるだけなら滑稽なはずなのに、ここでは何が普通で何が普通ではないのかもう少しよく分からなくなっている。


 パケラスが箱を開ける。湯気はもう強くないが、熱と一緒に濃い匂いが立ちのぼった。チーズが少し端で固まりかけていて、トマトソースがところどころ赤く光っている。切り分けられた円を前にして、クレアは拍手でもしそうな顔になっていた。


「いっぱいある!」

「あるなぁ。せやけど慌てて食うたら舌やるから、ちょっと待っとき」


 そう言いながらパケラスは紙皿を出し、一つ一つ取り分けていく。指先の動きは妙に慣れていた。患者の処置と同じ手つきでピザを配る医者というのも大概おかしいが、ここまで来るともういちいち驚くのも面倒だった。


 クレアは皿を受け取る前に、ふと思い出したように顔を上げた。



「パパー、おしごといそがしいの?」


 私はそこで思わずパケラスを見た。

 親だったのか、という驚きが先に立つ。年齢差だけ見ればギリギリおかしくはない。おかしくはないが、さっきまでのやり取りや周囲の空気と、目の前の「パパ」という呼び方がうまく噛み合わなかった。


 当のパケラスは、皿を渡しかけた手を止めて目を丸くする。


「僕はパパやないって」


 珍しく少しだけ慌てた声音だったが、すぐにいつもの柔らかい調子へ戻す。


「ジジイに見える人みんなパパって呼んだらあかんやろ。悪い人に狙われるで」


 クレアはきょとんとした顔で瞬きをしただけで、あまり分かっていないらしい。分からないまま納得したふうに「ふぅん」と言って、皿の上のピザへ視線を戻してしまう。


 私は一応、確認しておくことにした。


「……血縁じゃないですよね」


 聞き方が妙に事務的だったかもしれないと思うが、他に言いようがなかった。


 パケラスは苦笑して肩をすくめる。


「ちゃうちゃう。なんならクレア、老けた男だったらパパって呼んどる」

「それもう概念としてのパパじゃないですか」

「せやろ。僕もそう思うわ」


 軽口みたいに返しながらも、その笑いは少しだけ薄い。誤魔化すのに慣れている人間の顔だった。

 クレアはその会話の意味を深く取らないまま、今度は本当に気になったことをそのまま口へ出す。


「じゃあ本当のパパは?」


 部屋の空気が、そこでほんのわずか止まった。

 止まったように感じたのは私だけかもしれない。クレアの目は相変わらず真っ直ぐで、何も悪いことを言ったつもりなど一切ない顔をしている。丸椅子の脚がかすかに鳴り、どこか遠くで換気の音が低く続いていた。


 パケラスは一瞬だけ言葉を失い、困ったように頭を掻いた。



「パパはな、海外で出稼ぎしとるんや」


 自分でもその言い訳の苦しさを分かっているように、少しだけ目を逸らす。


「そない簡単には会われへんよ」

「そっかぁ」


 クレアはそれで満足したらしく、深く追及はしなかった。

 幼いというのは、時々残酷なくらい救いになる。疑うための形がまだ育っていないから、渡された言葉をそのまま手のひらで受け取ってしまえる。


 私はその二人を見ていた。

 今のはぐらかし方を見ていると、多分触れてはいけないのはこれなのだろうと思う。真実が何なのかまでは分からない。


 パケラスは何事もなかった顔でクレアの皿へピザを置き、それから私にも一切れ差し出した。


「ほら、冷める前に食べ」


 その声音はやはり優しい。優しいが、その下へ押し込めたものまでは隠しきれていない気がした。クレアはもう先の話を忘れたみたいに、熱い熱いと言いながら嬉しそうに端を齧っている。チーズが伸び、トマトソースが唇の端へ少しだけついた。


 パケラスはもう一つの箱も引き寄せ、自分の机の方へ広げた。蓋が開くと、さっきとは少し違う匂いが立つ。焦げたチーズと塩気の奥に、ベーコンの油、それから卵の甘い熱が混ざっていた。白い照明の下で、真ん中の半熟卵だけがつやつやと妙に柔らかく見える。


「クレアが好きなビスマルクや。卵割って食べな」


 その言葉を聞いた瞬間、クレアの顔がぱっと明るくなった。


「やったぁ!」


 丸椅子の上で体ごと弾む。アイスブルーの瞳が本当に光を含んだみたいにきらきらして、ツインテールの先まで浮き立って見えた。パケラスはそんな様子に慣れ切っているのか、特に大げさな反応もせず、紙皿を少しだけ手前へ寄せてやる。


 私はその光景を見てちょっとだけいいな、と思った。


 ただのピザだ。卵を割るだけの話で、きっと他人から見れば取るに足らない、どこにでも転がっている食事の一場面なのだと思う。

 けれど、そういうどこにでもあるものほど、見ていると胸の奥へ遅れて沈んでくる。こういうふうに誰かが当たり前みたいに好きなものを覚えていて、食べ方まで知っていて、少しだけ先回りして笑わせるような時間が自分の過去にもあれば良かったのに、と。


 創られているんだし……とその考えが続いたところで、自分でも少し嫌になる。ないものを惜しむには、私の過去はあまりにも都合よく整いすぎている。整えられたものの欠落を数えようとするのは変な話だ。それでも羨ましいものは羨ましいので、感情だけが理屈から少し遅れて残る。


 パケラスがそんな私の顔を見たらしい。卵へ伸びるクレアの手元を見守りながら、口元だけで笑う。


「なんや、卵割りたかったんか」

「そ、そういうわけじゃないよ?」


 思っていたよりずっと素で返してしまった。もっと何か、気の利いた受け流し方もあったはずなのに、変なところを突かれたせいで声が一段高くなる。


 パケラスはおかしそうに肩を揺らしただけで、それ以上は追ってこない。クレアは二人のやり取りなど気にする様子もなく、フォークの背でそろそろと黄身の真ん中へ触れた。薄い膜が崩れると、中から濃い色がとろりと流れ出す。焼けた生地の上へ広がって、ベーコンの縁をぬらし絡んでいく。


「わあ……」


 小さな歓声が漏れる。クレアはそれだけで一度満足したみたいな顔をして、それから嬉しそうに一口齧った。口元へついた黄身を気にも留めず、もぐもぐと頬を動かしている。見ているこちらまで少しだけ力が抜けるような食べ方だった。



 パケラスはそんな様子を横目で見て、ふっと声を落とした。


「今月はあんまり構ってあげられへんくてごめんな」


 謝り方まで柔らかい。大人が子どもに向ける言葉というより、傷つけないように包んで渡すみたいな言い方だった。

 クレアは口の中のものを急いで飲み込むと、すぐに首を振る。


「だいじょうぶ! ルシアンが遊んでくれるよ!」


 その返事は明るすぎるくらい明るくて、医務室の白さに妙に似合わなかった。似合わないのに、今はその方が正しい気もする。


 パケラスは一瞬だけ目を細め、それから露骨に呆れた顔になる。


「まあアイツはギリギリ留年逃れたから、今遊びまくっとるんやろな」

「ルシアン、すごいよ! すぐへんなことする!」

「あのアホ何してるんや」

「なんかねー、へんな絵描いたり、急に歌いだしたり、()()()()()()()()()()()()()()


 パケラスの声が、そこで止まった。

 止まったというより、途中で別の温度に差し替わったみたいだった。さっきまでクレアへ向けていた柔らかさが音もなく剥がれ落ちる。笑っていた口元だけがそのまま残り、目の奥だけが急に冷えた。


「あ、ほんまか」


 その一言で部屋の空気が一段沈む。クレアはまだ自分が何を言ったのかをよく分かっていない顔で、食べかけのピザを持ったままきょとんとしている。半熟卵の黄身が生地の縁から少し垂れて、紙皿の白へ細くにじんだ。

 パケラスはその皿を一度見て、それからクレアへ視線を戻した。声はできるだけ平らにしようとしているのが分かる。だが、抑え切れていないものがその下で軋んでいた。


「どこ触られたん」

「えっとね、ここらへん」


 クレアは悪気なく、自分の肩から胸元のあたりを曖昧に指した。説明としてはあまりに無邪気で、だからこそ余計にまずい。


 私は反射的に息を止めた。

 ルシアンならやる、と思った瞬間、前に裂かれたシャツの感触まで遅れて蘇る。冷笑まじりに胸の薄さを値踏みされ、傷跡まで素材みたいに眺められた視線は、羞恥より先に身体の境界そのものを軽く踏み越えてきた。あれを冗談みたいな顔でやる男だ。


 パケラスは数秒間何も言わなかった。怒鳴るわけでもなく、机を叩くわけでもなく、ただ黙っている。その沈黙の方が余程怖い。白い照明の下で、彼の横顔だけが妙に硬く見えた。



「……ほな、()()()()()()()()()()()()


 ぽつりと落ちた言葉は静かだったが、静かすぎて逆に冗談に聞こえない。医務室の換気音だけが低く続いていて、その一言だけがそこへ重く沈んだ。


 クレアがびくっと肩をすくめる。


「パケラス……こわいよ」


 さっきまで楽しそうに揺れていた声が、そこで初めて幼い方へ戻った。アイスブルーの瞳が少し潤んで、丸椅子の上で身体が縮こまる。自分へ向けられた怒りではないはずなのに、怒りそのものの輪郭に怯えてしまったのだと分かった。


 パケラスはそこで、はっとしたように眉を寄せた。舌打ちこそしなかったが、噛み潰すみたいに一度だけ息を吐く。それから椅子を少し引いてクレアの目線まで屈み、なるべく低く、なるべく柔らかい声へ戻そうとする。


「……怖がらせるつもりやなかってん。ごめんな」


 クレアはまだ少し警戒した顔のまま、ピザを持つ手に力を入れている。

 パケラスは困ったように頭を掻き、それでも怒りを引っ込めきれないまま続けた。


「でもな、ダメなもんはダメや。そういうんは遊びとちゃう」


 言葉を選んでいる。選んでいるが、選ぶたびに苛立ちまで表へ浮いてくる。


「ほんま、ハディート並みに倫理観ないなぁあのバカは……」


 呆れたように吐き捨てるその名前に、私は少しだけ反応しそうになる。けれど今は口を挟まない方がいいと分かった。これは多分私たちの会話ではなく、クレアの側で整えなければいけない話だ。


 クレアは首を傾げた。


「りんりかん?」

「……あかんことを、あかんって分からん感じのことや」

「ルシアンってバカなの?」

「救いようもないカスやな」


 即答だった。

 その即答に、クレアは少しだけ安心したらしい。怖い話が、自分の理解できる単純な形へ戻ったからだろう。小さく笑って、「じゃあ今度、さわったらだめって言う」と言う。


 パケラスは眉間を押さえたまま頷いた。


「言うてええ。というか言わなあかん。嫌やったら逃げてええし、僕でもイグナスでもメイザースでも、その場で誰か呼び。()()()()()()()()()()()()

「うん」

「笑ってても、相手がふざけとる顔してても、嫌なもんは嫌でええからな」


 その言い方には、さっきまでの怒気とは別の重さがあった。ただ叱るだけでは済ませたくない人間の声だった。クレアは完全に理解しているわけではなさそうだったが、それでも真面目な話だとは感じたのか、いつもより素直にもう一度頷く。


「わかった」


 パケラスはそこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。抜いたといっても、怒りの芯までは消えていない。まだ腹の底で火が残っているのが、見ているだけで分かる。


「……まあ、あとでルシアンにはそれとなく言うとくわ」


 しばきに行く、と言ったときよりは温度が下がっていた。下がってはいるが、だからといって無罪放免の響きでもない。静かに逃げ道を塞ぐ側の声音だった。


 クレアはもうその話から半分意識が離れていて、冷めかけたビスマルクの縁を齧りながら、「ルシアン泣いちゃうかな」と無責任に言う。


「泣かせたらええねん」


 パケラスは真顔で返した。

 怒っているのに、その怒りの行き先が完全には爆発しないまま妙な形で着地していく。多分これが、この人なりにクレアの前で抑えた結果なのだろうと思う。


 クレアはそんなことも気にせず、「じゃあ今度から歌ったらにげる!」と宣言し、さっきよりずっと慎重にピザを持ち直した。黄身がまた少しだけ指へつく。パケラスは反射みたいに紙ナプキンを差し出し、その手つきだけは何事もなかったみたいに優しい。


 白い医務室にはまだチーズの匂いが残っており、その下にさっき一度だけ剥き出しになった怒りの熱も薄く沈んだままだった。

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