92.クレアの問診日
紙から目を離したのは、そこへ書かれているものが分からなかったからではない。
分からないなりに、あれが今の私に触れていい種類のものではないとだけは分かってしまったからだ。
机の端へ視線を落としたまま、私は一度だけ浅く息を吐く。それから、見なかったことにするみたいに背もたれへ身体を戻した。手元灯はまだ点いている。紙もそのままある。けれど、もうそっちを見ないと決める。知りたくないというより、知ったら今よりもっと落ち着かなくなる気がした。
窓の方から入る光は、さっきより少しだけ強くなっていた。
白い壁の輪郭が昼へ寄っている。何時なのかは分からないけれど、少なくとも夜ではなかった。部屋の空気も、夜の薄さではなく昼前の中途半端な温度へ変わっている。空調の音は相変わらず低く続いていて、その下でパケラスの寝息だけが規則的に響く。
その寝息が、不意に途切れた。
私は反射的に顔を上げる。
ベッドの端で、パケラスの肩がゆっくり持ち上がる。次の瞬間、彼はほとんど遠慮もなく大きな欠伸をした。顎が外れそうなくらい口を開け、喉の奥の暗い影まで見える。目の端にうっすら涙まで滲んでいる。ついさっきまで床に倒れていた人間の起き方には見えなくて、逆に妙だった。
「……ふぁあ」
間の抜けた音が漏れ、そのままもう一度小さめの欠伸が続く。
私は黙ったままそれを見ていた。見ているうちに、さっきまで胸に残っていた緊張の形が少しだけ変わる。本当に死にかけていた人間は、こんなふうに何事もなかった顔で欠伸をしない気がした。
パケラスはようやく瞼をこすり、寝返りも打てない狭い姿勢のまま私を見る。灰色の目はまだ半分くらい眠っているのに、そのくせ口だけは先に動いた。
「……人の椅子、取っとるやん」
第一声がそれだった。
私は一瞬だけ言葉を失う。
それから、呆れと安堵が変な形で混ざったまま返した。
「寝床を取られたんですけど」
「そら悪かったなあ」
悪かったと思っている声ではない。けれどさっきの軽口よりは少しだけ素直だった。パケラスは片手で顔を覆い、そのまま数秒動かない。起き上がるのも面倒らしい。白衣の裾はまだ少し乱れていて、髪も寝起きらしく崩れていた。
やがて顔を覆っていた手を外し、小さく息を吐く。そのままベッドの縁へ手をつき、少しだけ顔をしかめながら立ち上がった。さっきみたいに崩れはしないが、動きはやはり本調子ではない。重さをごまかすみたいに白衣の裾を払うと、私と椅子、それからベッドの位置を見比べた。
「そこ、しんどいやろ」
そう言いながら、ベッドの手前側についている柵へ手を伸ばした。金具を外す小さな音がして、柵が下りる。いつもは寝ている人間が落ちないためのものなのに、今は逆に座りやすくするために外されているのが少し変な感じだった。
「こっち座る?」
「……戻れるならその方がいいです」
そう答えると、パケラスはまだ少し気だるそうな顔のまま、妙に色めいた声を出した。
「ほな、お姫様抱っこしてやろか」
私は一瞬だけ黙る。
言っている内容の軽さと、ついさっきまで床へ倒れていた人間の顔が噛み合っていなかった。
「こ、これくらいの距離ならギリギリ歩けます……」
思ったより小さい声になった。
パケラスはそこで小さく笑う。
「そこは断るんやな」
「断りますよ」
私は椅子の肘掛けへ手をつき、ゆっくり立ち上がる。脚の奥が頼りないが、椅子からベッドまでは数歩だ。本当に数歩しかない。そう思い聞かせて床を踏む。ふらつきはするが倒れはしない。パケラスは途中で手を貸そうともせず、ただすぐ届く位置で見ていた。助ける気がないのではなく、私が自分で歩ける範囲を見ている感じだった。
ベッドの縁まで辿り着いて、私はようやく腰を下ろす。
マットレスが沈む。椅子よりずっと柔らかい。足の裏から少しずつ力が抜けていく。たったそれだけの移動なのに、息が軽く上がっていた。自分でも情けないと思う。パケラスはそれを見て、何か言うでもなく一度だけ頷いた。
「十分や」
「十分じゃないです」
「今の君にしては、の話や」
そう言うと、パケラスは自分がさっきまで私が座っていた椅子の方へ向かう。机の前まで二、三歩戻り、背もたれへ片手をかけて、そのままゆっくり腰を下ろした。座る動きだけで少しだけ眉を寄せたが、何事もなかったみたいな顔を作るのは早かった。肘掛けへ肘をつき背もたれへ体重を預けると、ようやく元の場所へ収まった感じがした。
パケラスは片手で顔を覆ったまま、しばらくその姿勢で止まっていた。起きたには起きたが、身体の芯はまだ重いらしい。やがて指の隙間から小さく息を吐き、手首を返して腕時計を見る。
「……昼前やな」
そう呟くと、今度は顔を覆っていた手を外し少しだけ天井を見る。何か思い出した時の間だった。
「そういや今日、クレアの問診の日やったわ。ピザでも取るか」
あまりにも唐突で、私は一瞬ついていけなかった。
「……クレア?」
聞き返してから、もう一つ別のことが気になる。
私はベッドの縁へ手を置いたまま、まだ少し青い顔をしている彼を見る。
「というか、病み上がりなのに大丈夫なんですか」
「病み上がりって言い方やめてくれへん? そこまで大層なもんちゃう」
「床に倒れてた人が言っても説得力ないです」
「手厳しいなあ」
そうは言ったが、パケラスは否定しきらない。
そのまま机の方へ手を伸ばし、置きっぱなしになっていた紙束の下から一枚のチラシを引っ張り出す。色のついた印刷面が見える。近所の店の宅配メニューらしかった。
「クレアって、東の魔術師や。十三歳の可愛い女の子やで」
「女の子」
「せや。毎週木曜に状態を見とる」
「状態?」
私はそこで少し身を乗り出す。
問診、と言った。状態を見ている、とも。そうなると、普通は病気か怪我を想像する。だが、パケラスの言い方はそこへきっちりはまっていなかった。
「病気か何かですか?」
「いや、病気やないんやけど……」
珍しく言葉を濁す。
チラシを見たまま、ピザの名前を指で追っている。その仕草だけが妙に呑気で、話している内容との落差がひどい。
「ちょっと事情が複雑でな。成長の仕方があんまり普通やないんよ」
「普通じゃない?」
「うん。身体は大きなっとるし、魔術も使う。せやけど、中身の発達だけ昔のまま止まっとる」
私は黙る。
止まっているという言い方があまりにそのままで、逆にどう聞けばいいのか分からなかった。パケラスは私の沈黙を見て、小さく肩をすくめる。
「魔術師になった当初の癖が今もそのまま残っとる感じやな。五歳くらいの時から、そこだけうまいこと先へ進まへん」
「……五歳」
「せやから、毎週一回は顔見て様子を確認しとる」
問診、という言葉がようやく少し繋がる。
ただ熱を測るとか薬を出すとかそういう話ではなくて、もっと生活の芯に近いところの確認なのだろう。元気そうにしているか、変なことをしていないか、誰かを困らせていないか。そういう、病名にはならないが放っておけない種類の確認である。
パケラスはチラシを広げたまま、妙に真面目な顔で続ける。
「年相応の振る舞いをせえへんことがあるけど、驚かんといたってな」
「先に言ってくれてよかったです」
そう返すと、パケラスは少しだけ笑う。
それからチラシの端へ指を走らせ、商品の名前を何個か拾うみたいに目で追った。私はその横顔を見ながら、クレアという名前を頭の中で転がす。東の魔術師。可愛い女の子。五歳くらいから発達が止まっている。情報だけは増えるのに、全体像はまだ霧の向こうだった。
「何頼むんですか」
「んー……無難にマルゲリータと、あとアイツが好きなビスマルクやな。君、食える?」
「食べられるとは思います」
「ほな決まり」
パケラスはチラシの裏へ、手近なペンで商品名を短く書きつける。
字は寝起きのくせに妙に整っていた。二つ、三つ、簡単な記号みたいに並べて、それからチラシをぱたんと畳む。
私は何となくその手元を見ていた。
次の瞬間、パケラスが軽く指を鳴らす。
乾いた音が鳴って、畳まれた紙がその場から消えた。
「え」
間の抜けた声が出た。
消えた。床へ落ちたわけでもない。風に飛んだわけでもない。手の中にあったはずの紙が、指先の小さな音と一緒にそのまま消えた。
私は思わず目を見開く。パケラスはそれを見て、いかにも当然みたいな顔をした。
「店にオーダー出しただけや」
「今ので?」
「今ので」
「どういう仕組みですか」
「常連やから理解してくれとる」
「理解で済ませていい話なんですか、それ」
そう言うと、パケラスがくつくつと笑う。
さっきまで床に倒れていた人間の笑い方ではない。調子の良いいつもの顔だ。そこが少しだけ腹立たしく少しだけ安心もする。
「便利やろ」
「雑ですね」
「便利で雑なんが一番長続きするんや」
「今の説明、何もしてないのと一緒です」
「せやったら、魔術って大体そんなもんや」
そう言うと、彼はもう一度腕時計を見る。
昼前の光が窓から少しずつ濃くなってきている。部屋の空気は相変わらず医務室の匂いのままだったけれど、その真ん中でピザの注文だけがもう済んでいることが妙におかしかった。
パケラスは椅子の肘掛けへ肘をつきながら、だるそうに目を細める。
「そのうち来るわ。クレアも、ピザも」
どっちも同列に並べるなと思ったが、口には出さなかった。
机の上にはまだドイツ語の紙がある。聞かないと決めたものはそのままそこにあって、代わりにピザとクレアという新しい話だけがこちらへ近づいてきていた。




