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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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91.Profil der Halluzination

 私の寝床を奪われたという事実だけが少し遅れて頭に入ってくる。


 ベッドの端では、パケラスが何事もなかったような顔で目を閉じている。さっきまで床に倒れていた人間をそこへ寝かせたのは正しいのだろうし、実際そうするしかなかった。じゃあ私はどこにいればいいのか、という話は誰もしてくれない。立とうとしたが、脚の力がまた頼りなく揺れた。今の私は立ち上がろうとするだけで精一杯でそこから先へ進む術を持っていない。


 ノクティスがそれを見て、呆れた顔のまま口を開く。


「いつまで床に座ってるの」


 言い方がいちいち冷たい。

 けれど責めているというより、本気で分からないものを分からないまま聞いている響きも少しだけ混じっていた。私はベッドの柵へ手をついたまま、情けない返答をするしかない。


「椅子に座りたい気持ちは山々なんだけど、歩けないの……」


 そう口にしてから、自分でも非常に頼りない言い方だと思った。

 ノクティスはそこで一瞬だけ黙る。嫌そうな顔は嫌そうなままだったが、それでも次の動きは早かった。面倒だと判断した上で、それでも処理する側へ回る人の間だった。


 ローブの裾が揺れる。

 彼は私の前へ来ると、ためらいなく腕を取りそのまま私の手を自分の肩へ回した。


「立てる?」

「一応……」

「一応じゃ困るんだけど」


 困ると言いながら、もう片腕はちゃんと私の背を支えている。

 雑に見えるのに支える位置だけは妙に正確だ。私はそのままほとんど体重を預けるようにして立ち上がる。脚の奥が震える。床が遠い。自分の身体なのに、自分のものとして使えていない感じがまだ残っている。


 ノクティスは何も言わず、そのままゆっくり向きを変えた。

 連れていかれるのは、パケラスがいつも座っている机の前の椅子だった。背もたれの木は古く、座面には長く使われた癖みたいなくぼみがある。そこへ辿り着くまでの数歩が長く感じた。


 ようやく腰を下ろすと、膝から先の力が一気に抜けた。

 私は息を吐き、椅子の背へ深くもたれる。座れただけで少しだけ世界がまともになる。


「……そこは魔術で浮かせないんだ」


 半分皮肉めいて言うと、ノクティスは一度だけ私を見る。

 呆れたような、どうでもいいような、でも少しだけ本当にそう言われると思っていなかったような顔だった。



「帰るから」


 ただそれだけだった。

 次の瞬間、ローブの黒が灯りを拒むみたいに揺れて、ノクティスの姿は音もなく消える。風も残らない。さっきまでそこにいた人の気配だけが、少し遅れて空気から剥がれた。


*


 ……やることがなくなった。


 寝ろと言われても、この位置からまた自力でベッドへ戻れる気はしない。それに先客がいる。そうやってぼんやりしていると、どうしても机の上へ視線が行く。紙は何枚か重ねられていて、上の一枚には細い字がびっしり並んでいた。昨日までパケラスが書いていたものだ。


 私は少しだけ身を乗り出す。椅子が小さく軋んだ。紙の上には数字と記号の間を縫うみたいに、長い綴りが続いている。英語ではない。それくらいは分かる。アルファベットなのに、見慣れた単語の切れ目がどこにもない。子音が妙に続き、母音の上には点がついている。一目で英語ではないと分かった。


 ドイツ語だ。

 そう思ったのは読めたからではない。読めるわけがない。文法も語順も分からないしどこで切れるのかも曖昧だ。なのに、単語だけが時々勝手に頭へ引っかかった。


『Wahrnehmung』

『Reizschwelle』

『Fixierung』


 意味を説明しろと言われたらできない。ただ、その音の並びだけが()()()()()。知らないはずなのに、まるで一度どこかで聞いたことがあるみたいに、頭の奥へ沈む。読めるのではなく、思い出しかける感覚に近かった。それが余計に気味が悪い。


「……何これ」


 誰に言うでもなく呟く。もちろん返事はない。パケラスは寝ているしノクティスはもういない。


 それでも紙から目を離せなかった。

 数式らしいものは見える。見えるというより、数式として扱われていることだけは分かる。括弧、添え字、分子式、濃度、矢印。それを囲うみたいに、ドイツ語の注釈が細かく書き込まれていた。


『Dosis』

『Induktion』

『visuelle Auslösung』

『Nachbild』

『Persistenz』


 そこでも同じだった。意味は取れない。しかし、単語だけが妙に引っかかる。特に『Nachbild』と『Persistenz』あたりは、意味ではなく感触として嫌だった。何かが残るとか焼きつくとか、そういう方向の気配だけがある。……私の気のせいなのだろう。そう思いたいのに、紙の上の文字は全部治すためのものには見えなかった。


 次のページを少しだけめくる。そこにはもっと細かい字で、『Halluzinationsprofil』と書かれていた。


 私はそこで手を止める。

 幻覚、という言葉だけはどうしてか輪郭が立った。立ってしまった。説明できるほど分かるわけではない。それがそういう種類の単語だと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。続く行にも、『gezielte Auslösung』『Bindung an Erinnerung』と、並んでいる。意味は分からないが、その並びがろくでもない方向を向いていることだけは分かる。


 胃のあたりが少し冷えた。

 薬の配合だと言われれば、形としてはそう見えなくもない。だが風邪薬や鎮痛剤の類ではない。もっと脳の奥の、夢と現実の間みたいなところを弄るための紙に見えた。特定の像を見せるための何か。記憶へ結びつけるための何か。もちろん、そこまで正確に読めているわけではない。ただ、読めないなりにこれは人を楽にするためのものではないと察してしまう。


 紙の端には書き直した跡が何本も重なっていた。迷っていたのではなく、精度を詰めていた跡に見える。そこだけで余計に気分が悪くなる。パケラスはこういうものをいつもの椅子に座って、鼻歌でも混じりそうな顔で書ける人間なのだと思った。


 私はそこでふと、ベッドの方を見る。

 パケラスはまだ起きない。白衣の襟元は少し乱れたままで、顔色も完全には戻っていない。さっきまで床に倒れていた人の顔だ。


 視線を紙へ戻す。

 読めない。読めないくせに、危ないものだという感じだけがある。私は文系だし、化学式なんて高校の時点で半分以上置いてきた。……いや、これもきっと()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ドイツ語なんて本来なら一単語も分かるはずがない。それなのに、時々勝手に引っかかる音がある。


 椅子の背にもたれ直す。木の冷たさが肩甲骨へ触れる。

 机の上の 『Wahrnehmung』。ベッドの上の寝息。さっきまで床に倒れていた人が残したものが、あまりにも違いすぎた。

 私はしばらくどちらを見ればいいのか分からなかった。

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