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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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90.雑な救護

 私はふらつく脚のまま数歩だけそちらへ寄った。床へ膝をついたノクティスは、私が来るのを一瞥しただけで止めはしなかった。


 ノクティスはそこでふと何かに気づいたみたいに眉を寄せる。そのままパケラスの左腕へ手を伸ばし、白衣の袖を肘まで捲る。

 肘の内側に真新しい注射痕が残っていた。

 赤い点が一つ、その周りにごく浅い青みが滲んでいる。私はそこで思わず足を止める。見えた瞬間、倒れていた理由が単なる立ちくらみや寝不足ではないことだけは分かった。


 ノクティスはそれを見たまましばらく何も言わなかった。

 私はその沈黙に耐えきれず、思わず声を出す。


「……何ですか、それ」


 ノクティスはすぐには答えない。注射痕をもう一度だけ見て、それから袖を元に戻す。


「多分、放置してれば起きるよ」


 それだけ言って立ち上がる。

 安心していいのかどうか分からない言い方だった。


「放置って……」

「死ぬやつじゃない。反動で落ちただけ」


 言葉は短く切り方も冷たい。けれど、それ以上に聞き返す余地がないほど判断だけははっきりしていた。


「何の薬ですか」


 そこでノクティスは露骨に嫌そうな顔をした。私に聞かれたこと自体が嫌なのか、はたまた答えを知っていることが嫌だったのか。


「君には関係ないよ」

「関係あります。目の前で倒れてたんですよ」


 言い返した瞬間、自分でも思ったより声が強かったと思う。

 ノクティスの目が少しだけ細くなる。敵意が戻る。だが今度は剥き出しではなく、私が口答えしてきたこと自体を鬱陶しいと思っている顔だった。


「……いつも使ってる気付けに近い。集中を無理やり底上げする類の薬」

「そんなもの、なんで」


 答えは返ってこない。

 代わりに、床の上のパケラスが小さく息を漏らした。

 ノクティスがすぐにしゃがみ直し今度は頬を軽く叩く。さっきより容赦がない。二度目でパケラスの眉が寄り、喉の奥で濁った声が鳴る。


「ん……」


 掠れた呼吸が聞こえる。それからゆっくり瞼が持ち上がる。焦点が合うまで少し時間がかかったあと、その灰色の目がノクティスを捉え、次に私へ流れた。



「……なんや、二人とも起きとるやん」


 寝起きとは思えない第一声だった。

 無理にいつもの調子へ寄せたみたいな軽さで、余計に聞いているこっちの神経に障る。


「倒れてたのはそっちだよ」


 ノクティスが即座に返す。

 パケラスは床へ片肘をつき、だるそうに身を起こす。顔色はまだ悪い。けれど、口だけは元気だった。


「そらすまん」

「すまんで済むなら医務室いらないよ」


 言いながら壁へ背を預ける。立ち上がる気はないらしい。そこでようやく私の方を見て、少しだけ眉を寄せた。


「……朱音、ベッドから落ちたん?」

「落ちてません」

「ほな自分で落ちるみたいに座り込んでただけか」

「倒れてる人がいたからです」


 言い返したあとで少しだけ喉が詰まる。

 さっきまで本気で焦っていたことを今更思い出した。

 パケラスはその顔を見て小さく息を吐いた。それから視線をノクティスへ向ける。


「……そんな露骨に嫌わんといてや」


 ノクティスの目がまた細くなる。


「嫌う理由はある」

「あるのは知っとる。でも、レイを殺そうとしたんは朱音やないで。Babylonや。もっと言うなら、ウェイトが指示したんや。今おる朱音は悪くない」


 そこだけは、寝起きの掠れた声でも迷いがなかった。


 ノクティスは黙ったまま私を見る。視線の硬さは消えない。理屈として理解している顔ではある。けれど、理解していることと見え方が変わることは別なのだとその沈黙だけで分かる。私自身だって、逆の立場ならそう簡単には割り切れないと思う。


「……分かってるよ」


 ようやく出た声は低かった。


「分かってる。でも、そう見えないだけ」


 その言い方の方がかえって誠実だった。

 綺麗に納得したフリをされるよりマシだとどこかで思う。


 パケラスはそこで、ああ、という顔をした。

 そのまま腕を伸ばし私の頭をくしゃりと撫でる。予想していなかったので、私は少しだけ肩を震わせた。


「そう怒らんといて。朱音も目ぇ覚ましたばっかなんや」


 撫で方は雑だった。慰めるというより、落ち着けと強引に区切りを入れる感じだ。

 ノクティスはそれを見てまた露骨に嫌そうな顔をした。嫌そうなのに止めはしない。止める理由を今は選ばないと決めた顔だった。


「……別に、怒ってない」

「その顔で言う?」

「うるさい」


 そう短く切るが、その切り方の温度はさっきまでより少しだけ低い。敵意が消えたわけではない。今は一旦それで飲み込んでやる、というくらいの譲歩はしているのが分かる。


 パケラスはそこで手を引っ込め、今度は壁へ背を預け直した。起き上がっただけでだいぶ辛そうで、呼吸がまだ少し重い。それでも口は止まらない。


「魔術師同士敵対したって何の意味もないって、お前はよう分かっとるやろ」


 言い方は軽い。

 けれど、その言葉の芯だけは妙に重かった。


 ノクティスは答えない。

 答えないまま視線だけが一度だけ動く。私からパケラスへ、それからまた私へ。何かを測るみたいな、計算し直すみたいな間だった。


 部屋の空気が少しだけ緩む。

 私は頭へ残った手の感触に少し遅れて気づき、妙に落ち着かなくなった。撫でられたこと自体より、そのやり方があまりにも自然だったのが嫌だった。さっきまで床で倒れていたのに、この人はこういう時だけ平然としている。



「……何してたんですか」


 パケラスはその問いに、すぐには答えなかった。

 壁へ預けた後頭部を少しだけずらし、天井でも見るみたいに目を上げる。その間が妙にわざとらしい。答えを探しているというより、どう誤魔化すかを選んでいる顔だった。



「何って、自殺しよう思たら死にきれんかっただけや」



 軽い調子だった。

 軽く言えば軽く済むと思っている時の声だ。しかし、その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がまた少しだけ冷えた。


 ノクティスが目を止める。


「何で」


 間髪を入れずにそう返した声は、冗談を受け取った人間のものではなかった。

 私はそれより先に、喉の奥がぎゅっと縮むのを感じた。今のは笑うところでも流すところでもない。少なくとも、目の前で倒れていた人が言っていい種類の冗談ではない。


「そんな笑えない冗談言わないでください」


 思ったより強く言えた。けれど、声の端はちゃんと震えていた。怒っているのか、怖かったのか、自分でも分からない。ただ、今の一言をそのまま通したくなかった。


 パケラスはそこでようやく、こっちをまともに見た。それから少しだけ顔をしかめる。

 私がどんな顔をしているのか自分では分からない。思った以上に酷かったのだろう。さっきまで本気で死んだかもしれないと思っていた、その余韻がまだ引いていないままの顔だったのかもしれない。


「……悪い」


 短く言ったが、それだけでは足りないと思ったのか少し遅れてもう一度口を開く。


「いや、今のはこっちが悪かったわ」


 ちゃんと謝る声だった。

 軽口に逃げない。誤魔化すために笑わない。そこだけは真面目だったので、余計に怒りづらくなる。ずるいと思う。


 ノクティスは無言のまま二人を見ていた。

 さっきの「自殺」の一言を、どうやら本気で計算しかけていたらしい顔をしている。冗談の文脈より先に、言葉そのものの意味を拾う癖があるのだろう。少しだけ眉を寄せたまま、まだ納得していないみたいにパケラスを見ていた。


「死ぬ気はなかったんだよね」


 確認みたいな言い方だった。

 パケラスはそこで力なく笑う。


「ないない。そこまで面倒な方向にはまだいっとらん」

「まだって言い方もどうかと思う」


 ノクティスの返しは冷たい。

 本気で責めているというより、言葉の扱いが雑すぎることに腹を立てている響きが強かった。



「……結局、どういう理由なんですか」


 今度はさっきより低い声で聞く。

 責めるというより確認したい方が近い。あの注射痕も倒れていたことも、何一つ分からないままなのが落ち着かなかった。


 パケラスは少しだけ視線を逸らした。


「嫌な仕事の前に、ちょっと気合い入れただけや」


 またそうやって軽く流そうとする。

 私は思わず眉を寄せる。ノクティスも横で冷ややかな視線を送る。


「気付けに近い薬を打ったんじゃないの」

「せや」

「何のためにそんなことを」


 パケラスは今度こそまともに困った顔をした。困っているというより、これ以上は言いたくない場所の手前で足を止めている顔だ。


「眠かったから」

「嘘だ……」

「せやな」


 あっさり認める。

 認めるなら最初から言わなければいいのにと思う。だがこういう雑な会話を一回挟まないと、本当に言いたくないことに触れたときの空気に耐えられないのだろう。その感じだけは分かった。


 パケラスは壁へ預けていた肩を少しだけ直す。やっぱりまだ本調子ではない。喋って誤魔化しているだけだ。


「必要やったから打った。それでええやろ」

「よくないですよ」

「よくなくても、そういう時はある」


 言い方が少しだけ硬くなる。

 そこでようやく、これ以上踏み込まれたくないのだと分かる。はぐらかしているというより、本当にそこに線を引いている。


 ノクティスがそこで口を開いた。


「……今はやめて」


 短かった。

 私に向けた言葉でもあり、パケラスに向けた言葉でもある。これ以上聞いても答えは出ないし、出したところで碌なことにならない、そう言い切る声だった。

 私は唇を結ぶ。納得はしていないが、パケラスの顔色の悪さとさっき床へ倒れていた姿がまだ頭から離れないままでは、それ以上押し切るのも違う気がした。


 パケラスは壁へ背を預けたまま、少しだけ目を伏せる。それから顔を上げ、今度は珍しく軽口へ逃げずに言った。


「その話は終わりや。触れんといて」

「じゃあ寝てて」

「嫌や」

「嫌じゃなくて寝る」

「倒れた直後に命令口調やめてくれへん?」

「やめない」


 短いやり取りだった。冷たいのにどこか慣れていた。さっきまで私に向いていた硬さとは違う種類の棘だった。


 パケラスは私の方を一度だけ見た。

 何か言いたげな顔をしたが、結局それ以上は何も言わなかった。言わないまま視線だけ外して、面倒そうに後頭部を壁へ預け直す。


 パケラスが閉じた瞼のままぼそりと漏らす。


「……しんど」


 その一言で、私は少しだけ力が抜けた。

 平然としているように見えても、本当に平気なわけではないのだと分かる声だったからだ。


「だったら黙って寝てて」


 ノクティスは返事を待つ気もない声だった。パケラスは瞼を閉じたまま、壁へ後頭部を預けた姿勢で口だけ動かす。


「人権ないなあ」

「このままにしておくと床でまた寝るでしょ」

「否定はしづらい」


 その会話の途中でノクティスは片手を軽く上げた。ローブの袖口がわずかに揺れる。何かを唱えるほどの間もなかった。ただ、空気の張り方だけが変わる。次の瞬間、パケラスの身体が床から数センチ浮いた。


 私は思わず息を呑む。

 白衣の裾がふわりと下へ垂れ、片腕が少しだけ揺れる。本人はもう抵抗する気もないらしく、浮かされたまま面倒そうに片目を開けた。


「……雑やな」

「運んであげてるだけ感謝して」

「感謝を要求するやつの善意、大体質悪いんよ」

「うるさい」


 ノクティスは取り合わない。

 そのまま、浮かせたパケラスを私のベッドの方へ寄せてくる。距離が近づく。白衣の袖がベッド柵にかすめ、金属が小さく鳴った。


 パケラスの身体は、見た目よりずっと静かに移動した。

 乱暴に放られるわけではない。けれど丁寧に扱われている感じとも少し違う。壊れものではないが、今はこれ以上崩されると面倒だという扱い方だった。


「ちょ、ノクティス。ここ朱音のベッドやろ」

「知ってるよ」

「ほなもうちょい、こう、遠慮とか」

「ない」


 そう言い切って、ノクティスは手を少しだけ下げる。

 浮いていた身体がゆっくり沈み、マットレスの端が重みでわずかにたわんだ。パケラスは小さく眉を寄せたが、文句を言う元気もその一瞬で尽きたらしい。肩から力が抜ける。白衣の裾だけが遅れて揺れを止めた。


「はい、終了」


 ノクティスの声は事務的だった。

 パケラスはベッドへ半分乗り上げたような体勢のまま、薄く目を開ける。


「患者の扱いちゃうなあ」

「床に倒れるような真似をしたのは君の自業自得」


 私のベッドのすぐ横、手を伸ばせば届きそうな位置にその顔がある。さっきまで扉のそばに倒れていた人が、今は私の寝台の端へ押しやられるみたいに寝かされている。その事実が妙に現実感を失わせた。


 ノクティスは一歩だけ下がり、その配置を眺める。問題ないと判断したらしく小さく顎を引いた。


「……次なんかやったら四肢拘束するから」

「なんや、僕に恨みでもあるんか」

「……別に」


 それきり、部屋はまた少し静かになる。

 マットレスの端でパケラスがだるそうに目を閉じる。ベッド柵のすぐ向こうにいるその横顔は、さっきより近いのに、少しだけまともに見えた。

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