89.保留された殺意
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目を開けた瞬間、最初に見えたのは相変わらず何も答えない天井だった。
昨夜と同じ色で、朝なのか昼なのか夜なのかもその色だけでは判別がつかない。ただ、頭の奥は重いままなのに、昨日よりは身体の輪郭が戻っている気がした。シーツの皺が脇腹に触れる感触も、ちゃんと自分のものとして分かる。
そこでようやく、妙に静かなことに気づいた。
机の方から紙をめくる音もしない。ペン先の掠れる音も、椅子が軋む小さな気配もない。夜、あの人は机に向かったまま何かを書いていたはずだった。だから私は少しだけ身を起こしいつもの位置を見た。
椅子はある。机もある。手元灯もついている。けれど、そこにいるはずの人がいなかった。
その代わり、ベッド脇の間仕切りカーテンが半端に閉じられていた。
昨夜こんな風だっただろうかと思う。記憶が曖昧で自信はない。けれど、白い布が中途半端に垂れているだけで、そこに本来ないはずの気配が溜まっている気がした。
私は喉の奥を一度だけ鳴らし、シーツを押さえて身を起こす。指先でカーテンの端を掴むと、布は思ったより冷たかった。
それを少しだけ横へ引く。金具が細く鳴り白い布の隙間が開く。
その向こうに、白い床へ投げ出された足が見えた。
心臓が一拍遅れて強く打つ。
反射みたいにさらにカーテンを開く。すると出入口のすぐそばに誰かが倒れていた。白衣の裾が片方だけ広がり、腕が変な角度で投げ出されている。
――パケラスだった。
何かを考えるより先に身体が動いた。ベッドの端に手をつき足を下ろす。床は思っていたより冷たい。立ち上がろうとした瞬間、脚の奥がひどく軽くなって膝が一度だけ折れかけた。視界が揺れる。それでも座り直している暇はなかった。手近な柵を掴み、ほとんど倒れるような勢いで一歩ずつ前へ出る。
近づくほど嫌な感じが強くなる。
白衣は乱れているが、外傷らしい外傷は見えない。血もない。けれど倒れ方が自然ではなかった。自分で横になった人間の形ではなく、立ったまま糸を切られたみたいに落ちた形だ。私は床へ膝をつく。勢いがつきすぎて、膝頭に鈍い痛みが走った。だが、そんなことはどうでもよかった。
「パケラスさん!」
呼んでみるが返事はない。
肩へ触れる。熱はある。死んでいる冷たさではない。なのに、その当たり前のはずの体温が逆に怖かった。私は少し強めに揺さぶる。
「パケラスさん、起きて」
ダメだ、何も反応がない。瞼も動かない。呼吸は――浅いけれどある。あるからこそ余計に意味が分からない。倒れているのに傷は見えない。熱もある。生きているのに起きない。
私は顔を上げ、扉を見た。
誰か。とにかく誰かを呼ばなければならない。その単純なことに気づくまでに数秒かかった。立とうとしてまた脚が震える。床に手をつき、扉の枠へしがみつくみたいにして廊下へ顔を出す。外は静かすぎた。人の気配も、足音も、機械音すら遠い。
「誰か!」
思ったより大きい声が出た。喉が掠れる。廊下の先へぶつかって、そのまま吸い込まれるみたいに消える。返事はない。
「誰かいませんか!」
もう一度叫ぶ。今度はもっと焦っていた。けれど、返ってくるのは自分の声の端が壁で少し濁る音だけだった。夜なのか、見回りの時間が外れているのか、ここがもともとそういう場所なのか、何も分からない。ただ、今この瞬間に助けを求めても、誰も来ないということだけは分かった。
立っていられなくなって、そのまま廊下の手前で座り込む。
脚が震えていた。力が全く出ない。叫っただけで息が上がる。自分がこんなに使い物にならない身体だったことを今更思い出した。一昨日までずっと寝ていたのだ。尋問で頭を使って、起きたばかりの身体で歩いて、それでも動けると思っていた方がおかしい。
「……どうしよう」
独り言がそのまま床へ落ちた。
パケラスは返事をしない。廊下も返事をしない。
私は歯を食いしばって向きを変える。
とにかく部屋の中を探そう。何かあるかもしれない。呼び出すもの、連絡するもの、そういう当たり前の設備が、この白い医務室にないはずがない。そう思いながら、這うみたいに床へ手をつき身体を前へ引きずる。パケラスの白衣の裾が視界の端で動かない。妙にその動かなさだけが目につく。
ベッドのところまで戻って周囲を見る。
机。椅子。水のコップ。記録板。伏せられた紙。何かありそうで、どれも今すぐ助けを呼ぶものではない。焦りだけが先に喉へ上がる。見落としている。絶対に何かある。病院みたいな場所なら、こういう時に知らせるものがあるはずだ。そう思って視線を泳がせた時、ベッド脇の金属枠の少し下に小さなボタンが埋め込まれているのが見えた。
ナースコールだ。
あまりに普通すぎて逆に今まで見えていなかった。
私はほとんど転ぶように身を乗り出し、そのボタンを押す。かち、と乾いた感触が指先へ返ってくる。たったそれだけだった。光るわけでもない。音が鳴るわけでもない。本当に押せたのかも分からない。手応えのなさが余計に不安になる。
「……ちゃんと押せたのかな」
自分の声が情けなかった。
押したままにしておくべきか迷い、けれど結局もう一度ボタンへ指を触れる。返ってくるのは、やはり小さな感触だけだ。壊れていたらどうする。ここで誰も来なかったらどうする。パケラスはまだ動かない。頭の奥で嫌な想像ばかりが先に膨らんでいく。
実際には十秒も経っていなかったのだと思う。
けれど、その短さを身体が信じるより先に、部屋の空気だけがわずかに変わった。
部屋の隅の空間が一瞬だけ暗く沈む。
次の瞬間、そこへ黒い布の裾が滑り込むみたいに現れた。音はほとんどない。さっきまでそこにいなかった人間だけが、当たり前みたいに立っていた。
――ローブ姿のノクティスだった。
普段より輪郭が曖昧に見えるのは、その黒さのせいだけではない。灯りの当たり方をうまく拒んでいるみたいに、布の皺の深さだけが先に見える。顔を上げた時、彼の目が私を捉えた。
――本能的に自分に対して殺意を感じた。
監察局の敵。少なくともそういう認識がまだ残っている目だ。好き嫌いの話ではない。こっちを人間として先に見る回路より、危険物として仕分ける回路の方が早い。嫌そうな顔を少しだけしたのも、その延長だと思う。
けれど、その目は次に私の足元を見た。
ベッドから落ちるみたいに座り込んでいる私。
扉のそばで倒れているパケラス。
そこまで見たところでノクティスの顔つきが変わる。敵意が消えたわけではない。そのまま、優先順位だけが入れ替わった。私のことなど一旦無視すると決めた人間の動きだ。
彼は私を無視してパケラスのところまで行く。ローブの裾が床を掠める。しゃがみ込む動作に迷いがない。まず首筋、次に呼吸、瞼、それから手首。順番が速い。見慣れている手つきだった。
「……気絶してるだけ」
独り言みたいな小さい声だった。
それでも、その一言だけで膝から力が抜ける。倒れ込んでいるのが死体ではない、それだけでさっきまでの緊張が一段だけ落ちる。
ノクティスはそこでようやくこちらを見た。
疑っているのは変わらないが、状況だけを確認しようとしていた。感情を後ろへ押しやって、必要な問いだけを前へ出している。
「何があったの」
私は喉を鳴らす。答えようとするが、何も持っていないことに気づく。理由も前後も本当に分からない。
「……起きたら倒れてた」
口にしてから、あまりにもそのままだと思う。
でも、それ以上の説明ができない。私はパケラスがどうして倒れたのか知らない。何をしていたかも知らない。起きた時にはもうそうなっていた。
ノクティスの顔がほんの少しだけ歪む。苛立ちではなく、情報が足りなすぎる時の嫌な顔だ。彼はもう一度パケラスの状態を確認する。首元へ手を置き、呼吸の深さを測る。そこまでする手つきに、こちらへ向ける敵意とは別の慣れがあった。




