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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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96.空いた椅子

*


 扉が鳴った時、私は反射的に顔を上げた。

 今度こそ戻ってきたのだと思った。けれど入ってきたのはパケラスではなく、()()()()()()だった。白い部屋の入口で一度だけ足を止め、その人はまず私を見る。


 その視線は、思っていたよりずっと真っ直ぐだった。

 冷たくはない。むしろ一瞬だけ、何かがほどけるみたいに柔らかくなった気がした。状態の有無を確かめるより先に、ここにちゃんといると確認して安堵した人の目だった。けれどそれは本当に一拍だけで、次の瞬間にはもう消えている。


「失礼します。少し様子を見に来ました」


 静かな声だった。

 それだけ言って視線が机へ落ちる。冷めたピザの皿、空いた椅子、誰もいない机の脇。その順番で見ていって、そこで初めて目元がわずかに変わった。


「……パケラスは?」


 最初に出たのがその名前だった。

 私は少しだけ身を固くする。


「行ってくるって言って、出ていきました」

「いつ頃ですか?」

「ちゃんとは分からないですけど……結構前です。多分、六時間くらい」


 リガルディーは何も言わなかった。

 今度は私の手元を見る。何もついていない両手を一度だけ確かめるように。それから室内を見回し、監視役も増員もいないことまで短い視線で済ませてしまう。


「そのまま……ですか」

「え? まぁ……」

「他に誰か来ましたか?」

「誰も来てないですね」


 そこで、リガルディーはごく短く目を伏せる。

 頭の中で何かを静かに組み替えたのが分かる伏せ方だった。


「そうですか」


 穏やかな声だった。でも、穏やかだからこそ何かが予定から外れているのだと分かってしまう。


「何かあったんですか?」

「事情までは分かりません」


 そう言いながら、リガルディーはもう一度だけ空いた椅子を見る。

 そこに座っていたはずの人間の不在が、白い部屋の中で妙に濃く見えた。


「ただ、あの人がこのような形で席を外すのは、あまりらしくありません」

「……らしくない?」

「えぇ。もう少し手順を整える人です。本来、長時間席を外す場合は、あなたに手錠を着けて外に出られないようにする()()ですから」


 その言い方は柔らかいのに少し怖さがあった。

 責めているわけではない。彼の普段を知っている人が、これは普段ではないと静かに認めてしまった感じがした。

 私は机の上のピザを見る。もう食べる気はなかった。けれど片づけるには中途半端で、その中途半端さだけが目につく。


 リガルディーは私へ視線を戻す。

 その目はさっきの一瞬ほど柔らかくはない。それでも、部屋へ入ってきた時からずっと私を乱暴に扱う気だけはないのだと分かる目だった。


「少し、ここにいます」

「……探しに行かないんですか」

「行くとしても、まずは順序を整えてからです」


 静かな返答だった。

 抱き上げる代わりに距離を守り、安心させる代わりに配置を直す。そういう人の立ち方だった。


 私はすぐには返事ができなかった。

 探しに行かないのかと聞いたわりに、今すぐ誰かが慌てて廊下を走っていく音を聞きたいわけでもなかった。そうなったら、本当に何かあったのだと形がついてしまう。まだ名前のないままの不安をわざわざ固めたくなかった。


 リガルディーはそんな私の黙り方を急かさない。

 白い部屋の中央へ一歩だけ進み、空いた椅子へ視線を落としたまま静かに言った。


「出ていく前、何か変わった様子はありましたか」

「そういえば……顔色が悪かったですね」

「おや、珍しい」

「喉のところを押さえてて……。でも、何でもないみたいにしてました。普段通りです」


 そう言いながら、自分が思っていたより細かく見ていたことに気づく。

 リガルディーは否定しなかった。目を伏せることもなく、頷くこともなく、そのまま数秒だけ沈黙する。言葉を選んでいるのではなく、いくつかの可能性を順に棚へ並べているみたいな沈黙だった。


「ピザがあるってことは……クレアさんがいましたね」

「うん」

「その後に、ですか」

「そうです」


 そこでようやく、リガルディーの表情がほんの少しだけ変わった。

 大きな変化ではない。けれど、今までは部屋全体を見ていた人が、少しだけ一点へ焦点を絞ったのだと分かる変わり方だった。


「なるほど」


 短い一声だった。

 それだけで何かを理解された気がして、私は椅子の縁を無意識に掴む。


「何がですか」

「確証はありません。あの人が順番を崩すなら、その手の件かもしれないと思っただけです」

「その手の件……」


 そう聞き返すと、リガルディーは私を見た。

 真っ直ぐではあったが、踏み込みすぎない角度の目だった。言えるところまでしか言わない人の目だと思う。


「子どもが絡む時だけ、少し鈍くなることがあるんです」

「鈍く?」

「えぇ。普段なら先に整えることを後回しにしてしまう。判断が遅いのではなく、身体の方が先に反応してしまう……と言った方が近いかもしれません」


 私はその言い方を、頭の中でうまく掴めなかった。

 鈍い、という言葉のわりに今の説明は鈍さではない気がした。むしろ逆で、何か一つだけが鋭すぎて、そこへ触れた瞬間に他の順番がずれるみたいだった。


「前にもあったんですか」

「何度も、というほどではありません」


 リガルディーはそこで言葉を切る。

 切り方が静かで、だからこそその先に雑に触れてはいけないものがあるのだと分かった。


「ただ、昔からそういう時だけ少し不器用です」

「昔から……」


 その言葉だけが妙に残る。

 パケラスのことを、私はまだほとんど知らない。白衣を着て、だるそうにして、適当なことを言いながら、でも必要な時だけ急に順序立てて動く人。そのくらいだ。昔からと言われても、そこへ何を置けばいいのか分からない。


 リガルディーは机の上の冷めたピザへ一度だけ目を落とした。


「医務室にいるといろいろ見ますから。()()()()()()()()()()()()()()


 それは説明のようでいて、何も説明していなかった。

 その曖昧さの方がかえって嫌だった。はっきりした出来事より、何度も積もって形になったものの方が人を壊すことがあるのだと分かってしまう言い方だった。


「だから私のせいじゃない……ってことですか」


 そう口に出してから、随分子どもっぽいことを聞いた気がした。

 リガルディーは笑わない。ただ少しだけ視線を和らげる。


「あなたが原因だとは思いません」

「でも、何かきっかけには」

「それはあるかもしれません」


 優しい嘘をつかない返し方だった。

 だから余計にその次の言葉を待ってしまう。


「しかし、きっかけと理由は同じではありません」

「……うん」

「今ここで起きたことだけで、あの人が六時間も戻らない形になるとは考えにくい。そういうことです」


 私は小さく頷いた。

 納得したわけではない。胸の前へ寄ってきていた何かが、少しだけ場所を変えた。全部を自分の前へ積み上げなくていいのだと、ようやく言ってもらえた感じだった。


 リガルディーはそれ以上そこを広げない。

 広げればきっと何かに触れるのだろうと分かっていて、あえて触らない人の止まり方だった。


「戻ってきたら、多分彼は何でもない顔をするでしょう」

「……そんな気がします」

「えぇ。あの人はそういうところがあります」


 その言い方に、少しだけ苦いものが混じった。

 責めているわけではない。困っているわけでもない。昔から何度か見てきた癖を思い出した人の声だった。


 私は空いた椅子を見る。

 そこへ白衣の袖が掛かって、だるそうな声で何か言われる光景は簡単に想像できるのに、今そこが空いていることの方がその想像を薄くしていく。


 リガルディーは端末へ指を滑らせ、それから静かに画面を伏せた。

 部屋の中には白い壁と、冷めた匂いと、まだ片づかない話だけが残っている。


「待ちましょうか」


 私は返事をせず、もう一度だけ皿の上を見る。

 縁のチーズはすっかり固まっていて、触れなくても冷たさが分かる。時間は目に見えないはずなのに、こういうものにはきちんと残るのだと思った。

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