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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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87.自己投与

*


 しばらく見て、ようやく朱音が寝落ちたのが分かった。


 呼吸が何拍かかけて一定になる。目を閉じた顔は起きている時より少し幼く見えるが、さっきまでの会話の熱だけがまだ肌に残っていてこっちの神経に障る。机の手元灯は紙の端だけを照らしていた。


 僕はペンを置く。


「……やれやれやなあ」


 誰に言うでもなく呟いて朱音の方を見る。返事はない。ちゃんと寝ている。今は起きていてもらっては困る。


 机の下の引き出しを開ける。奥に押し込んでいた細いケースを指先で引き寄せると、中で小さくガラスが触れた。


 アンプルを一本取り出す。

 中身は分かっている。必要だから使う。それだけのことなのに、指はほんの一瞬だけ止まった。使いたくないと思いながら使う癖もいい加減馴染みすぎている。

 アンプルの首を刃物で一周傷付け折ると、乾いた音がした。注射器へ吸い上げる手つきはもう癖だ。こういうところだけ迷いなく動く自分に毎回少し腹が立つ。


「……ほんま、嫌やわ」


 声にしても変わらない。

 肘の内側へ視線を落とす。浮いた静脈は夜の灯りの下で薄く沈んで見えた。


 躊躇は短い方がマシだ。

 針先が入る。鈍いいつもの感触。液が押し込まれていくと、冷たさだけが先に血の中へ滑る。少し遅れて頭の奥の嫌なところが静かに軋んだ。


 全部液体を入れて針を抜く。ガーゼを当てる。にじんだ色はわずかだった。椅子の背にもたれたまま、数分待つ。この待ち時間が一番嫌いだ。まだ素の自分が残っているのに、もう後戻りはできない。時計は見ない。見たところで何も早まらない。


 代わりに朱音を見る。

 寝顔は静かだった。唇が少しだけ開いて、呼吸に合わせてかすかに動く。昼から夜にかけてだいぶ削ったはずなのに、寝てしまえば年相応の女に見える。その見え方が逆に始末が悪い。


 またため息が出る。


「君は寝といてくれた方が、ほんま助かる」


 当然、返事はない。だから言えた。


 そうこうしているうちに効き始める。

 最初に来るのは視界だった。机の角、伏せた紙、投げた白衣の皺、ベッド脇の金属の反射、その全部が急に正確になる。次に音だ。空調の低い唸り、遠くの機械音、朱音の呼吸、その三つがきれいに分かれる。感覚が鋭くなる分、情の方だけが薄く削られる。毎回ろくでもない効き方をする。


 掌を開いて閉じる。

 震えはない。脈は速いが散ってもいない。頭の奥が冷える。嫌悪も気の重さも残っているのに、それが手を止めるほどではなくなる。便利だ。本当に便利でろくでもない。


「……よし」


 声に出して確認する。出た声は平らだった。

 机の上を軽く片づける。書きかけの式はそのまま伏せ、使ったものだけ処理する。白衣を取るか少し迷って、結局羽織った。廊下は冷えるし、監獄まで行くなら医者の顔のままの方が都合がいい。


 袖を通しながら、もう一度朱音を見る。

 起きない。呼吸は変わらない。

 そのことに小さく安堵してしまう自分がまだいる。薬が回ってもそこまでは消えんらしい。


「……やりたくないなぁ」


 今度ははっきり口にした。口にしても足は止まらない。


 扉を開ける。

 廊下の空気は少し冷たく、床を踏むたび靴音が規則正しく返ってきた。その規則正しさが今の頭には都合が良かった。


 階段を下りながら、一度だけ目を閉じる。


 ――ウェイト。


 あの男の顔を思い浮かべるだけで、薬を打つ前なら確実に気分が悪くなっていたはずだ。今も嫌悪はある。あるが、嫌悪のまま手が止まる感じではない。感情の角だけが削られて、必要な作業へ押し込まれている。



 地下へ降りるほど、空気は重くなった。


 監獄は最初からそういう造りになっている。鉄扉を一枚くぐったくらいでは着いた気がしない。鍵、格子、術式、見張り、そのどれもが一つで足りるだろうと言いたくなるほど重ねられていて、ようやく最後の通路へ出る。湿った石の匂いに、古い鉄と乾いた血の気配が薄く混じっていた。施設の下にぶら下がっているというより、ここだけ地面の底で勝手に続いているみたいな顔をした場所だ。


 階段を下り切ったところで白衣の襟を指で直す。薬はちゃんと回っている。視界は硬い。呼吸も乱れていない。手もぶれない。嫌なものは嫌なままだが、その嫌悪で足が止まる感じでもなかった。


 通路の先、独房の前でガルザが腕を組んで待っていた。

 壁にもたれもせずただ立っているだけなのに通路が狭く見える。あの男は昔からそうだった。背丈や肩幅の問題だけではない。そこにいるだけで、周囲の空気を自分の縄張りに変える癖がある。地下の灯りが頬骨の影を深くして、余計に人相が悪く見えた。



「おう、ヤブ医者」


 開口一番それだった。


「ヤブ医者やあらへんて。ヤブやったら、わざわざこんなとこ来ぃひんわ」


 そう返すと、ガルザは鼻で笑った。笑うというより、鼻先で邪魔なものを弾くような短い音だ。


「アイツ、相変わらず大事なとこだけきっちり言わねえな」


 顎で一番奥の独房を示す。ウェイトのことだ。名前すら呼ぶのが面倒なのか、呼ぶ価値もないと思っているのか、そのへんはコイツも大概だった。


「そこだけはよう出来とるわ。ようあんだけ暴力振るうて口割らせられへんかったな。どんなマゾやねん、アイツ」


 軽く言ったつもりだったが、ガルザの眉がわずかに動いた。怒ったというより、気に食わないが言い返すほどでもないといったそんな反応だった。


「あぁ? 好きでやってるみてえに言うなよ」

「八割くらい好きでやってる顔してたで」

「大体合ってるな」


 どちらにしろ終わっている。思わず息が漏れる。薬が回っていなければ、もっと露骨に嫌な顔をしていたかもしれない。


「元詐欺師なんやろ。こういう時こそ心理掌握とかしてくれへんの? なんで毎回最後、こっちに回ってくんねん」


 そう言うと、ガルザは肩を鳴らした。骨の音まで態度が悪い。


「あぁ? そういうの、もうめんどくせえんだよ。暴力で片付くなら暴力が一番楽だろうが」

「ほんまに最低の理屈やな」

「理屈で口が割れるなら最初からそうしてる」


 それはそうかもしれない。そうかもしれないが、だからといって堂々と言うことではない。こいつの中では、その境目がとっくに擦り切れている。


「ジジイ、こういうの苦手や言うてるやろ。僕は精神科やのうて外科や。学生の時からずっとそっち志しとったんやけど」


 そう言いながら自分で少し遅いとも思った。こんな場所まで来て、専門の話をしている時点でだいぶ負けている。


 ガルザは口元を歪めた。


「まぁ、どっちにしろヤブに変わらんだろ」


 そこではっきりと笑った。濁った笑い声が地下の通路に短く転がる。面白いから笑っているのではない。相手が嫌がると分かっていてそこを踏みにくる時の笑い方だった。だからこそ質が悪い。


 視線をまともに返す。薬はちゃんと効いている。声は平らだ。手もぶれない。それでも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。削られた分だけその輪郭がむしろ硬くなる。


「人がどんな思いしてここ来とるか分かってんのか。詐欺師のくせに、そういうとこ鈍いんやな」


 笑いがそこで止まった。

 地下の通路は静かだった。奥の独房からときどき細い物音だけが返ってくる。その間に、自分の言葉だけがやけに乾いて残った。ガルザは腕を組んだままこちらを見る。ただ値踏みするみたいな目だった。


 視線は逸らさない。

 嫌なものを嫌だと思う感覚までなくなったら、さすがに終わりだ。薬は便利だが、その線までは食ってこないらしい。そこだけはまだ助かる。


 やがてガルザが鼻を鳴らした。


「……お前、ほんとこういうの向いてねえな」

「知っとるよ。知っとるから毎回嫌やって言うてる」


 返しながら、独房の方へ目をやる。

 格子の向こうにまだ口を割らない男がいる。ガルザは腕を解き、少しだけ脇へずれた。その動作だけで通路の空気が一段冷える。自分の仕事はここから先だと、言葉にせずに渡してくる動きだった。


 白衣の裾を軽く払う。地下の湿気が布へ移っている。さっきまで医務室にいたはずなのに、もう別の世界へ来たみたいだった。朱音は今ごろ寝ている。上では機械音と呼吸だけが静かに続いていて、ここでは鉄と石と人が壊れた後の気配だけが残っている。


 ここまで来てもやりたくないなぁ、という感情は消えることはなかった。

 でも、そのために薬まで打った。ここまで来て引き返すのは格好が悪い。そういう見栄だけはまだ綺麗に残っている。


 ガルザが顎で扉をしゃくった。


「中、機嫌最悪だぞ」

「そら結構。こっちもそんなにようないわ」


 短く返して鉄扉の前に立つ。

 向こう側から笑い声めいたものが一つ転がった。人を小馬鹿にした時の笑い方だ。顔を見なくても分かる。見なくても分かるのが腹立たしい。


「……ほんま、やりたないなぁ」


 それでも僕は前を向いた。

 見張りが鍵へ手をかける。金属が擦れ、重い機構がゆっくり噛み合う。地下の通路に、その音だけがはっきり響いた。

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