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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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86.白衣を脱いだ後で

 尋問が終わって医務室へ戻されると、パケラスは扉を閉めた足でそのまま白衣を雑に脱ぎ、椅子の背へ引っかけるみたいに放った。


 そのままシャツのボタンを第二まで外す。喉元から鎖骨が見えて、布の下の線まで少しだけゆるむ。医者の白衣を着ているときには目立たなかったが、体つきは思ったよりずっと厚かった。肩も胸も、医者として必要な分だけでは済まないくらい鍛えられている。顔立ちも同じだった。五十代だと言われなければ、()()()()()()()()で通るのではないかと思う。白衣を脱いだだけなのに、さっきまで机に伏せてぶつぶつ言っていた人と少しだけ別人みたいに見えた。


 私はそんなことを考えた後自分の視線の位置に気づいて、慌ててベッドの方を見た。


 車椅子から移されると、身体の重さが一気にこっちへ戻ってくる。尋問の間は言葉に追いつくので精一杯で、疲れていることすら後回しになっていたらしい。白いシーツへ肩が沈んだ瞬間、腕も脚も自分のものなのに借り物みたいに鈍くなった。筋肉が落ちているのだと変なところで分かる。立てるかどうかと、支えなしで歩けるかどうかは別の話だった。消毒液の匂いと乾いたリネンの匂いが近い。天井の白さまで少し滲んで見えた。


「そらそうなるわな」


 真横でパケラスが言う。記録板の向こう側にいたときより、声の温度が少しだけ人間っぽかった。白衣のない分、余計にそう見えるのかもしれない。彼は開いたシャツの襟元を指で少し整え、それから私の顔を覗き込んだ。



「……朱音、一緒に寝ようや」

「い、嫌ですよ……」



 ほとんど反射だった。返してから自分でも思ったより即答できたことに少し驚く。疲れているわりにそういう線だけはちゃんと引けるらしい。

 パケラスは一瞬だけ目を丸くして、それから喉の奥で笑った。



「冗談や。ハディートにぶっ飛ばされる」

「笑えないです」

「いやあ、今のはちょっと面白かったで。君、そういう意味できっちり受け取るんやな」


 そう言われ、自分が何を警戒したのかを逆に意識してしまって余計に居心地が悪くなる。疲れていると、そういうどうでもいい冗談にまで足を取られるらしい。

 パケラスはまだ少し笑いを残したまま、ベッドの端を軽く叩いた。


「とりあえず寝とき。脳みそも身体も、今日一日で使いすぎや」


 否定する気力もないまま、私は小さく頷いた。瞼を閉じると、尋問で並べられた単語の残響だけが薄く浮く。ムート。レイ。槍。Babylon。どれもまだ自分の記憶として馴染まないのに、言葉だけが変に重い。

 けれどそれを整理する前に、意識が先に沈んだ。


*


 次に目を開けたとき、部屋は夜だった。


 窓の外は暗く、カーテンの隙間から入る街の光だけが細く床へ落ちている。蛍光灯は落とされていて、代わりに手元だけを照らす小さなライトが点いていた。その丸い光の中で、パケラスが机に向かっている。


 白衣は椅子の背に投げたままで、シャツの襟元も昼のままだった。袖だけ軽くまくられていて、紙の上を滑る手首の筋が細く浮く。足を組み直しながら何枚かの紙を行き来して、忙しそうに何かを書いていた。背中だけ見ていると疲れているはずなのに、手だけは休む気がない。


「……何、書いてるんですか」


 寝起きで掠れた声だった。自分でもちゃんと音になるか怪しかったけれど、パケラスはすぐ反応した。


「恋文や」


 私は半分起き上がりかけて、思わず彼を見る。


「い、今どき手紙で伝えるんですか!?」


 部屋の静けさに対して少し大きな声を出してしまった気がした。パケラスはそこでようやく手を止め、こっちを振り向く。灰色の目が数秒だけ真っ直ぐ私を見て、それからおかしそうに細まった。


「君、意外と真に受けるんだな。ジジイが恋文なんて書いてたらきしょいやろ」

「それは……そうですけど」


 そう返しながら私は少しだけむっとした。からかわれたこと自体より、普通に引っかかった自分の方が嫌だった。疲れているとそういう冗談にまでちゃんと足を取られる。


「じゃあ本当は何書いてるんですか」


 そう聞き直すと、パケラスはまた紙へ目を戻した。ペン先をくるりと回して、少しだけ考えるみたいな間を置く。


「ちょっとした式だな」

「式?」

「薬の配合」


 その答えは一瞬意外だと思ったが、よく考えたら普通のことだった。医学の専門家であり、恋文よりは余程自然だ。けれど、式という言い方だけ少し引っかかる。紙の上には数字だけでなく、見慣れない記号も混じっているように見えた。


「何の薬ですか」


 私がそう聞くと、パケラスは紙から目を離さないまま答えた。


「誰かのためになるやつ」

「私のですか?」

「世の中の誰かのや」


 それははぐらかしている時の言い方だった。冗談に寄せているが内容は少しも渡してこない。昼間、記録板の向こう側にいたときと同じで、渡していい情報とそうでないものの境目だけ妙にはっきりしている。


「適当ですね」

「適当で済む話は適当に済ませるに限る」

「済んでないから聞いてるんですけど」

「せやな」


 そこでやっと、彼は少しだけこちらを見た。笑っているわけでも真面目なわけでもない、中途半端な顔だった。夜の小さい明かりのせいで、灰色の目だけが余計に乾いて見える。


「まあ、君に今すぐ関係ある類のもんやない。そこは安心しとき」


 こういうところだけ微妙に線を引く。私はベッドの上で膝を少し抱え直し、机の上の紙を見る。数式みたいに並んだ文字はこちらからだと読めない。ただ、インクの匂いと薬品の匂いが薄く混じって、夜の医務室を昼間より少しだけ現実的にしていた。


「……パケラスさん」

「んー?」

「寝なくていいんですか」


 そう聞くと、彼はペン先を止めて肩を鳴らした。


「寝たいで」

「じゃあ寝ればいいのに」

「その前に、こいつをある程度形にしたいねん」


 そういう曖昧な言い方をする時は、おそらく本人の中ではもうだいぶ形になっているのだろう。紙の端には書き直した跡が何本もあって、そのわりに手は迷わず動いている。


 私はそれ以上は聞かなかった。聞いてもまた恋文やとか眠れるやつやとか、そういう雑な答えに逃げられる気がしたからだ。

 昼間の尋問で自分を遠く感じたくせに、今はこうして他人が机に向かっているだけの光景をぼんやり見ている。尋問の後遺症みたいに頭の奥がまだ重いのに、その一方で、椅子の背に投げられた白衣だけが妙に目についた。

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