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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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85.会わせない理由

悩んではいるのですが、この話だけ微妙に重複しているのでもしかしたら消すかもしれません。

 何も戻っていないのに戻らない場所だけが見える。白く潰れたままの記憶に輪郭だけ与えられて、その内側はやっぱり空のままだ。

 だからだと思う。次に口をついて出たのが、その名前だったのは――




「……ハディートは」


 自分でも驚くほど小さい声だった。

 ベリタスは記録板の上で指を止める。顔を上げるまでに一拍だけあったが、隠す気はないらしかった。


「生きてはいるけど自由ではない」

「……自由じゃない?」

「監察局預かり。軟禁に近いわね」


 私は顔を上げる。

 軟禁という単語があまりに明確で、逆に少し現実味がなかった。ハディートとその言葉の並びが綺麗に噛み合わない。あの人が大人しく閉じ込められている図が上手く浮かばないからだ。


「少なくとも、好きに出歩かせる気はないわ。あなたの件で動きすぎたし、今の状態であなたと接触させるのは危険だと判断されてる」


 冷たい言い方だった。けれど、冷たくして誤魔化している感じではない。必要な温度で説明しているだけだ。

 机に伏せていたパケラスが、そこで顔だけ少し上げた。


「まあ、止められとるな」


 頬に白衣の皺をつけたまま、気の抜けた声で言う。


「放っといたら真っ先にこっち来るに決まっとるし。せやから今は、監察局の中で大人しゅうしてもろてる」

「大人しく……してるかな」


 思わずそう聞き返すと、パケラスは少しだけ笑う。


「してへんやろな、内心は」

「適当なこと言わないで」


 ベリタスが即座に切る。


「適当ちゃうやん。あの男が素直に従うタイプやないのは事実やろ」

「従ってるから今ここにいないのよ」

「それはそう」


 パケラスはあっさり引き下がる。その軽さだけが妙に腹立たしくて、けれど少しだけ救われる。深刻な話をしている最中でも、この人は全部を同じ重さでは扱わない。


 私は机の端を見た。ブラインドの隙間から入った朝の光が、細くそこへ落ちている。


「……会えないの」


 その問いはほとんど確認だった。ベリタスは少しも迷わない。


「今すぐは無理」

「なんで?」

「あなたがまだ不安定だから」


 答えは簡潔だった。


「どこまでが朱音で、どこからがBabylonに触れているのかも安定していない。向こうは向こうで、あなたに対して冷静とは言い難い。そんな状態で接触させる意味がない」


 意味がない、という言い方は残酷なわりに反論しづらい。今ここでハディートに会いたいのは事実だ。でも、会った瞬間に何が起きるかと聞かれたら、私にも分からない。泣くのかもしれないし、何も言えないのかもしれないし、逆に妙に平静で、それが一番気味悪いのかもしれない。


 パケラスがそこで少しだけ真面目な声になる。


「せやけど、アイツが君のこと切ったわけやないで」


 私はそちらを見る。灰色の目だけが机の上からこちらを見ている。乾いた色のわりに、今だけはそこへ少しだけ別の温度があった。


「来れへんだけや。来させてもろてへん。そこは分けて考えとき」


 そう言われて、喉の奥が少しだけ詰まる。


 私は別に見捨てられたと思っていたわけじゃない。けれど、ここまで白い部屋と記録板と他人の説明だけで組み立て直されていると、来ない人の不在まで勝手に意味を持ち始める。


「……でも、私が寝てたときには見舞いに来てたんでしょ」


 今度はベリタスが黙った。


 否定しない沈黙だった。私はそれだけで、聞き間違いではなかったのだと分かる。難しい顔をして帰る……を繰り返していた不審者ムーブ。パケラスが冗談みたいに言っていたそれは、やっぱり本当だった。


「その時は来てたのに」


 自分でも少し責めるみたいな響きになったと思う。けれど止められなかった。会えないと言われた直後だから余計にそこだけが引っかかる。


 パケラスが先に息を吐く。


「来た、というより押しかけた、に近いな」


 肩をすくめる。


「監察局の許可取って悠々お見舞い、みたいな可愛らしいもんやない。ああいうの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――」


 そこで彼は一度だけ瞬きをして、自分で小さく顔をしかめた。


「……あ、そや。通じないんやった。要するに、寝とる君の顔だけ見に来るのと、起きた君の前に座らせるのとでは話が別、っちゅうことや」


 ベリタスが露骨に嫌そうな顔をした。


「そういう言い回し本当に気持ち悪いわね、あなた」

「褒め言葉として受け取っとくわ」

「褒めてない」


 パケラスは気にした様子もなく続ける。


「ともかく、止められても来とったんは事実や。顔だけ見に来て、こっちに追い返されて、また来る。そういうのの繰り返しやな」

「止められても」

「せや」


 あっさりした返事だった。


「せやけど、それと今の君に会わせるは別や。寝とる相手を一方的に見に来るんと、起きた君の前に座らせるんとでは、起きることの種類が違う」


 私は黙った。


 言われていることは分かる。分かるのに、胸の奥では別のところが引っかかっている。会いに来ていた。止められても。私が眠っていて、何も返せなかった間は。


「……じゃあ」


 そこまで言って、私は一度だけ言葉を止める。何を言いたいのか、自分でも綺麗に分からなかった。会いたいのか。会わせろと言いたいのか。それとも、来ていたという事実だけで十分なのか。


 ベリタスはそこを追わない。追えばまた別の層へ潜ると分かっているのだろう。


「今は、そういう状態だとだけ理解して」


 声は平坦なままだった。


「来なかったんじゃない。来させなかった。会わせないのは、切ったからでも見捨てたからでもない。監察局が止めてるから」


 事実だけを並べる言い方だった。けれど今は、それで十分だった。


 パケラスが小さくあくびを噛み殺す。


「まあ、またいろいろと面倒あるやろな」

「あなたは黙ってて」

「事実やん」

「黙って」

「はいはい」


 そう言って、彼はまた少しだけ机へ沈む。本当に黙る気はないのに、その半端な脱力だけが妙に人間くさい。


 私は机の上に置いた自分の手を見る。

 何も覚えていない。だが、今の話だけは少しだけ形になった。


 ハディートは来なかったんじゃない。来ていた。ただ、今は来させてもらえない。

 その違いだけが、白い記録室の中で細く光っていた。

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