84.大罪の目録
「……少しやり方を変えるわ」
平坦な声だった。尋問の刃をそのまま使うのではなく、別の道具に持ち替える声だ。
「これ以上、曖昧な記憶を一問一答で掘っても効率が悪い。あなたは穴の空いている場所をうまく説明できないし、こっちもそこへ質問を投げるたびに余計な霧を増やすだけになる」
私は黙って聞く。否定したい気持ちは少しあったが、正しいのも分かっていた。記憶の欠落がもうそれを証明している。
「だから先に、監察局側が把握していることをこっちから言う」
そこでベリタスは一度だけ記録板へ目を落とした。
「違っていたら止めて。分からないなら、そのまま黙っていていい。黙っていても、こちらではそのまま確認不能として処理する」
「……ずいぶん機械的だね」
「優しく言い換えても、内容は変わらない」
切り返しに余地がない。私はそれ以上何も言わず、小さく頷いた。ベリタスはその頷きだけを確認して、話を始める。
「まず、あなたの異常は銀座から始まったわけじゃない」
その一言で、背中の奥が少し冷えた。
「ウェイトとの接触はそれ以前からある。夢の中の目黒川沿いのカフェ、ルビーの指輪、その前後で、あなたはムートを殺そうとしている」
私はすぐには意味が取れなかった。
「……未遂?」
やっと出た声は、自分でも驚くほど軽かった。
「未遂よ。少なくとも、結果としては」
ベリタスの声は変わらない。
「こちらが把握しているのは、あなたがムートへ明確な加害意思を向けたこと。殺意を伴う行動を取ったこと。完遂には至っていないこと。それだけ」
私は口を閉じた。
覚えていない。覚えていないという返答しかできないのに、それを言う前からベリタスはもう分かっている顔をしている。問いかけではなく確認なのだとその時点で分かった。
「……そんなの……知らない」
やっとそう言うと、彼女は頷きもしない。ただ記録板へ短く何かを書きつける。
「でしょうね」
その一言が冷たいというより事実として置かれる。
「次は銀座へ移動、もしくは移動したと認識している。途中、ローブを購入。店員は山羊頭の人物。時間感覚の大きなズレあり。その後、銀座のフレンチへ入っている」
断片だったものが他人の口から順番に並べられると気持ちが悪い。あれは私の記憶のはずなのに、私よりこの人たちの方が構造として理解している。
「フレンチ内部で魍骸が出現。ウェイトが処理。あなたとウェイトは和光まで移動。そこから先、あなたの記憶は大きく途切れる」
ベリタスはそこで一度だけ目を上げる。
「ここまでで違うところは?」
「……ない、と思う」
そう言った瞬間、ベリタスの視線がわずかに刺さる。けれど今回は突っ込まない。その沈黙が、その曖昧さごと今は保留にするという意味なのだと分かった。
「問題はその先」
彼女はそう言って頁をめくる。紙の音が乾いている。
「和光以後、あなたは真名を与えられている。ウェイトがあなたに付けた名はBabylon」
私は息を止めた。
その音の並びに聞き覚えがないわけではない。遠くで誰かが言っていたような、夢の底で一度だけ聞いたような、嫌に古くて甘い響き。しかし、それが自分へ与えられた名だと面と向かって言われると別の重さになる。
「……Babylon」
口に出すと響きそのものが舌に残った。
私は自分の名前を言っただけなのに、口の中へ何か別のものを入れられた感じがする。朱音という名前とは違う方向へ声が引っ張られる。
「そう」
ベリタスは感慨もなく言う。
「Babylonは願いを叶える代わりに、その人物の大切なものを奪う性質を持っている」
私はすぐには理解できなかった。
「……どういう意味」
「そのままよ。願いには応答する。でも対価がいる。対価は金でも命でもなく、その人にとって重要なもの。人間でも、記憶でも、身体機能でも、信仰でも、執着でも、何になるかは一様じゃない。共通しているのは、それを失ったときにその人物が壊れるものが選ばれること」
ベリタスは表情を変えない。変えないから余計にその話の異常さだけが際立つ。願いを叶える。大切なものを奪う。単語だけなら神話みたいなのに、今は報告書の一行として机の上へ置かれている。
「あなたが銀座で起こした被害は、この性質と無関係じゃない」
私は顔を上げる。
「……私が、起こした」
「そう」
そこで初めて、ベリタスの声が少しだけ硬くなる。
「ただし、ここでさらに厄介なのは、ウェイトの願いには代償が要らないこと」
その一文だけで、部屋の白さがまた変わった気がした。
「Babylonは本来、願いと喪失が対になって初めて成立する。でもウェイトはその例外に立っている。あの人間の願いは代償を必要としない。だからべらぼうに強い。……いや、強いというよりルールの外にいる」
机に伏せていたパケラスが、そこだけもぞりと動いた。
「ほんま、反則もええとこやで……」
「起きてるなら起きてなさい」
「寝てまーす」
寝たまま返事をするのが余計に腹立たしい。ベリタスはそれを完全に無視した。
「代償が要らないということは、奪われる側の損失が見えない形で散る可能性がある」
ベリタスは続ける。
「銀座だけを見れば、死者は87人、負傷者は1500人以上。少なくともそこまでは確認済み」
数字が出た瞬間、私は一度だけ呼吸を忘れた。
さっきまでの白い記録室とは別の場所から来たみたいな数字だった。誰かの報道や統計で聞く類の数だ。自分に向けて置かれるような数じゃない。なのに今、それが机の上へ静かに置かれている。
「でも、正確な被害者数は出せない」
ベリタスはそう言って記録板を指で押さえる。
「どこで代償が支払われているか分からないから。銀座で死んだ人間、傷を負った人間、それだけじゃ済まない可能性がある。別の場所で何が奪われたのか、誰が何を失ったのか、現時点では把握不能。だからこそ、あなたは大罪を犯している、とこちらは言い切る」
私は何も言えなかった。犯している。言い方が現在形なのが嫌だった。過去の一点ではなく、まだ続いている罪みたいに聞こえる。
机に伏せたままのパケラスがそこでまた口を挟む。
「まあ、ハディートの時より死んでへんから、規模だけ見たらそこまででも――」
乾いた音がした。
ベリタスが記録板で殴ったのだと分かったのはその直後だった。パケラスが「いっっっっ」と机に顔を埋めたまま呻く。
「被害の大小の問題じゃないから」
ベリタスの声は低いままだ。怒鳴っていないのに、机の上の空気だけが切り詰められる。
「そういう雑な比較で流すなら本当に黙って」
「記録板で殴ることある……?」
「ある」
即答だった。
私はそのやり取りを見ながら、笑えないのに少しだけ現実へ戻される。87人と1500人以上という数字の後にそれを茶化すパケラスがいて、即座に叩くベリタスがいる。そのあまりの落差で逆に目眩がした。
ベリタスはまるで何もなかったみたいに続きを戻す。
「次。ウェイトは願いでレイを呼び出している」
私は瞬きをした。
「……レイを?」
「そう」
彼女は言う。
「どういう経路でどこまで正確に呼び出したと表現していいかは別として、少なくともあの場にレイを出現させたのはウェイトの願いによるもの。そこは確定」
机の下で自分の指先が少しだけ冷えるのが分かった。
パケラスがまた顔を机へ埋めたままくぐもった声を出す。
「アイツもようやるわ……」
「そんなに突っ込んでくるなら起きてなさい」
ベリタスの言い方はさっきよりも一段冷たい。
「寝させてくれ」
「最悪」
このやり取りだけ聞いていると、何を話している場なのか分からなくなりそうになる。けれど話題の中身はまるで冗談ではなかった。ウェイトが願いでレイを呼び出した。呼び出した先に私がいた。そこまでが一本の線になっている。
「その後、あなたはレイの形見の指輪を割っている」
私は顔を上げた。
「……指輪」
自分でも分からないうちに、その単語だけを拾っていた。
「レイに残っていた象徴性の強い物品の一つ。母親の形見ね。あなたはそれを破壊している」
ベリタスの声は事務的だった。指輪を割るという行為が感情の爆発ではなく、記録済みの事実として冷たく置かれる。
「覚えてない?」
今度の問いは少しだけ確認に近かった。
「……ない」
私の返答は短い。ベリタスはそれをそのまま受け取る。
「でしょうね」
また同じ言葉だ。責めてもいないし慰めてもいない。ただ穴がそこにあることを共有するだけの言い方だった。
「それから、龍化したレイを槍で刺している」
私はその言葉の意味を、数秒遅れて受け取った。
龍。レイ。槍。刺す。順番に頭の中へ入ってくるのに、一つの場面としては結ばれない。私はただベリタスを見るしかできなかった。
「瀕死だった」
彼女はそこで区切る。
「結果として、それに近い状態まで追い込んだ。使われた槍は魔力を奪う性質を持っていた。単なる貫通ではなく、相手の維持そのものを削るタイプ」
それを聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。物理的な痛みではない。知らないはずの場面の端が、内側から擦れるような感覚だった。
「あなたがそれを自覚して使ったのか、使わされたのか、その境目はまだ確定していない」
ベリタスは記録板へ視線を落とす。
「あなたに話せる事実として残っているのはそこまで」
私は机の上へ置いた自分の手を見た。
異様に白い。血の匂いも槍の重みもそこにはない。ただの手だ。喉が渇いて水を欲しがって、白がゆを食べた手。その手で私は指輪を割って、龍を刺したのだと他人に説明されている。そこに現実感はないのに、否定もできない。
「……そんなの」
やっと出た声は酷く薄かった。
「そんなの、私じゃない」
言ってから、それが反論ではなく願いに近いと分かる。
ベリタスはすぐには何も返さない。私を見て、それから一度だけ視線をずらす。その沈黙が短かったのか長かったのかも分からない。やがて彼女は静かに言う。
「今のあなたではない、は正しい」
そこで区切る。
「でも、あなたではないものがあなたの身体でやったなら、それで全部が帳消しになるわけでもない」
正論だった。正論だから余計に冷たい。
私は返す言葉を持てなかった。帳消しにしてほしいと言ったつもりはなかった。けれどそう言われると、心のどこかでそれを期待していたのだと分かってしまう。
ベリタスは記録板の端を整える。
「ムートへの殺害未遂。ウェイトとの事前接触。夢のカフェと指輪。銀座での一連の行動。バビロンという真名。その性質。代償の見えない被害。レイの呼び出し。指輪の破壊。龍化したレイへの槍による加害等」
言葉として並べ直されると、本当に報告書の項目みたいだった。
全部が事件の目録へ変わっている。そのことに吐き気がした。吐くほどの何かは出てこないのに、喉の奥だけがじくじくする。
私はベリタスを見た。
冷たい。最初からずっと冷たい。でも、残酷に気持ちよくなっている冷たさではなかった。必要だから切っている刃の冷たさだ。だから余計に逃げにくい。
「……私にこれを説明してどうしたいの」
問いかけると、ベリタスは真っ直ぐ言った。
「確認」
「確認?」
「どこまであなたが知っていてどこから抜けているか。どの事実に反応してどの固有名詞に痛みがあるか、それを見ている」
私はその返答に少しだけ黙る。
測られているのだと今さら言葉にされると変な気分だった。さっきからずっとそうなのに、説明されると急に露骨になる。
「あと」
ベリタスは続ける。
「言える範囲で監察局が把握していることを隠したままにしておく利点がない」
それは確かにそうだった。
たとえ覚えていないにしても、ムートに何をしたのか、銀座でどれだけの死傷者が出たのか、レイに何をしたのか。その全部を知らないまま自分の穴だけを眺めている方が多分もっと気味が悪い。気味が悪いと分かっていても、聞きたいかと聞かれたら別の話だったけれど。
部屋は静かだった。ブラインドの隙間から細く入った朝の光が、机の端と記録板の角だけを白くしている。位置は何も変わっていないのに、部屋にあるものの重さだけが変わっていた。
「……Babylonって」
自分の声が思ったより掠れていた。
「私に付けた名前なんだよね」
「そう」
「じゃあ、今も?」
その問いには、ベリタスもすぐには答えなかった。
珍しく、ほんの一瞬だけ考える間がある。それから彼女は静かに返す。
「少なくとも、消えたと断言できる状態ではない。ハディートは消えたと言っているけど、信用できない」
私は唇を閉じる。机の上へ置いた指先を少しだけ握った。爪が皮膚へ当たる感触だけが、今ここにいる自分のものだと分かる。
パケラスがそこで、ようやく机から顔を半分だけ上げた。
「……せやからややこしい言うとるやろ」
まだ寝たふりの延長みたいな声だったが、さっきより少しだけ本気の芯がある。
ベリタスはそれを見たが、今度は殴らなかった。ただ冷たく言う。
「だったら最後まで起きてなさい」
「それはしんどい」
「知るか」
ベリタスはその光の上へ指先を置き、少しだけ紙を揃えた。淡々と話を畳むような仕草だったのに、次に出てきた声は今までよりわずかに低かった。
「一応、先に言っておく」
私は顔を上げる。
彼女はまっすぐこちらを見ていた。責める顔ではない。だが、逃がす気もないと分かる目だった。
「もし、Babylonになった後に覚えていることがあるなら。あるいは、その状態で自分の意思でやったことがあるなら――」
そこで一度だけ区切る。
言葉を選んでいるというより、重さを落とす場所を見極めているみたいな間だった。
「それはそれで、ウェイトと同様に締め上げる準備はできている」
記録室の空気が、一瞬だけ平たく止まった。
私はすぐには返事ができなかった。
脅し、ではないのだと思う。脅したいならもっと感情を乗せるはずだ。だからこそ怖い。準備はできている、と彼女は本当にそのままの意味で言っている。やる必要があるならやるし、そのための手順も多分もう頭の中で並んでいる。
「……私も?」
やっとそれだけ聞くと、ベリタスは目を逸らさなかった。
「ええ」
短い。
「被害者だから全部免除されるとは考えないで。あなたがどこまで奪われてどこから自分で選んだのか、それは分けて見ないといけない」
「自分で、って」
「自覚がなくても、自発が混じることはある。誘導されていても、同意した瞬間は別に存在する。そういう細部を切り分けるために聞くの」
その平坦さの下に、少しだけ別の硬さが混じっていた。怒りというより、嫌悪に近いものかもしれない。ウェイトへ向いているのか私へ向いているのか、その両方なのかは分からない。ただ、ここだけは曖昧に流さないと決めているのが分かる。
机に伏せていたパケラスがそこで片目だけ上げた。
「うわあ、仕事増えるやつやん……」
心底うんざりした声だった。
「ただでさえ整理追いついてへんのに、もし本人の意思ありましたまで追加されたら、ジジイの残業確定やで。勘弁してほしいわ……」
ベリタスはそちらを振り向きもしない。
「起きてるなら手伝って」
「それとこれとは話が別や」
「別じゃない」
「別やって。責任は取るけど面倒は面倒やねん」
そのぼやきが妙に俗っぽくて、私は少しだけ現実へ引き戻される。真名だの代償だの槍だのという話をしている最中に、残業が増えるみたいな愚痴が混ざるのはおかしい。おかしいのに、この人はそういうところでしか息ができないのかもしれなかった。
ベリタスは短く息を吐く。
「面倒で済む話ならまだマシよ」
「それはそう」
パケラスはそこで一度だけ素直に引いた。引いたうえで、また机に額をつける。
「せやけど、ほんまになあ……。ウェイトの分だけでもう書類の山やのに、ここへ朱音本人の任意性の有無とかBabylon状態での意思決定の痕跡とか、そんな項目増えたら書式から作り直しやん。誰がやると思う? ジジイやで?」
「自分でジジイって言うぶんには元気ね」
「元気ちゃう。諦めがいいだけや」
そのやり取りの間も、ベリタスの視線は私から外れなかった。外さないまま次の言葉を置く。
「だから、今聞いてる」
淡々としている。
「思い出したくないのは分かる。記憶が抜けてるのも見れば分かる。でも、もし何かあるなら今のうちに出して。後から小出しにされる方が面倒なの」
最後の一文だけ少しだけ本音だった。冷たいというより本当に面倒なのだろう。仕事としても被害の整理としても。そして多分、感情の処理としても。
私は少しだけ俯く。
思い出したくない、というのは正しくない気がした。そもそも思い出せるものなら思い出したい。空白のまま、誰かの口からだけ自分のやったことを聞かされ続ける方がずっと気味が悪い。ただ、思い出そうとするたびにそこにあるのは場面ではなく白さだった。和光の屋上の先も、ムートも、レイも、全部そこへ落ちている。
「……ない」
私は自分の声の薄さに少しだけ驚いた。
「……ない。覚えてることも、自分で選んだって言えることも」
ベリタスは数秒だけ私を見る。嘘を探しているのだろうと分かる。その視線は痛いというより、じっと熱を奪う感じがした。けれど、やがて彼女は何も言わずに記録板へ一行だけ何かを書いた。
通ったということなのだろう。
机の向こうでパケラスが小さく呻く。
「助かったぁ……」
「うるさい」
「いや、ほんまにやで。ここでちょっと覚えてますとか言われたら、今日帰れへんかった」
「帰る気だったの」
「帰る気だけは人一倍ある」
「……最初から期待してないからいいけれど」
私は二人の会話を聞きながら、少しだけ唇を噛む。
助かった、という言葉が変に刺さる。私が何も覚えていないことに誰かが安堵する。正しい反応なのかもしれない。今ここで、私自身がBabylonとしての意思を持って何かを選んでいたと分かったら、話はもっと悪くなるのだろうから。けれど、その助かったが、私の空白に対して向けられているのはやっぱり少し嫌だった。
ベリタスはその感情まで見抜いたのか、あるいはただ次へ進むためか少しだけ声を落とした。
「勘違いしないで」
私は顔を上げる。
「何も覚えていないことを喜んでるわけじゃない。責任の線引きがこれ以上増えないなら、その分確認する項目が減る。それだけ」
言い方は冷たい。けれど、変に情を乗せて誤魔化されるよりましだった。
「あなたの罪が軽くなるとも言ってないし、重くなるとも言ってない。現時点で不明なものが、不明のまま一つ増えなかった。それだけ」
事実だけを置かれると、かえって落ち着く瞬間がある。私は小さく息を吐いた。記録室の空気は相変わらず乾いていて、ブラインドの隙間から入る朝の光だけが机の端を白くしている。
パケラスが机から少しだけ顔をずらす。
「姐御、いちいち言い方が怖いんよ」
「事実を柔らかくするとあとで揉めるわ」
「それはそうやけど」
「じゃあ黙ってて」
「寝てまーす」
本当に寝る気はないのに、そう言ってまた顔を伏せる。その白衣の肩がわずかに上下しているのを見て、私は自分でも分からない程度に肩の力を抜いていた。
ベリタスは記録板を閉じない。まだ終わっていないのだと、それだけで分かる。
「今の段階で言えるのはここまで」
彼女は静かに言う。
「Babylonとしての記憶が完全に潰れているのか、奥で眠っているだけなのかはまだ判断できない。だから今後、何か思い出したら必ず報告して。些細なことでも」
「……報告しなかったら?」
ベリタスは少しも迷わなかった。
「締め上げるだけね」
そこへ迷いがないのが、この人らしかった。
パケラスが机に伏せたまま、くぐもった声でぼやく。
「ほら増えるやん、仕事ぉ……」
「自業自得でしょ」
「なんでやねん、今回はわりと最初から真面目にやってたやろ」
「途中で寝た時点で論外」
「処理落ちやって」
「嘘つきね」
その応酬が記録室の白さへ薄く響く。私は机の上へ置いた自分の手を見る。何かを覚えているわけではない。けれど、さっきより少しだけ空白の形だけははっきりした気がした。




