81.進みすぎた夜
私は一度だけ喉を湿らせる。何から話せばいいのか分からない。銀座、と言われるだけで胸の奥に薄いざらつきが残るのに、その夜の最初の輪郭は妙に曖昧だった。歩いた記憶がない。電車も車も駅も信号もない。気づいたときにはもう隣にウェイトがいて、銀座の夜の真ん中に立っていた。
「……最初、移動した記憶があんまりないんです」
パケラスが軽く顎を引く。続きを促すだけの仕草だった。
「気づいたらもう銀座にいて、ウェイトが隣にいた。なんていうか着いたんじゃなくて、最初からそこにいたみたいな感じで」
「移動の前後が抜けとるんやな」
「うん。景色は覚えてる。……でも、そこへ行くまでの線がない」
ベリタスは何も挟まない。記録板にペン先だけが動いている。紙を引っかく乾いた音が、やけに部屋の中へ響いた。
私は机の木目を見たまま、思い出せる順に言葉を置いていく。
「それで、服屋に入った」
「服屋?」
今度はパケラスの方が先に聞き返した。
「うん。ローブを買った。……買ったっていうか、着せられたの方が近いかも」
そこで初めて、二人の気配が少しだけ変わったのが分かった。椅子のきしむ音はしなかった。ただ、空気の向きだけが変わる。
私は顔を上げる。パケラスはさっきまでのゆるい姿勢のままだったが、目だけが少し起きていた。ベリタスも記録板から視線を上げている。
「店の中はどんな感じ。変なものとかは」
ベリタスの声はいつも通り冷たい。けれどその問いは少しだけ鋭かった。
「変、というか……変だったのかもしれないけど、その時はあんまりそう思わなかった」
自分で言っていて嫌になる。今ここで振り返ると明らかにおかしい事象があった。けれどその場では、私はそれを大きな異常として受け取っていなかった。
「なんか、山羊頭の人がいて」
言った瞬間、パケラスの眉がぴくりと動く。
「山羊頭?」
「うん。ほんとに山羊だった。頭だけ。でも、喋り方とか振る舞いは普通に人間で……店員って感じだった」
今度は沈黙が少し長かった。
ベリタスがごく小さく視線を横へ流す。声もそれに合わせて落ちた。
「あの時イグナスを足止めしてたゴートかしら」
小声だったが静かな部屋では十分聞こえる距離だった。パケラスは一瞬だけ首を傾げる。
「さあなあ」
それだけ言ってから、彼はまた私の方を見る。
「その山羊さん、ウェイトとどんな関係やったか覚えてる?」
私は少し考える。店の匂い。布の擦れる音。鏡の多さ。ローブの重み。山羊の頭。細い指。喋り方。そこに露骨な親しさはなかった気がする。
「……うーん」
私は首をひねる。
「他人行儀だった、と思う。ウェイトに対して妙に馴れ馴れしい感じはなかった。知り合いではあるんだろうけど、近くはなさそうっていうか」
パケラスは何も言わず視線だけ落とす。そのまま考え込んでいるのが分かる。ベリタスも記録板へ何かを書いた後ペン先を止めたまま黙っていた。二人とも沈黙しているのに、考えている方向は多分違う。そういう黙り方だった。
私はその間、自分の話した内容がそんなに大きかったのかと少しだけ戸惑う。山羊頭の店員がいる服屋なんて、今となってはどう考えてもまともじゃない。なのにその場の私はそこにほとんど驚いていなかった気がする。頭がおかしかったのか、世界の方がそう見えるように整えられていたのか、どっちもありそうで嫌だった。
パケラスが先に顔を上げる。
「続けてええで。その店でローブ買ってどうなった」
私は小さく息を吸う。
「ローブ着たまま店を出たんです」
その瞬間の空気は、今でも妙に手触りがある。布が肩へ落ちる重み。店の扉をくぐる感覚。外気の冷たさ。街の音。それらは覚えているのに、そこから先の時間だけがどこかで歪んでいた。
「そしたら、やたら時間が進んでて」
私は言葉を選ぶ。けれど、どの言葉もしっくりはこなかった。
「おかしかったんだよね。体感と一致しないというか、周りの空気だけその先に行ってる感じで」
ベリタスがそこで初めて口を開く。
「時計を見た?」
「見た、と思う。でも数字そのものより、違和感の方が先だった」
「違和感?」
「……時を進めさせられている、みたいな」
口にした瞬間、自分でもぞっとした。
進んだのではない。進められた。そう言うのが一番近い気がした。私の感覚だけが置き去りにされて、外側の夜だけが勝手に先へ送られていく感じだった。
パケラスの指先が机の上で一度だけ動く。癖なのか、考えるときの拍子なのかは分からない。
「時を進めさせられてる、か」
その繰り返し方には、軽い相槌以上の意味があった。
私は頷く。
「うまく説明できないけど。急に夜が深くなった感じがした。歩いた距離とか店にいた時間とか、自分の中ではそこまで経ってないのに、街の方だけ先に進んでるみたいな」
ベリタスはまた何かを書きつける。今度は少しだけペン先が速い。
記録室の空気は相変わらず白くて冷たい。窓の外の朝はもう完全に明るいはずなのに、ブラインドで切られた細い光の筋だけが、机の端を白くしている。私は自分の両手を見た。指先は少し冷えていたが、震えてはいなかった。
山羊頭の店員。ローブ。進みすぎた夜。
そこまで話してしまうと、あの時自分がいた場所が、普通の銀座から少しずれていたのだと今さら分かる。いや、気づいていなかっただけで最初からずっとそうだったのかもしれない。
パケラスはそれ以上すぐには質問を重ねなかった。ベリタスも黙っている。二人とも次の言葉を選んでいる気配だけがある。
「時間のズレが出たんは、店を出てすぐか?」
パケラスがそう聞く。声は穏やかなままだが、さっきより少しだけ芯が硬い。
「うん。すぐだったと思う」
「景色は変わった?」
「景色そのもの、っていうより……空気かな。人の流れとか音の遠さとか。さっきまで同じ場所にいたはずなのに、街だけ先に夜の深いところへ行ってる感じ」
そう言いながら自分でも曖昧だと思う。けれどそれ以上の説明はできなかった。街灯の白さは変わらない。ショーウィンドウの明るさも、車のヘッドライトも、銀座として見ればちゃんと銀座だ。なのに、自分の体感だけがそこへ噛んでいない。足を動かしているのに、地面へ置いていかれているような感覚だった。
ベリタスが小さく口を開く。
「ウェイトはその時、何か言ってた?」
「……あんまり」
私は眉を寄せる。
「喋ってたとは思う。でも、内容より隣にいることの方が強かった。私が時間の気持ち悪さに引っかかるより前に、もう全部知ってる感じで立ってた」
ベリタスはそれに返事をしない。けれど、その無言がそのまま納得にも近かった。
パケラスは机の上で軽く指を鳴らすみたいに動かしてから、話を先へ運ぶ。
「その後、どこへ行った」
私は少しだけ息を整えた。順番はまだ途切れずに残っている。服屋。ローブ。時間のズレ。その次。
「その後……フレンチに行ったんだよね」
口にすると場違いな単語だとまた思う。銀座でローブを着せられたあとにフレンチ。文として繋がっているのに現実味が薄い。
「めっちゃ高そうな店だった」
パケラスの眉がほんの少し上がる。
「そこは普通の店やったか?」
聞き方が妙で逆に少しだけ安心する。常識の確認ではなく、異常の濃度を測っている人の問いだ。
「店自体は普通だったと思う」
私は記憶の中の内装を辿る。白いクロス。磨かれたグラス。静かな照明。皿の余白。スタッフの足音まで抑えられていて、店の中だけ別のルールで動いている感じであった。少なくとも、山羊頭の店員が立っている服屋よりはずっと普通である。
「ちゃんとしたフレンチって感じで。綺麗で料理もよくて、なんか……私がそこにいていいのかなって思うくらいには」
「そこで食事したんやな」
「うん」
私は頷いてからその先を言う前に少し間を置く。
「でも、途中でもう魍骸が出て」
部屋の空気がまた一段だけ締まる。今度は二人とも反応が分かりやすかった。パケラスは息だけで続きを促し、ベリタスは記録板から目を上げる。
「滅茶苦茶になった」
思い出そうとすると途端に音が増える。皿の割れる音。椅子の脚が床を引っかく音。悲鳴。布が擦れる音。何かが崩れる気配。白いクロスの上へ飛ぶ血飛沫。厨房の方から流れてきた熱と匂い。さっきまで料理を運んでいた空間と同じ場所だと思えなくなる瞬間。
「最初、何が起きたか分からなかった。静かな店内が急に剥がれるみたいになって。人が逃げて、倒れて、音が一気に増えて……」
私の指先が机の上で少しだけ動く。意識して止める。
「でも、ウェイトが倒してくれたよ」
……自分でもその言い方が変だと分かる。助けられた話をしているみたいなのに、胸の奥に残る手触りはもっと冷たい。けれど、事実として先に浮くのはそこだった。魍骸が出て、店が壊れて、ウェイトが対処した。順番としてはそうなる。
パケラスはそこで小さく息を吐いた。呆れたような納得したような、どちらにも寄りきらない音だった。
「アイツも変な芝居打つなぁ」
独り言みたいに言う。
「全部自分で仕掛けてるのに」
その言葉は重くもなく軽くもなかった。前から知っていた癖を確認するような声音だった。
私は顔を上げる。
「……仕掛けてるって」
問い返しかけたところで、ベリタスが無言のままパケラスを見る。その先をどう扱うのか測っている目だった。パケラスはそれを横目で受けてから、すぐには深追いしないことにしたらしい。
「いや、こっちの話や」
そう言って、彼は軽く肩をすくめる。
「君はその時、ウェイトがどうやって魍骸を処理したか覚えとる?」
話題を戻されて、私は一度だけ目を伏せる。
「……ちゃんとは覚えてないけど」
口にしてから、少し言い直す。
「でも、なんかすごく自然に魔法? 魔術で倒してた。慣れてる感じで」
その言い方に、今度はベリタスの方がわずかに目を細めた。
私はそれ以上うまく続けられなかった。自然に倒してくれた。普通なら救いとして残るはずのその記憶が、どうしてか少しも安心に繋がらない。料理の湯気と血の匂いが同じ場所にあって、その真ん中でウェイトだけが最初から結果を知っていたみたいな顔をしていた気がする。
記録室の空気は白く乾いている。窓の外は朝なのに、私の中ではまだ銀座の夜の続きが終わっていなかった。
山羊頭の店。進みすぎた時間。高そうなフレンチ。魍骸。ウェイト。
そこまで辿ると、点だったはずの記憶が嫌な方向へだけ薄く繋がり始める。私は無意識に机の端を指先で撫でた。




