82.夢渡の指輪
「……その後、ウェイトと一緒に逃げた」
私は記憶の中の夜を手探りする。銀座の空気。崩れた店から離れる足音。人の流れ。どこか高い場所へ向かう感覚。
「和光だ。銀座和光に行ったと思う」
パケラスが小さく顎を引く。
「屋上まで?」
「うん、多分」
多分とつけた瞬間、横に立つベリタスの気配がまたほんのわずかに動いた。
「……そこまでは覚えてる」
私は机の木目へ視線を落としたまま続ける。
「でも、その後の記憶がない」
ないというより、そこから先だけ白く潰れている。思い出そうとすると、夜景の光だけが先に浮かぶ。高い場所の風。街の明かり。隣に誰かがいた感覚。それだけで、肝心の中身がない。
パケラスはすぐには深追いしなかった。軽く相づちを打つ。
「ほう」
内容の重さを知った上で、あえてそこへ重さを足さない声音だった。
「和光まではある、と」
「うん」
「そっから先はないんか」
「……そんな感じ」
そこで彼は少しだけ椅子へ座り直した。今までの線を一旦切って、別の角度から入ると決めたような間だった。
「じゃあ、話変えるで」
私は顔を上げる。パケラスの目は相変わらず穏やかだが、質問を選ぶとき特有の起き方をしていた。
「――ルビーの指輪はどこで手に入れたん?」
私は一瞬だけきょとんとした。その質問がここで来るとは思っていなかったからだ。けれど聞かれてみれば、確かに銀座の夜と同じくらい嫌な輪郭を持った物ではあった。
「あー……ウェイトから貰ったんだよね」
パケラスは何も言わず続きを待つ。私は少しだけ考えてから言葉を足した。
「夢の中で」
今度は二人の気配がはっきり変わった。
記録室の空気が一度だけ止まる。パケラスがこちらを見る。ベリタスも同じだった。どちらも大袈裟に驚いたわけではないのに、その一瞬だけ話の意味が部屋の中で少し浮いた。
「……夢?」
聞き返したのはパケラスだった。
「うん。夢の中の目黒川沿いのカフェで」
そこで彼は眉を上げる。
「それ、ほんまか?」
半分は私に、半分は横のベリタスへ向けた問いだった。ベリタスは数秒だけ私を見てから、低く返す。
「嘘は言ってないわね……」
その返答が余計に変だった。
嘘ではない。けれど説明としてはおかしい。おかしいまま通ってしまうから余計に気味が悪い。
パケラスは眉間を軽く押さえるような仕草をして、それから私の方を見直した。
「夢ってどういうことや」
至極真っ当な聞き方だった。
私だってそう思う。夢の中の目黒川沿いのカフェって何だ。場所だけ妙に具体的なのに、そこへどうやって行ったかは分からない。
「……そんなこと聞かれても」
私は少しだけ眉を寄せる。
「夢は夢だったよ。普通に寝てるときの夢みたいな感じで。でも場所は目黒川沿いのカフェにウェイトがいて、そこで指輪を渡された」
「渡されただけか?」
「うん。まぁ、一緒にお茶はしてたけど。その時はまだ着けてないよ。見せられて受け取った……みたいな感じ」
そこまで言うと、指輪の赤だけが妙にはっきり浮かんだ。夜の中で沈まずに残る赤。宝石の色というより、目を閉じた後にも残る光みたいな赤だった。
パケラスはそれ以上すぐには言葉を継がなかった。
ベリタスだけが記録板の上にペン先を置いたまま静かに私を見ている。嘘ではない。だからこそ厄介だ、とその沈黙が言っている気がした。
私はその居心地の悪さを誤魔化すみたいに、また机の木目へ視線を落とす。和光の屋上の先が抜け落ちていて、指輪は夢の中で渡されていて、そのどちらも嘘ではない。そういう形で机の上に並べられると、自分の記憶の方が現実から少しずつ弾かれていくみたいだった。
パケラスはしばらく黙っていたが、やがて軽く息を吐いた。
「ほな、その指輪いつ着けたか覚えとる?」
私はそこで少しだけ眉を寄せる。
着けた瞬間そのものが大きな出来事として残っているわけではなかった。夢の中では渡されただけで、そこではまだ指に嵌めていない。けれど、指輪を持っていることが当然になっていた時間はある。その境目を探ろうとすると、目が覚めた直後の白さに行き当たる。
「……起きてからすぐだったかな」
「起きてすぐ?」
「うん」
パケラスは少しだけ表情を変えた。今までの胡乱な軽さをほんの少し下げて声も落とす。
「ほなら君は、ムートになんちゅうことしたか覚えてるのか?」
部屋の温度が一段だけ低くなった気がした。
ムート。
その名は知っている。知っているはずだった。なのに今その名前を向けられると、頭の中で何かが引っかかるだけで形にならない。私は反射みたいに顔を上げたが、何を返せばいいのか分からない。
「……何、って」
その問い返し自体がほとんど答えだった。
私は考える。必死に考える。けれど、そこから先に進もうとすると何かの前で記憶が滑る。怖いほど綺麗に。
「覚えて……ない」
言い切るまでに少し時間がかかった。思い出せないのか見ようとしていないのか、自分でも分からなかったからだ。
「ムートに何をしたのかも……」
横に立つベリタスは何も言わない。その沈黙だけで、私が誤魔化していないことは十分伝わった。
パケラスは天井を仰ぐみたいに顔を上げ、それから椅子の背にもたれた。
「あーもー、ややこしすぎるやろ……」
心底うんざりした声だった。医者とも観察者とも違う、面倒な病例を前にした人間の素の愚痴に近い。彼はそのまま記録板を机へ置き半ば投げ出すように腕を組んだかと思うと、今度はその腕を枕にするみたいに机へ伏せた。
「ちょい待て、ジジイもう一回整理する……無理や……」
ふて寝という言葉がぴったりの姿勢だった。深刻な話をしていた最中のはずなのに、その投げやりさだけが妙に人間臭い。私は呆れるより先に少しだけ面食らう。
けれど、その空気をベリタスが一刀で切った。
「あんたもよく大罪人の前でそんな呑気なこと言えるわね」
冷たい声だった。叱るというより、事実を事実の温度で置くだけの言い方だった。
机に突っ伏したままパケラスが片目だけ上げる。
「呑気やないで。脳みそが処理落ちしとるだけや」
「同じよ」
「同じちゃう」
その応酬を聞きながら、私は自分の指先を見る。
ルビーの赤は今はここにないはずなのに、視界のどこかに残っている気がした。起きてすぐ着けた指輪。ムートに何をしたかすら分からない空白。その全部を前にして私は黙っているしかなかった。




