80.審問の前
「まあ、こんな話した後やけど、検査するから少し移動するで」
そう言われ、私は車椅子に座らされた。膝の上には薄い毛布までかけられて、足先の逃げ場だけが妙になくなる。床はよく磨かれていて、車輪が進むたびに低い音だけが規則正しく返ってくる。
押しているのはパケラスだった。今日は鼻歌もなく、白衣の裾だけが視界の右端で時々揺れる。私は行き先も聞かないまま前を見ていたが、廊下を二度ほど曲がったところで、ふいに別の足音が合流した。
「運ぶなら先に言って」
女の声だった。低くはないが平坦で、余計な熱がほとんどない。
視線だけ向けるとベリタスがいた。薄い色のスクラブの上にカーディガンを羽織り、髪は後ろで雑に束ねられている。整った顔立ちをしているのに、それを柔らかく見せる気が最初からないみたいな立ち方だった。看護師という肩書きは知っている。けれど病院の人間に期待しがちな愛想や緩衝材みたいなものはほとんどなく、眠れていないまま朝を跨いだ人間の乾きだけが残っている。
「いやあ、起きてすぐ連行は画が悪いやん」
「画の話はしてない」
ベリタスはそれだけ言って私の左側へ回った。その途中で一度だけ私の顔を見る。心配はない。敵意をむき出しにしているわけでもない。ただ、好意は一切乗せていない目だった。
「顔色は昨日よりマシね」
「……どうも」
「別にあなたのために言ったわけじゃない」
そこで会話が切れる。あまりに綺麗に切られて逆に少しだけ息が詰まった。
行き止まりに近い場所にある扉の前で車椅子が止まる。無機質な白い扉で、札だけが小さく掛かっていた。
記録室――。名前だけ見れば事務的だが、扉の向こうにあるものはどう考えてもそれだけでは済まない気がした。
部屋へ入った瞬間、温度が少し下がる。
医務室より照明が落とされており、中央に長机が一つ、その両側に椅子。壁際には術式盤と、紙の記録を収めた棚が並んでいる。窓はあるが半分だけブラインドが下ろされていて、外の朝は細長い光の筋に切られていた。白さは同じなのにさっきまでいた医務室とは質が違う。休むための白ではなく、見られるための白だった。
「ほんとに取り調べ室みたい」
思わずそう言うとパケラスが後ろで笑った。
「せやろ。雰囲気作りは大事や」
「違う。ただの記録室よ」
ベリタスはそう言って、机の向こう側の椅子を引いた。音が短く床の上を乾いて擦る。
「座れる?」
「……多分」
立ち上がると膝が少し危なかったが、彼女は必要なぶんだけ手を貸した。支え方は正確だったが、転ばせないために触れているだけで安心させるつもりは最初からないのが分かる。私はそのまま椅子へ移った。机の木目は薄くよく拭かれていて、アルコールの匂いがかすかに残っている。
向かいではなくベリタスは少し横へずれた位置に立った。そして、向かいの椅子に腰を下ろしたのはパケラスだった。
「ほな、始めよか」
軽い言い方なのに、その一言で部屋の空気が少しだけ締まる。
私は机の上に置かれた自分の手を見る。昨日より指先の色はある。けれど、こうして座らされるとやっぱり逃げ場のなさが先に立つ。白い部屋で静養していたときより、今の方がずっと現実的だった。ここからは聞かされるだけでは済まない。私も話す側になる。
「そんな身構えんでもええよ、とは言わへんけど」
パケラスは肘を机につかず、ゆるい姿勢のままこちらを見る。
「責めたいわけやない。君の中で何がどう残っとるか、順番に見たいだけや」
私は小さく息を吐く。
「……尋問みたいだけど」
「半分はな」
そこでベリタスが口を挟む。
「何も誤魔化さなければ長引かないわ」
短く冷たい。余計な説明がない分、それだけで圧になる。
私はそちらを見た。ベリタスは腕を組むわけでもなく、ただ立っているだけだった。なのに見張られている感じがする。多分この人は、部屋の中に黙って立っているだけで役に立つのだ。
「……嫌われてる?」
思わずそう言うと、ベリタスは少しも表情を動かさなかった。
「その質問に答える必要ある?」
声色も変わらない。否定しないのが一番分かりやすかった。
「はいはい、空気悪くせんで」
パケラスが割って入る。
「姐御は元からこういう感じや。気にしたら負けやで」
「フォローになってない」
「知っとる」
そんなやり取りをしている間も、ベリタスの視線は私から外れない。冷たいだけでなく選別しているみたいな見方だった。ハディートの近くにいる人間は等しく嫌いだと、誰かに説明されなくても分かる気がした。理由までは知らない。でも、私はその範囲に雑に入れられている。
パケラスが小さく咳払いをする。
「ほな、軽いとこから確認しよか。名前」
「……朱音」
「年齢」
私は少しだけ詰まった。さっきまでなら即答していたはずの数字が、一拍遅れて出る。
「27……だと思う」
その瞬間だけ、ベリタスの視線が少し鋭くなる。
「だと思う?」
短い刺し方だった。
「いろいろ話聞いた後だと自分の経歴に自信なくなるでしょ」
私がそう返すとベリタスはそれ以上何も言わなかった。怪しいとは思っていない、ということなのだろう。黙られる方がむしろ落ち着かない。
パケラスが続ける。
「じゃあ27な。今、自分がどこにいるかは分かる?」
「監察局? だよね……」
数秒だけ沈黙があって、それっきり何も来ない。これも通ったらしい。私は内心で少しだけ呼吸を戻す。
「そんな怖い顔せんでもええやん」
パケラスが私に言う。
「君が思い出せる範囲でええんやから」
「思い出せないって言ったら?」
「それはそれで情報や」
そこでベリタスが淡々と足す。
「分からないことを分かるフリされる方が嫌よ」
私は机の木目へ視線を落とした。アルコールで拭かれたあとの少し白けた筋が見える。記録室は静かだった。廊下の音も届かない。遠くで何かの機械音が小さく鳴っているが、それも医務室よりずっと薄い。ここでは話す音だけがやけに目立つようにできているらしい。
パケラスが椅子へ少しだけ身を乗り出す。
「ほな、本題いこか」
その声はあくまで穏やかだった。
なのに私は無意識に自分の指先を重ねる。まだ少し冷えている。けれど昨日みたいに自分のものではない感じは薄い。薄いはずなのに、この部屋へ座らされるとまた輪郭が揺らぎそうになる。
「――銀座で何があったか」
その単語だけで、喉の奥が薄く冷える。
全部が一本の線にはならない。けれど断片はある。店の灯り。高い窓。皿の白さ。グラスの縁。割れた音。誰かの視線。血の匂い。夜の光。あれは確かに私の中にある。あるのに、触ろうとするとまだ少し遠い。
パケラスは私の顔を見たまま、静かに続ける。
「覚えとる範囲でええ。最初に引っかかるとこから話してみ」
ベリタスは何も言わない。ただ横で私が口を開くのを待っていた。




