79.創られた過去
私が黙ったままでいたが、パケラスはすぐには次の言葉を重ねなかった。問い詰めたいわけではないのだと示すみたいに一度だけ視線を落とす。それから、ごく小さく息を吐いた。昨日の軽口とも今朝のとぼけた調子とも違う。診察室の奥でカルテを閉じるときみたいな音だった。
「……すまんな」
声は低かった。謝っているのに、逃がすための謝罪ではない。ここから先は言う、と決めた人間の声音だった。
「こんな聞き方したらしんどいのは分かっとる。せやけど、ここを避けると多分後で君の方がもっとしんどい。気持ち悪さだけ残る」
私は答えない。答えられないというほどでもなかった。親のことを聞かれても、やっぱり何かを失った感じはしないからだ。喪った記憶を探しているのではなく、最初からなかった引き出しを他人だけが開けようとしているような妙なズレだけがあった。
パケラスは椅子に座ったまま膝の上で指を組んだ。軽口を挟めばまだ少しはこの部屋の白さも和らいだかもしれないのに、彼はそうしなかった。私の顔色を見て、今それをやるのは違うと判断したのだろう。
「君には、自分の過去がよう分からへん」
断定だった。
「経歴は言える。大学を出て、仕事して、人間関係も一応繋がっとる。社会の中で君がどう生きてきたか、その表面の筋道は通せる。でも、どれも情報として薄い。知識としては出てくるのに体温がついてこん。逆に親のことだけは、最初から空欄のままや」
「……だから?」
自分でも少し尖った声になったと思う。
けれどパケラスは眉一つ動かさなかった。怒らせても怯えさせても、ここで言うべきことは変わらないと決めているらしい。
「君は多分、ハディートと会う以前の記憶を全部ウェイトに創られてる」
白い医務室が、そこで一段深く静かになった気がした。
私は反射的に顔を上げる。
「……は?」
「結論だけ先に言うた。順番に話す」
「でも、この前大学の友達とチャットしたよ」
噛みつくみたいに言うと、パケラスは即座に頷いた。
「したやろな」
あまりに迷いなく肯定されて、逆に言葉が止まる。
「それも込みや。ウェイトが、君の人生に不自然さを出さへんために願ったんやろ。大学の友達がおる。やり取りの履歴も残っとる。卒業して、就職して、前の職場を辞めて、今に繋がってるように見える。そういう連続性がなかったら、君自身が先に違和感を持つ」
「じゃあ、親の記憶まで創るもんじゃない?」
「普通の発想ならな」
パケラスはそこで少しだけ首を傾けた。私に説明するというより、自分の中で一度組み立て直している感じだった。
「でも、アイツにはその発想自体が薄かった。そもそもウェイトには、家族いう概念がほとんどない」
私は黙って彼を見る。
それでも、いくら聞いても親がいないこと自体は不自然には感じなかった。ただ、その理由を外から説明されるのは変な気分だった。私の中では最初から空気みたいに無かったものを、急に標本みたいに机に載せられている。
「尋問して言質も取っとる」
パケラスの声は淡々としていた。
「ウェイトの育ったところでは、『親』いうもんは産み続ける機械みたいな扱いやったらしい。産んだ後に育てるわけでもなければ、情を注ぐわけでもない。生まれた個体はそのまま教育機関に回されて、そこで育てられる。せやから自分を産んだ存在が誰かも知らんし、知りたいとも思わん。興味を向ける対象ですらない」
その説明は乾いていた。冷たいというより、水気が最初から削ぎ落とされている感じだった。なのに、私の中ではその話が妙に素直に収まってしまう。
ああ、だからか、と思った。
親がいないのではない。そこを必要な項目として置かれなかっただけだ。そう言われると、空白は空白のままで変に整ってしまう。
「……だから、そこだけ創れなかった」
「創れなかったというより、創る必要を感じへんかったんやろな」
パケラスは言う。
「大学も職歴も友人関係も、『君という人間』を社会の中で成立させるには要る。けど親は違う。アイツの感覚やと、無くても不都合のない欄やった」
私は白がゆを見下ろした。湯気はもうほとんど立っていない。匙を少し差し入れると、米粒の輪郭がゆるく崩れる。
親のことを言われても胸は痛まない。喪失感もない。そこは本当にそうだ。けれど別の場所が冷えていく。
「……じゃあ、私は何なの」
その問いだけは、自分でも少し掠れていた。
パケラスはそこで一度も目を逸らさなかった。白い部屋の中で、彼の目だけが妙に濃く見える。
「――ホムンクルスや」
私はすぐには反応できなかった。
意味を知らないわけではない。錬金術。人造人間。人工生命。そういう連なりの中で何度か触れた単語だ。知識としてはある。けれど、それを今私に向けて使われると急に言葉の重さが変わる。文学や講義や都市伝説の中にあったものが、自分の皮膚の裏にまで入り込んでくる。
「……えっ?」
「君は人間の女から普通に生まれた存在やない。人の形を取るように創られた存在や。せやから親の記憶がないんやなくて、最初から親という項目が君の根に存在してへん」
私はしばらく何も返せなかった。
親がいないことに違和感はない。そこは本当にそうだ。
けれど、自分が人間ではなく創られたものだと言われると話は別だった。急に、自分の手や爪や喉の渇きまで全部借り物に見えそうになる。
「でも、私は普通に生きてた」
やっとそれだけ言うと、パケラスは頷いた。
「普通に生きるように整えられとったんやろ」
慰めるわけでも残酷に切るでもなくそのまま言い放った。
「街に出て、学校へ行って、働いて、人と繋がって、自分を一人の人間やと思えるようにな。ウェイトが記憶や履歴の辻褄を足した」
私は白がゆをひと掬いしたが、口には運べなかった。親のことでは揺れない。そこは空白のままでいい。けれど、自分がホムンクルスだと言われると、今まで自分だと思っていた輪郭そのものが少しだけ薄くなる。
「……じゃあ、私の人生は偽物なの」
「全部が偽物とは言わん」
パケラスは静かに返した。
「君が感じたことまで嘘になるわけやない。笑ったことも、嫌やと思ったことも、退屈して仕事辞めたことも、多分君の反応としては本物や。せやけど、その土台に敷かれた過去や整合の一部は、後から継がれたもんやった。そういうことや」
私はようやく匙を口に運んだ。
味は薄かった。ほとんど何もないみたいな白い味だったのに、飲み込むのに少し時間がかかる。
「君が親の不在を不自然に思わんのは当然やで」
パケラスが言う。
「欠けてるんやなくて、最初から要らんものとして創られとるんやから」
その言い方は残酷なはずなのに、不思議と慰めに近かった。
沈黙が少し長くなってから、パケラスがまた口を開いた。
「……ただな」
私は顔を上げる。
「ウェイトは、君をただの器として創ったわけやない」
その言い方に、胸の奥がわずかに引っかかった。
「どういうこと」
「正確には、器のままでは足りへんと考えとった、やな」
パケラスは肘を膝に置き、組んだ指先へ視線を落としたまま続ける。
「人の形に整えて、社会の中に置いて、人生らしいもんを与えて、それで終わりやなかったいうことや。アイツは多分、君を本来の意味の魔術師へ近づけたかった」
私は無意識に息を止めていた。
「君はホムンクルスや。けど、ただ創っただけの器では本来の意味での魔術師には届かへん。アイツはそう考えたんやろな。せやから外へ出した。人間の社会に混ぜて、経験を積ませて、最後に本物の魔術師へ接触させる。その工程ごと君に踏ませた」
「……ハディート」
「せや」
パケラスは静かに頷く。
「ウェイト目線やと、自分が創り出した器を魔術師に会わせたら本来の意味の魔術師に近づくんちゃうか、という発想やったんやろ。君にとっては人生でも、アイツにとっては工程や」
私は持っていた匙を器に戻した。小さな金属音が鳴る。
工程。
その言葉の方が、ホムンクルスより嫌だった。創られたことより、創られた上で更に誰かの仮説のために生活を踏まされていたことの方がずっと気味が悪い。大学に行ったことも、働いたことも、飽きて辞めたことも、誰かに会ったことも、夜を歩いたことも、その全部が観察や誘導の一部だったみたいに見えてしまう。
「……じゃあ、私がハディートに会ったのも偶然じゃないの」
問いはほとんど息と一緒に出た。
パケラスは少しだけ間を置いた。その間が、曖昧に嘘をつくためのものではないことは分かった。
「偶然だけではないやろな」
やがて彼はそう言った。
「完全に敷かれたレールやった、とまでは僕も断言せえへん。人がどの店に入り、どの夜に誰と会うかなんて、全部を一本で縛れるほど世界は単純やない。ただ、ウェイトは君が本物へ近づくために、どこかで魔術師との接触が要ると考えとった。その上でハディートに行き着いたなら、アイツにとっては十分狙い通りやったはずや」
「気持ち悪い……」
自分の声なのに他人行儀に聞こえた。
パケラスは否定しない。
「せやな」
それだけを返す。
「気持ち悪いしかなり趣味が悪い」
「じゃあ、銀座で――」
そこまで言って喉が詰まる。
銀座。魔術師。暴れた。戻された。混同。その単語たちはまだ全部が繋がっていないのに、今の話を聞いた後だと嫌な方向へだけ筋が通り始める。
パケラスは私の続きを待たずに受け取った。
「本当に魔術師になっちゃったけどなぁ」
独り言みたいに、けれどはっきりそう言った。
軽口にしては重すぎて、皮肉にしては感情が薄い。観察結果を口にするみたいな声だった。
私は彼を見る。
パケラスはそこで初めて少しだけ目を細め、苦笑に近いものを浮かべた。
「多分ウェイトは近づけばええくらいの感覚やったんやろな。器が本物に触れて、その気配を帯びて、いつか境界をまたげばええ。そのくらいの仮説やったはずや。せやけど、実際には君は境界を跨いだ。しかも思ってたよりずっと激しい形でな」
「……私は、暴れたんだよね」
「暴れた」
その返事は短かった。
「止まらへんかった。止めても戻らへんかった。君は君のまま壊れたわけやなくて、君という器の上から、別の定義が被さったみたいな状態やった」
「別の定義」
「君は元々、願いの器として作られた側の存在や。そこへ魔術師化が走った。器としての性質と、魔術師としての条件が噛み合ったらどうなるか。まあ、見たくない実例が出来上がったわけや」
私は白がゆの表面を見る。さっきよりも冷めていて白さだけが残っていた。食べ物の形をしているのに、妙に無機質に見える。
「それで、ハディートが」
「せや」
パケラスの声が少しだけ低くなる。
「ハディートは、君を『君』として引き戻した。ウェイトが器に本物を近づけようとした結果、器は本物になりかけた。けど、その接触を逆に使って、ハディートは君を朱音として引っ張り直した」
私は昨日から何度か聞かされた説明を、今さら別の角度から受け取る。ハディートが命を差し出した。私の中に魂が混ざっている。混同。あれは代償でも救済でもなく、ウェイトが進めた工程の途中へ無理やり手を突っ込んだ結果でもあったのだ。
「じゃあ私は……完成しそこなったの?」
自分でそう言ったが気味悪さを感じた。製品みたいだと思ったが他に言いようがなかった。
パケラスは首を横に振るでも縦に振るでもなく、少しだけ目を伏せた。
「その問いは、誰の側に立つかで答えが変わる」
「……何それ」
「ウェイトの側に立てば、君は想定以上に進んで想定通りには回収できへんかった器や。ハディートの側に立てば、君は『君』として取り戻された。僕の側に立てば、どっちの説明も雑やと思う。知らんけど」
その言い方に、私はようやく少しだけ呼吸を戻した。
「でも、一つだけ確かなのは」
パケラスは続ける。
「君はもう、ウェイトが最初に設計したままのホムンクルスではない、ということや」
その言葉は、意外にも少しだけ温度があった。
私は視線を上げたまま動けない。
「ハディートの魂が混ざった、いう話を昨日もしたやろ。あれは単なる応急処置やない。君を君として縛り直すための楔でもある。せやから、今の君は創られた器そのままでもないし、完成した魔術師そのままでもない。どっちにも完全には収まってへん」
「半端ってこと?」
「そういう言い方もできるし、境界におると言ってもええ」
パケラスは私の顔色を見ながら、言葉を置いていく。
「君が何を食って、何を感じて、何を選ぶかでこれから先の定義はまた変わるかもしれん。せやから僕は、とりあえず白がゆを食えと言うとるわけや」
あまりに地味な結論で、一瞬だけ言葉の重さが変な方向へ抜けた。私は思わず彼を見返す。
「……その流れでおかゆ?」
「大事やで」
パケラスは真顔で言う。
「君は本来、食わずとも生きていける側の条件を持っとる。けど食う、いう行為は人間の側に寄る。喉が渇いて、水を飲んで、腹が減って、温い粥を口に入れる。その反復は地味やけど、定義を固定するには効く」
「さっきの意味深な言い方、やっぱりそういう意味だったんだ」
「半分はな」
「半分は?」
「反応を見るためや」
あっさり言われて私はじろりと睨む。
パケラスはそこで少しだけ肩をすくめた。
「医者でもあるけど観察者でもあるからな。食事の話にどう食いつくかで、どっち側へ寄っとるか見たいのは当然やろ」
「趣味悪い」
「知っとる」
それだけ言って彼はようやく少し笑った。今朝初めて見る、ほんの薄い笑いだった。
私はその顔を見てから、白がゆをもう一口食べる。さっきよりは少しだけ味が分かった。米の甘みというほどではないが、何もないわけではない。冷えかけた器の底には、まだわずかに熱が残っている。
医務室の白い空気の中で、匙が器に当たる音だけが小さく響く。遠くでは機械音が変わらず鳴っていて、カーテン越しの朝はさらに明るくなっていた。
「……じゃあ、私が今まで会ってきた人たちは」
自分でも何を聞きたいのか曖昧なまま口にすると、パケラスは少しだけ考えた。
「全部が全部、幻や偽物やと言い切るのは雑やな」
「でも、創られた人生なんでしょ」
「敷かれた土台はそうかもしれん。せやけど、土台の上で君が何を感じたかまで全部他人のもんになるわけやない」
彼の言葉は、さっきと似ているのに少しだけ重みが違った。
「例えば、誰かと会って嫌やと思った。逆に、心地ええと思った。そういう反応は、その場その場の君が出したもんや。そこまで全部をウェイトの所有物にしたら都合が良すぎる」
私は無意識に指先へ力を入れていた。匙の柄が少しだけ滑る。
「せやから、全部を今日やろうとせんでええ。君は起きて二日目や」
二日目。
その言い方が少しだけおかしくて、私は器から目を離せないまま喉の奥でかすかに息を漏らした。生まれ直したみたいだ、という言葉は思いつかなかった。そんな綺麗な話ではない。けれど、昨日までの私と今の私の間に、何か断ち切れたものがあるのは確かだった。
「……私がホムンクルスだって誰が知ってるの」
パケラスは少しだけ目を細める。
「ベリタスは知っとる。あの人、一応本職は清瀬みたいな辺境の地で看護師やっとるからな。まあ、ここのトップのメイザースも知っとる。あとは、ジジイや」
彼はそこで止めた。ハディートの名をそこへ入れないのは意図的なのだろうと分かる。知っているのか知らないのか、その曖昧さまで含めて守っている感じがあった。
「……ハディートは?」
パケラスは露骨には困らなかった。ただ、言葉を選ぶように一拍置く。
「どこまで知っとるかを雑に断言する気はない」
「何それ」
「そのまんまや。アイツは勘のええ男やし、君の中で起きたことにもかなり近い場所におった。せやけど、最初からホムンクルスやと把握しとったかまで言うんは別の話や。人の認識をこっちが勝手に確定すんのも違う」
それは少しだけ、ハディートに対して公平な言い方だった。
私はそれ以上追わず、また白がゆを一口食べる。冷めてきたせいで、さっきよりも味が分かりにくい。けれど食べるたびに、喉や胃のあたりへ現実だけが落ちていく。
「……私、自分のこと気持ち悪いって思った方がいいのかな」
ぽつりとそう言うと、パケラスは珍しくすぐには答えなかった。
窓の外の明るさが少し増す。カーテンの端から差す光が、器の白へ細く乗っている。機械音は相変わらず同じ間隔で鳴り続ける。
「思いたかったら思えばええし、思いたくなかったら思わんでもええ」
やがて彼はそう言った。
「少なくとも、君がホムンクルスやから気持ち悪いという単純な話ではない。気持ち悪いとしたら、多分それは創り方とか、使い方とか、願い方や」
私は少しだけ顔を上げる。
パケラスは視線を外さない。
「君は君として起きて、水が欲しいと言って、白がゆを食っとる。それを見てる限り、ジジイは君の存在そのものを気味悪がる気にはならん」
「……でも、私は人間じゃないんだよね」
「人間やない、で終わらせるのも雑やな」
「じゃあ何」
「そこを急いで決めたがるの、皆悪い癖や」
パケラスはわずかに肩をすくめる。
「人間か、人間やないか。器か、魔術師か。そういう二択に綺麗に収まらへんから、今みたいな面倒な状態になっとるんやろ。君は多分、そのどっちにも半分ずつ足をかけとる」
「曖昧だね」
「曖昧やな。せやけど、現実は大体そうや」
私はそれに反論できなかった。
白がゆはもう半分くらいになっていた。食べるつもりはなかったのに、話しているうちに口へ運んでいたらしい。器の底へ匙が当たるたび小さな音がする。
「……ウェイトは、今も私を欲しがってるの」
その問いに、パケラスの顔からわずかに熱が引いた。
「……欲しがっとるやろな。ただし、前と同じ意味ではもう無理や。君は一回、向こうの狙い通りに壊れかけて、そこから引き戻されとる。ハディートの楔も入った。せやから最初に作った器としてそのまま回収するのは難しい。欲しがるほど扱いづらいはずや」
「じゃあ、もっと危ないってこと?」
「その可能性はある」
はっきり言われて、私は器の縁を見つめる。
怖い、と簡単にはまだ言えなかった。けれど、遠くでじわじわ音を立てて近づいてくるものの輪郭だけは分かる。銀座で何かが終わったのではなく、別の形で続いている。
「……私、ハディートに会いたい」
口に出してから、自分でもそれが衝動に近い願いだと分かった。
パケラスはすぐには止めなかった。
「会うこと自体は、まあ、そのうち叶うやろ」
「そのうち……?」
「今の君をこのまま放り出したら、ハディートの前に着く前に自分で倒れる」
淡々と返されて、私は黙る。
「それに、アイツに会う前に君の中で整理しといた方がええことがいくつかある。今の君が何を知って、どこまで分かってないか、それをアイツの側も掴んどきたいはずやしな」
「……また観察?」
「観察もする。会話もする。検査もする。めんどくさいやろけど、君いまそういう段階や」
私はようやく小さく息を吐いた。
腹が立たないわけではない。けれど、全部が腹立たしいだけでもなくなっていた。白がゆの熱みたいに、薄い現実が少しずつ身体へ入ってくる。
パケラスが器の残りを見る。
「もうちょい食えそうか」
「……食べる」
「よろしい」
その言い方が少しだけ昨日の鼻歌に近くて、私はまた彼の顔を見る。真面目な話ばかりしていたせいで忘れかけていたが、この人は元々医務室の足元で機嫌よく本を読んでいるような男だった。
「なに」
「いや」
私は首を振る。
「今日、全然ふざけないんだなって」
そう言うと、パケラスは一瞬だけ目を丸くしてそれから妙に困ったように笑った。
「朝っぱらからホムンクルス告知して、過去は創られとるかもで、魔術師化は実験工程です、まで言うてる相手にどのタイミングでふざけろ言うねん」
「普段ならもっとふざけそう」
「ふざけとる余地があればな」
そのあと彼は少しだけ真顔に戻り、付け足す。
「でも、君がその感想を言えるなら、まだ大丈夫や」
私はその意味をすぐには聞かなかった。聞かなくても、なんとなく分かった気がしたからだ。全部を飲み込まれているわけではない。こうして相手の調子を観察できているうちは、まだこちら側にいる。
器の底に残った白がゆを私はゆっくり食べる。冷めてしまっているのに、不思議と最初より口へ入りやすかった。
最後の一口を飲み込んでから、空になった器を見る。
白い粥を食べただけなのに、さっきより少しだけ自分の輪郭が分かる気がした。人間かどうかはまだ分からない。ホムンクルスだと言われても、その言葉はまだ皮膚の上で滑る。けれど、喉が渇いて、水を飲んで、白がゆを食べて、会いたい相手の名前を口にした。その順番だけは私のものだった。
パケラスが器を受け取ろうと手を伸ばす。
私はそれを渡しながら、ふともう一度だけ問いかけた。
「……私、本当に朱音なんだよね」
彼の手が止まる。
パケラスは器を持ったまま私を見た。今までで一番冗談のない顔だったが、不思議と冷たくはなかった。
「そこは疑わんでええ」
低く、はっきりと言う。
「君はホムンクルスやし、創られた器やし、過去の継ぎ目もある。ハディートの魂も混ざっとる。ややこしい条件は山ほどある。でも今ここで、その問いをしてるんは朱音や」
私は返事をしなかった。ただ、胸の奥に沈んでいたものの形がほんの少しだけ定まる。確信ではない。けれど手探りでも触れられる程度の輪郭だ。
パケラスは空の器を持って立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音がして、医務室の白さがまた少し動く。
「次は検査や。もうちょい具体的な話もする」
「具体的な話って?」
「まあ色々や」
「言い方が雑」
「雑なくらいがちょうどええ」
そう言って、彼は器を持ったまま数歩離れた。けれど部屋を出て行く前に、一度だけ振り返る。
「あと、会いたい相手の名前を口にできるうちは大丈夫や。そこも覚えとき」
その意味を私は聞かなかった。
聞けばまた説明が増えて、今の細い輪郭まで曇りそうだったからだ。




