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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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78.産み落とされた何か

固有名詞に他意はありません。

 翌朝、という言い方が正しいのかは分からなかった。目を開けたとき、部屋の白さは昨日とほとんど変わっていなかったからだ。

 消毒液の匂いはまだある。けれど昨日ほどきつくは感じなかった。きっと慣れたのだろう。身体の重さも消えてはいないが、少なくとも指先は自分の命令で動く。


 ふと匂いがしたので振り向くと、真横の小さな台に白がゆが置かれていた。


 湯気はもうほとんど立っていない。けれど完全に冷めきってはいないらしく、陶器の器のふちにうっすら熱の気配が残っている。その隣には匙と水の入ったコップがあった。

 それから、昨日と同じく医務室という場所にいるのに妙にくつろいだ雰囲気のパケラスがいた。彼は椅子に座って新聞のようなものを広げていたが、私が起きた気配に気づくと紙面から目だけを上げた。


「お、今日は昨日より生きとる顔しとるな」


 朝の挨拶にしてはずいぶん雑だと思ったが、声音は悪くなかった。私はベッドの背に少し体重を預け直し、視線だけで白がゆを示す。


「……これ」

「飯や」

「見れば分かります」

「ほな会話としては成功やな」


 平然と言われて私は返す言葉を少し失う。昨日も思ったけれど、この人は真面目に答える気があるのかないのか境目が曖昧だ。だが、その曖昧さのせいで真正面から緊張しすぎずに済んでいる部分もあるのが厄介だった。


 パケラスは新聞を適当に畳み、足元の椅子から立ち上がる。器を手に取って温度を確かめ、それから匙と一緒にこちらへ差し出してきた。


「食えるか」

「……多分」

「多分で十分や。まあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、こっちの方が人間っぽくてええやろ」


 匙を受け取る指がそこで止まった。


 私は顔を上げる。パケラスはまるで今の一言に何の重みもないみたいに器の底を覗き込んでいる。白がゆの表面はゆるく波打っていて、湯気の名残がかすかに揺れた。


「……どういう意味ですか」

「そのまんまや」

「そういうのは要らないです」

「全く、朝から厳しいなあ」


 そう言いながらも、彼はすぐに私を見なかった。言いすぎた人間の気まずさではなく、どう返すかを選んでいる沈黙だった。私は匙を持ったまま答えを待つ。喉の奥にまだ少し乾きが残っている。けれど昨日のように、水だけを求めていれば済む段階ではなかった。


「本来食わんでも生きていけるって、どういう意味ですか」

「そのまんまやで。君の身体は、まあ、普通の人間とは少し事情が違う」

「少しで済ませないでください」

「ほな多めに言うけど、今の段階で全部そのまま出したら君また寝込むんちゃうか」

「今、言って」


 自分でも思ったより強い声が出た。

 昨日からずっとどこかで溜まっていたのだと思う。二週間寝ていたこと。銀座で何かがあったこと。ハディートの命が私の中に混ざっていること。そのどれも、説明されるたびに余白だけ残して終わっていた。分からないまま休めと言われるのは、優しさというより保留に近かった。私は保留のまま大人しく寝ていられるほど従順な性格ではなかったらしい。


 パケラスはようやくこちらを見る。


「朝っぱらからハードやなあ」


 軽く言った後、彼は器を私の手の届く位置に置き、自分は椅子へ座り直した。膝の上で指を組み数秒だけ考え込む。鼻歌も冗談もない沈黙がその人にもあるのだと初めて知った。



「……順番変えるか」

「順番?」

「君に説明する前に、確認したいことがある」


 そう言って、彼は椅子の背に浅くもたれた。詰問する姿勢ではないが、誤魔化しを抜くための目になっている。



「――君、自分の過去をどこまで覚えとる」



 私は匙の先で白がゆを少し崩した。米粒は柔らかく煮崩れていて輪郭が曖昧だ。昨日の話からすると、そういう曖昧さを見せつけられているみたいであまり気分はよくなかった。


「……過去って」

「ざっくりでええ。君が君として生きてきた話や」


 私は少し考える。


 過去。そう言われて浮かぶものは確かにあった。

 ハディートと会ったこと。Ashveil。銀座。夜の街。湿った空気。ウェイトの声。しかし、それより前となると急に手触りが悪くなる。確かにあるはずなのに、引き出しの中身だけ抜かれたみたいに輪郭が軽い。


「……ハディートと会ってからなら、色々」

「その前」


 間髪入れずに言われ、私は口を閉じた。


 その前。もちろんないわけではない。ないはずがない。私は学校を出て仕事をして生きてきた。そういう順番は分かる。分かるのに、思い出そうとすると年表だけが先に出てきて、その間にいたはずの自分が薄い。


「えーっと……高千穂大学を卒業して……」


 自分の声が少し遠かった。


「その後は、まいばすけっとというところでスーパーバイザーの仕事をして……でも、飽きたから辞めて。それで太刀川司法書士法人に入ったんですけど、事務が全然できなくて首を切られて……」


 自分でも言いながら妙だと思った。

 出来事としては通っている。履歴書に書くなら問題のない文章だ。けれど、そこに匂いがない。職場の空気や机の感触、誰かの顔や、帰り道の景色みたいなものが驚くほど出てこない。過去を話しているはずなのに、私は用意された経歴を読み上げているだけみたいだった。


 パケラスもそれに気づいたのだろう。相槌を打たないまま静かに私を見ている。


「……それ以前は?」

「それ以前?」

「大学入る前やな。高校でも、中学でも、もっと前でもええ」


 私は眉を寄せた。


 前。もっと前……。

 当然あったはずだ。生きているのだから。制服。教室。試験。法律。民法。戸籍。そういう単語は知っている。知識としての輪郭はある。けれどそれが()のものとして繋がろうとすると、妙なところで滑る。夢の細部だけ拾おうとしているみたいに、手を伸ばしたところから崩れていく。


「……これというほどもなく普通でした」


 自分でも曖昧すぎると思う答えしか出なかった。

 パケラスはそこで追い詰めるようには来なかった。代わりに、ほんの少しだけ違う角度から切り込んでくる。



「じゃあ、君の親はどんな人や」


 私はその問いに、すぐには意味が取れなかった。


 親。

 単語は知っている。民法でも出てきたし、学校でも職場でも誰かが当然の前提みたいに使う言葉だった。子は親の嫡出推定がどうとか、親族の範囲がどうとか、扶養義務がどうとか、そういう説明だってできる。知識はある。

 でも、私にはその言葉がうまく接続しなかった。



「……()()()()()()()()?」



 パケラスの目が、そこで初めて明確に細くなる。


「死んだんか?」

「いや?」


 私は首を横に振る。


()()()()()()()


 その返答のどこがおかしいのか分からなくて逆に戸惑う。親という概念は知っている。写真も声も手の感触も浮かばない、という話ではなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 パケラスは一度視線を落とした。考えるというより、頭の中の何かと照合しているような沈黙だった。


「ほな、捨て子なんか?」


 言ってすぐ、自分でその雑さに気づいたらしい。


「まあ、捨て子でも誰かからは出てく……」

()()()って言ってるじゃないですか」


 思ったより冷たい声が出た。


 自分でも少し驚いた。怒っているつもりはなかったのに言葉の端が鋭くなっていた。苛立っていたのだと思う。知らないことを聞かれているからではなく、私の中では確かに空白でしかない部分をあるものとして扱われることに。


 パケラスがそこで軽口をやめた。


 冗談の余地が消えたのが分かった。白い医務室の空気が少しだけ張る。遠くの機械音だけが同じ調子で鳴っていて、それがかえってこの沈黙を浮かび上がらせた。



 彼は真っ直ぐこちらを見る。昨日、二週間眠っていたと告げたときよりもっと静かな顔だった。


「君は」


 一度だけ区切る。



「――()()()()()()()()()?」



 その言葉は、さっきまでの質問とは違った。


 親ではない。家族でもない。保護者でもない。もっと露骨で、もっと生物的で、逃げ道のない言い方だった。私は器の中の白がゆを見る。表面はもうほとんど動いておらず、私が匙で崩したところだけ形が曖昧になっていた。


 誰に。

 産み落とされた。


 その問いは知識の領域には乗らなかった。民法の条文にも履歴書にも職務経歴にも繋がらない。もっと深いところへ直で落ちてきて、そこにあるはずの何かに触れようとする。けれど触れた先にあったのは記憶ではなく、白い壁みたいなものだった。



「……」



 口を開こうとして、声が出ない。


 思い出せないとは少し違う。思い出す対象そのものが最初から置かれていないような、奇妙な空白だった。私は親を知らないのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()。そのことを今さら突きつけられて、背中の奥が冷えていく。


 パケラスは急かさなかった。けれど視線は外さない。

 私もまた、その問いから目を逸らせなかった。

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